第2話 小さな祈りと、祈らぬ神父

神聖暦一二五四年。


世界には生命力(マナ)が溢れていた。

ヒト族、獣人族、エルフ族、ドワーフ族、魔族――五種の民が暮らし、


ヒト族は神聖流に、獣人族は身体強化に、魔族は魔力に――


各々の種族が特別なマナの使用法を編みだしこの大陸に住んでいた。



――朝。


鐘が鳴るより早く、ライネルは裏庭にいた。


井戸のロープを巻き上げ、桶を引き上げる。

冷たい水が手を打つ。


「おい、司祭。 朝から働いてんのかよ。好い人ぶったて何も変わりゃしねーよ。」


声の主はカイ。寝癖のまま外へ出てきた。

赤毛の尻尾が、まだ眠たそうに垂れている。


「働くしかないだろ。大人は俺しかいない。」


「お前が昨日脅して追い出したんだろ」


「だから自分で動いている。」


カイは口をへの字に曲げながらも、桶を受け取った。


「……ま、朝めし前の時間くらいは手伝ってやるよ。」


「助かる。」



「司祭様、おはようございます。」


広間の扉を開けると、

リナが胸の前で手を組み、祈りの姿勢を取っていた。


ライネルの目に綺麗に循環している神聖流が写る。

――獣人族には決して流れるはずのない力…


掃除用の雑巾を肩にかけたまま声をかける。


「……毎日祈っているのか?」


「朝の祈りは欠かせませんから!」


リナは明るく答えるが、

その表情の裏に――うっすらと迷いが張り付いている。


祈らないと、不安なのだろう……


ライネルは、ただ黙って雑巾を差し出す。


「祈るのは後だ。動け。昨日のカビの部屋を仕上げる。」


「えっ? あっ、はい……!」


カイが奥から顔を出す。


「おいリナ、今のは司祭に怒られたってことだぞ。」


「怒ってない。起きたらまず空気の入れ替えだ。」


「ほんっとお前、神父の癖に祈らねぇよな……」


ライネルは振り返らずに答える。


「祈るのは、必要な時だけだ。」


リナが雑巾を絞りながら、ぽつりと聞いた。


「……司祭様は、本当に祈らないんですか?。」


「祈ること自体はしないわけではない。」


「じゃあ、なんで?」


ガシャン!。


廊下の奥で、物音がした。


走って向かうと、

年少の女の子が棚の前でうずくまっていた。


リナが駆け寄る。


黒髪の少女、エイラ。

八歳くらいだろうか、包帯を巻いた頭から少しだけ付き出した角が見える。


リナは反射的に、子どもの手を握って祈りの姿勢を取った。


「神様……どうかこの子のを――。」


「リナ、違う!。」


ライネルが鋭く制止した。


「まずは状態を確認しろ。回りを良く見ろ。手を動かせ。」


「あっ……!」


「祈りは最後だ。

 今、お前の手を使うのは神様にじゃない。目の前の命だ。」


リナは息を呑んだ。


それは怒鳴り声ではなく、

――“諭す声”だった。


ライネルが近づくと、びくりと肩を震わせた。


「具合が悪いのか?。」


返事はない。

ただ、小さく首を横に振る。


額に手を当てる。熱い。

ライネルは短く息を吐いた。


「リナ、水と布を頼む。冷たい方だ。」


「は、はいっ!。」


リナが立ち上がり慌てて走り去る。

その横で、カイが躊躇うように立ち止まった。


「司祭……エイラは、魔族なんだろ? 人間の病と違うかもしれねぇぞ。」


「体は違っても、苦しみの顔は同じだ。」


「けどっ――。」


「カイ。」


ライネルは目だけで彼を制した。

その眼差しは冷たくも、どこか祈りに似ていた。


「種族が違っても、泣く子どもの声は同じだ。

 助けるか見捨てるかを選ぶのは、神じゃなくて俺たち自身だ。」


カイは言葉を失い、拳を握りしめた。


水を取りに走ったリナが戻って、

震える手で子どもの額を拭った。


エイラは泣きながら、

「ありがと……。お姉ちゃん……。」と呟く。


その声に、リナの目が潤んだ。


(逃げないで……私が、守るんだ……)。


祈らずに動いたその瞬間、

リナの中で何かが変わった。


ライネルは静かに言う。


「今のが祈りの“始まり”だ。」


「え……?。」


「救おうと行動した。それが祈りの根幹だ。

 祈りの言葉は、その後でいい。」


リナは胸に手を当てる。


「……はい。

