第3話 吹雪の試練と、祈らぬ神父
孤児院の壁が、風のたびにミシミシと嫌な音を立てた。
梁の軋みが、骨にまで響く。 窓枠を押さえ込んでいたライネルは、指先に伝わる震えで、建物の限界を測っていた。
外は、白い怒号だった。
「司祭様……。この音、いつもより……」
背後でリナの声が震える。布団にくるまった年少の子どもが、彼女の腰にしがみついている。
「まだ大丈夫だ」
ライネルは窓枠を押さえたまま、短く答える。
「音がしてるうちは、梁がまだ踏ん張ってる証拠だ」
言葉は静かだが、握り込んだ指の節は真っ白に浮きあがっていた。
胸の奥を、ひゅ、と冷たい針が通り抜ける。 あの夜の、別の軋む音が喉元までせり上がりかける。
「司祭様?」
呼ばれて、ライネルは意識を現在に引き戻した。
「リナ、子どもたちを奥の部屋に集めろ。真ん中に寄せるんだ。壁から離せ」
「は、はいっ!」
「カイ、お前は窓と扉の補強だ。板でも箱でも、打ちつけられるもんは何でも使え」
「お、おう!」
カイは駆け出しかけて、ふと振り返る。 ちらりと見たライネルの顔に、見慣れないものを見つけてしまった。
大人の焦り――それでも、踏みとどまろうとしている目。
「……変な顔」
「後で文句を聞いてやる。今は走れ」
軽くあしらうように言いながら、ライネルは再び風の唸りに耳を澄ませる。
外では、吹雪が怒鳴っていた。 雪が窓を叩き、曇った硝子の向こうで世界の輪郭が消えていく。
◇
風が一瞬だけ、息をひそめた。
代わりに、遠くから金属の触れ合う音が近づいてくる。 ガシャ、ガシャ、と吹雪の音とは違う、重い響き。
ライネルは窓から身を離し、外套を掴んだ。
「司祭様、外行く気かよ! 今、扉開けたら雪が――!」
廊下の端からカイが怒鳴る。
「来客だ。迎えに行かんと失礼だろう」
「バカじゃねえのか! こんな時に来るほうが失礼だろ!」
その言葉に、ライネルは少しだけ目を細めた。
こんなふうに真正面から怒鳴られたのは、いつ以来だろう。
「すぐ戻る」
保証もない一言を置き、吹雪の白に踏み出した。
◇
黒い旗。 教会本部の紋章。
雪を踏みしめ進んでくる騎士たちの鎧が、凍りついた鉄の音を鳴らしていた。その前に、白い法衣の男――巡回司祭が立っている。
「グレイス司祭。到着が遅れてすまない」
吐く息は白いが、声は冷たく乾いていた。
「こんな夜にとは、ずいぶん熱心な視察だな」
ライネルは孤児院を背に、吹雪を正面から受ける位置に立つ。
「臨時通知だ。当孤児院は――本部の判断により一時閉鎖とする。構造の老朽化と、辺境地域における危険度の高まりを鑑み……」
紙が読み上げられるあいだにも、風が横から肘で小突くように吹きつけてくる。
「……すなわち、吹雪がおさまり次第、子どもたちは本部管理の施設へ移送される。今夜は一時的に、隣街の教会へ避難させろとの命令だ」
(避難、ね)
ライネルは唇の内側を噛んだ。 街の教会まで、この吹雪の中を。
そこまで運べても、戻る場所はもう「危険だから」と封鎖されるだろう。本部の帳簿から、この建物は二度と「居場所」として扱われない。
「……ひとつ聞く。本部は、この吹雪の中での移送ルートを見て判断したのか?」
「雪の状況は報告では――」
「報告じゃない。現場を見ろ」
ライネルは顎で背後を示した。 雪でかすむ中、かろうじて見える山道。足を滑らせたら、そのまま谷間に飲みこまれそうな斜面。
「あれを、震えあがってる子どもたちに歩かせろと?」
巡回司祭のまつげに雪が絡む。彼は一瞬だけ視線を泳がせた。
「だが命令は――。施設は危険だ。古い梁がいつ崩れるか……」
「危険だからこそ、今動かすな」
ライネルは一歩近づいた。足元の雪がギュッと悲鳴を上げる。
「ここを出たら、この孤児院は『空き家』として記録される。二度と戻る場所として扱われん。あんたらの帳簿ではそうだろう」
巡回司祭の視線がわずかに揺れた。
命令に背けばここへ飛ばされた時の様に……任を解かれるぞ、グレイス司祭。
そんな声が、吹雪の奥から聞こえてくる気がした。かつての上官か、あるいは自分自身の理性か。
「命令に逆らうなら、お前の身分は――」
「知ってる」
ライネルはあっさり遮った。
「司祭位の剥奪、支援金の停止、備品の回収。書類の文言なら暗唱できる。」
冷えた指先に、別の夜の感触が蘇る。あの時は守れなかった。
「……それでもここを動かしたら、この子たちは不安な時間をまた味わうことになる。あれは吹雪より冷たい」
風が、二人の間を叩き割るように吠えた。
巡回司祭は短く息を吐いた。
「……本部への報告には、『避難勧告を出したが、施設責任者の判断により建物内待機を選択』とだけ記す」
「逃げるのか?」
「君もわかっているだろう。私は命令を伝えに来ただけだ。雪崩の危険もある。私は私で騎士たちの命を預かっている。これ以上ここに留めるわけにはいかない」
騎士たちは既に、荷車を引き返す向きに回していた。
ライネルは背中で、孤児院の壁の限界を感じていた。
ここで「はい」と言えば、自分は安全な隣街の教会で一夜を明かせるだろう。子どもたちも一応、どこかへは連れて行かれる。帳簿の上では「救済」になる。
(だが、その間にこの場所は――「空き」になる)
空き部屋。空き家。空き施設。 どの言葉にも、「誰のものでもない」が貼り付く。
居場所でなくなる。
「俺は残る」
ライネルは答えを短くした。
「子どもたちもだ。あいつらを、この吹雪の中、外には出せん」
巡回司祭は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……ならば、自己責任だ。私は、命令通り避難を促したと報告する」
「好きに書け。ただ一行足しておけ」
「何をだ?」
「『現場責任者は、己の愚かさに基づき残留を選んだ』と」
皮肉を混ぜたつもりだったが、声の端に、微かな震えが乗る。 自分でも気づく程度の震えだ。
巡回司祭は、小さく苦笑した。
「……グレイス司祭。君のような愚かさを、我々は書類では測れん」
背を向け、騎士団に退却を命じる。 鎧の音が遠ざかっていく。
残されたのは、吹雪と古びた建物と、守ると決めてしまった命だけだった。
◇
扉を閉めると、外の怒号が少しだけ遠くなった。
「司祭様っ!」
礼拝堂の奥から、リナが駆け寄ってくる。頬は青白く、指先は紫色に枯れたようだ。
「本部の人たちは……?」
「帰った」
ライネルは礼拝堂を見回した。
子どもたちは毛布をかぶり、寄せ集めの薪に必死で火をくべている。炎は心許なく、時折、吹き込む隙間風に揺らされては細くなった。
「閉鎖って……本当に、ここ、なくなっちゃうんですか?」
リナの声は、火の揺れよりも小さい。
(この子たちは知っている。居場所を失くす痛みを、既に一度味わっている)
「――今夜を越えてからだ」
ライネルは短く答えた。
「今はそれどころじゃない。ここを持たせる」
言葉だけでは足りない。 だから彼は、手を動かす。
「カイ!」
「ここだ!」
柱にロープを巻いていたカイが顔を出す。腕は細いが、動きはもう「子ども」だけではない。
「屋根裏に登る。梁の上で雪を落とす必要がある。落としすぎたら穴が開く。ほどほどにな」
「……それ、落ちたら死ぬよな?」
「死ぬ前に降りてこい」
軽口を叩き、ライネルは自分の腰にも太いロープを巻き付けた。
「リナ、釘と板。手袋を二重にしろ。凍りついた木に素手で触るな」
「わかりました!」
声に、火が宿る。 恐怖の色は消えないが、その上に薄い決意の膜がかかっていく。
(祈る暇があったら、こうして騒いでいるほうがまだましだ)
ライネルは心の中でだけ、ひっそりと笑った。
◇
屋根裏は、冷蔵庫の中のようだった。 いや、冷蔵庫の中にナイフを立てて、上から揺さぶられているような不安定さだ。
梁が唸るたび、雪と粉じんがぱらぱらと降ってくる。
「こえぇ……」
カイが呟く。それだけで、静かな空間にやけに響いた。
「怖くていい。怖がってないやつから死ぬ」
ライネルは低い声で言いながら、板越しに雪の重みを感じ取る。
(ここが一番危ない)
古く黒ずんだ梁に手を伸ばす。触れた瞬間、凍った木肌が皮膚を噛んだ。
「っ……」
手袋越しに、指先が焼けるように痛い。冷たさが骨に刺さり、そのまま腕の内側を這い上がってくる。
「カイ、そっちから雪を掻き落とせ。壁のほうから徐々に真ん中へだ」
「お、おう!」
外で風が吠えるたび、梁が低く唸る。
「司祭様、こっちの板、もうミシミシ言ってる!」
「なら乗るな。腹這いで進め。重さを分散させろ」
倒壊と隣り合わせの作業を続けるうちに、時間の感覚は溶けていった。
何度目かの突風のあとだった。
下から、悲鳴が上がった。
「司祭様! 倉庫の壁が――!」
リナの声だ。そのすぐ続きに、別の子どもの泣き声が混じった。
嫌な音がした。 木が裂ける、低く湿った音。
胸の奥の針が、今度はねじ込まれるように痛む。
「あの時と同じ音だ」
呟きが、呼気と一緒に漏れた。
「カイ、ここは任せる。ロープを見てろ。落ちたら引き上げろ」
「は!? 落ちる前提で言うなよ!」
「前提にしとけ。そういう夜だ」
自分の体を梁から外す。立ち上がった瞬間、屋根がふらりと傾いたような錯覚に足が揺れる。
それでも、走った。
◇
倉庫の扉は、風と一緒に叫んでいた。
「リナは!」
ライネルが怒鳴ると、入口付近で板を押さえていたエイラが顔を歪めた。
「中! 食料持ってくるって……! 壁がさっきから変な音してて――!」
言葉の途中で、倉庫全体がくぐもったうなり声を上げた。
時間が、一瞬だけ伸びる。
(間に合うか、どうか。間に合わなければ――)
「ロープをそこに縛れ! 絶対に離すな!」
ライネルは自分の腰のロープをエイラの手に押しつけ、そのまま扉を蹴り開けた。
中は、白と茶色が混じった地獄だった。
雪が壁の隙間から吹き込み、棚がその重みで傾き、袋や箱が床に散らばっている。梁の一本が既に斜めにずれ、いつ落ちてもおかしくない姿勢で踏ん張っていた。
「リナ!」
声を張ると、箱の影から弱い声が返ってくる。
「ここっ……! 動けなくて……!」
雪と粉じんと古い小麦の匂いが混ざり合う中、ライネルは音で位置を割り出す。膝まで雪に沈みながら突き進むと、半分崩れた棚の下で、リナの小さな体が板と袋に挟まれていた。
梁が頭上で呻いた。
そこにある重さを、考えないようにする。
「目、閉じてろ」
そう言いながら、ライネルは両手で棚を押し上げた。
凍りついた木が、手袋越しでも皮膚を裂いてくる。骨が軋む。 腕の中で、何かがビキ、と嫌な音を立てた。木なのか、自分の筋だか判然としない。
「っ――――」
喉の奥から声が出そうになるのを、奥歯で噛み殺した。
全身が梁に押し潰されるような重さを受け止める。 背骨一本一本が数えられそうなほど、重みがひとつずつ乗ってくる。
「リナ、這い出ろ」
声が震れているのがわかった。
「い、今っ……!」
リナの体温が、足元をすり抜けていく。 それを確認するように、呼吸が荒くなる。
(まだ、抜けきってない――)
ぐらり、と倉庫全体が揺れた。
時間が、そこで一度止まる。
叫ぶ余裕もなく、リナをできるだけ遠くに突き飛ばした。
「司祭様っ!」
リナの叫ぶ声がする。それきり、世界は音を失った。
ライネルは、指先に残っていた力を全部かき集めて、さらに押し上げた。
腕が裂ける。胸の奥でなにかがはじける。 視界の端が黒く滲み始める。
次の瞬間、頭上の梁が悲鳴を上げた。
世界が崩れ落ちた。
◇
どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 背中から頭にかけて雪に埋もれ、体の輪郭が自分でも分からない。
肺に、冷たい空気が流れ込む。 咳き込むと、胸が焼けるように痛んだ。
「司祭!」
雪の向こうから、カイの声が聞こえた。ロープが腰を食い込み、どこかで何人もの足音が雪を掻く気配がする。
「引け! 全員、引っ張れ!」
子どもたちのか細い掛け声さえ混ざっていた。
「っせーの!!」
ズルズルと雪の中から引きずり出されると、世界が再び形を持った。
吹雪はまだ続いているが、先ほどより幾分か弱くなっている。裂けた倉庫の屋根から、空の暗がりが覗いていた。
「……生きてるか、俺」
呟くと、自分の声がかすれて笑っているのに気づく。
腕は痺れ、指先の感覚はほぼない。頬には切り傷、息を吸うたびに肋骨のどこかが文句を言っている。
それでも、視界の端にリナの顔がある。泣き腫らした目で、こちらを見ている。
「ご、ごめんなさい……っ。私が、勝手に倉庫に――」
「謝るなら、次はもっと早く叫べ」
ライネルはその頭を軽く小突いた。腕が悲鳴を上げたが、顔には出さなかった。
「命があれば、やり直せる。食料は、また何とかする」
言いながら、自分自身に言い聞かせているのだと自覚していた。
(俺もまだ、やり直せる)
守れなかった夜から、少しだけ。
◇
倉庫は半分潰れたが、礼拝堂はまだ立っていた。
穴だらけの屋根を板と布で塞ぎ、吹き込んでくる雪を子どもたちが必死で掻き出す。火のそばには、濡れた布と包帯と、ぎこちない手当ての跡。
「カイ、そのロープは柱にもう一巻きしろ。中途半端だと全部持っていかれる」
「わかってるよ! ……いや、わかってなかったかも」
「認めるのは偉い」
リナは震える手で釘を押さえ、トンカチを握る。 エイラは小さな体で布を運び、隙間ができたところへ押し込んでいく。
「エイラ、その布は重ねろ。一枚で済ますな。風は意外としつこいぞ」
「は、はいっ!」
怒号と風の唸りと釘を打つ音が、混ざり合って夜を埋める。 その真ん中で、ライネルの声だけが、妙に落ち着いていた。
(祈りの言葉を並べるより、こっちのほうがまだ“まし”な祈りだ)
額から滴る血と汗と溶けた雪が、顎をつたって落ちる。
何度も壁が軋み、そのたびに皆の体がびくりと揺れた。 それでも手は止まらない。
やがて、風の調子が変わった。
耳を刺すような甲高さが少し和らぎ、唸りが遠くなっていく。扉の隙間から入り込む風も、さっきまでの刃物のような冷たさではなくなっていた。
「……終わった、のか……?」
誰かの呟きが、礼拝堂に落ちた。
ライネルは、壁に手をついて息を整えながら、外を見上げる。
曇った硝子の向こうで、闇が薄くなっていた。 雲の切れ間から、灰色の空にごく薄い朝の色がにじみはじめる。
火のそばに座り込んだリナが、霜焼けだらけの顔で笑った。
「司祭様……。屋根、まだ、ちゃんとあります……」
「ああ。よく持たせた」
ライネルは答える。 自分の手も、この建物も、子どもたちも。
持たせたのだ。
◇
吹雪が完全に遠ざかるころ、礼拝堂には疲れきった笑い声が零れていた。
「薪、もうほとんど残ってないな……」
カイが焚き火の前であぐらをかきながらぼやく。
「明日、割らないとな」
ライネルが言うと、エイラが慌てて首を振った。
「え、ええっ!? スプーンより重いの持てないです~!」
「じゃあ、スプーンよりちょっと重い薪から始めろ」
「始める前に腕が折れます~!」
子どもたちがどっと笑う。 笑いながらも、その声の端には、助かったという実感が混ざっていた。
毛布にくるまったまま、リナがぽつりと言う。
「司祭様……。さっき、本部の人たちが、ここ危ないからって言ってましたけど……」
「ああ」
「それでも、司祭様、行かなかったんですね」
ライネルは焚き火の炎を見つめる。 揺れるオレンジ色の中に、潰れた倉庫の屋根と、雪に埋もれた自分の視界がちらついた。
「――行けなかった、が正しい」
本当に賢い選択がどちらだったのかは、きっと誰にもわからない。
「でも、今ここにいるお前らを見てると、こっちで良かったと思う」
リナは少し考え、にこりと笑った。
「じゃあ、きっと正解です」
「そんな雑な信頼、神様に向けてやれ」
「神様、今日見てましたかね?」
「さぁな」
ライネルは肩をすくめた。
「見てようが見てまいが、俺たちは手を動かすしかない。神の手が届く前に、ここは潰れる」
「じゃあ、あたしたちが先に動かないとですね!」
エイラの言葉に、また笑いが起きた。
笑い声が、焚き火の煙と一緒に天井へ昇っていく。
◇
子どもたちの寝息が、礼拝堂に満ちていた。
毛布から覗く小さな足、焚き火の残り火、ひび割れた壁。 その全てを確かめるように見回し、ライネルは祭壇の前に立つ。
小さな灯を一つともした。
炎が、煤けた壁に細い光の筋を描く。
「……命があれば、やり直せる、か」
自分の口から出た言葉を、もう一度噛みしめる。
守れなかった夜には、もう戻れない。 それでも、今夜は守れた。
「奇跡なんて、大仰なものじゃないな」
声は、誰に向けたものでもなかった。
「風が止むまで手を離さなかっただけだ。――それを、後から誰かが勝手に奇跡って呼ぶ」
灯が小さく揺れて、影が壁に長く伸びる。
その影は、雪の夜を照らす一本の柱のように、まっすぐ立っていた。
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