 少しだけ、わかった気がします。」


カイが頭をかきながら言う。


「なんだよ司祭……

 祈らねぇ神父の癖に、祈りの授業だけはうめぇじゃねぇか。」


ライネルは鼻で笑った。


「俺が祈らない理由は、いつか教えてやる。」



夕方。

ライネルの部屋では、スープの湯気と、エイラの浅い呼吸の音だけが漂っていた。


リナが冷たい布を替えるたび、少女の眉間のシワが少しずつほどけていく。


「司祭様っ……前の司祭様がおっしゃってましたが、魔族って、本当に悪い人たちなんですか?。」


ライネルは手を止めずに答えた。

「悪いのは“人種”じゃない。

 “誰かを悪だと決めて、考えるのをやめた奴ら”、だ。」


リナは目を丸くした。

「……なんだか、難しいですっ。」


「簡単に言えば、思考停止だ。

 それは信仰が腐るのと同じことだ。」


カイが黙って壁にもたれた。

目を伏せたまま、低く言う。


「……司祭、お前さ。戦争で、何やってた?」


戦争か……

〈対魔族戦争〉

種族と信仰、各々の正義の食い違いにより100年近く続き、つい5年前に終結し、いまは休戦協定が結ばれているが……


「……記録係だ。死者の名前を間違えないことを優先してた。」


「……変な奴だな。」


「だろうな。戦場ってのは弱者への強い当たりは日常茶飯事だ。生きてお互い帰ろうと朝の祈りを共にした友が、昼には指1本で戻ってきた事さえある。そりゃ気も狂うさ。」


カイは鼻を鳴らし、椅子の脚で床をこつんと叩いた。

「俺なら、そんな場所に残らねぇぜ。」


「だれだってあんな場所逃げ出す。神に祈りながら目の前で同僚や友人を見殺しにするほど…生に貪欲にしがみつくしかない場所だ…。だが、だからこそせめて、そこに残って祈りより弔った。それだけだ。」


カイは短く舌打ちして黙った。

リナが困ったように二人を見比べる。


ライネルは立ち上がり、窓の外へ目をやった。

雪が静かに舞っている。


「――明日は教会本部の巡回が来る。

 外面だけでも整えておけ。

 “動いてる現場”を見せるのも、俺たちの仕事だ。」


カイは口の端で笑った。

「ハッ!見せて何がかわるってんだよ。」



翌朝。

教会の紋章をつけた若い司祭が、馬でやってきた。

ライネルより十歳は若く、声だけが妙に柔らかい。


「あなたがグレイス司祭ですね。

 辺境での奉仕、ご苦労さまです……ですが、ずいぶんお疲れのようで?。」


「現場は動くものだ。机上の信仰じゃ、腹も子どもも満たせない。」


「なるほど。ですが、祈りこそが心を支えるのでは?」


「心は支えられても、床板は直らない。」


若い司祭は一瞬、返す言葉を探し、それから笑顔で受け流した。

「随分と現実的ですね。まるで職人のようだ。」


「修道服を汚す覚悟がないなら、信仰なんて飾りだ。」


「フフ…可笑しなことをおっしゃるのですね。祈りこそが信仰ですよ。」


彼は礼拝堂を一巡し、帳簿を開く。

整った筆跡に目を止め、僅かに眉を上げた。


「……本当に、全て自力で?。」


「ああ。俺が指示を出して、子どもたちが動いた。」


廊下の陰でカイがぼそりと呟く。

「出しただけ、ね……こっちは地獄だっての。」


「だが、地獄を越えた顔してる。」


「チッ、ムカつく言い方すんなよな。」


巡回司祭は軽く笑い、書き込みを続けた。

「これほど現場が整っている孤児院は久しぶりです。

 ――次の監査でも高く評価されるでしょう。」


その言葉に、ライネルの視線が鋭くなる。

「監査?」


「ええ。本部が新体制を整えるとか。

 “不要な院は統合する”方針だそうです。」


「……そうか。」


若い司祭は軽い礼をして去ったあと、ライネルは机の上の書簡に目を落とした。


そこに押された封蝋は、王都本部のものだった。


 ――〈前任者・エドガー=クレメントの不正流用に関する報告書〉。


署名欄には、あの若い司祭の名があった。

彼の残した言葉が、冷たい風のように部屋に響いた。


――“不要な院は統合する”。


リナが不安げに袖を握る。

「司祭様っ……ここも、なくなっちゃうんですか?わ、私、また何でもしますから……私たちからここを奪わないで下さい……。」


「そんなことしなくていい、大丈夫、なくならない。」


「っほんとに?」


「“まだ”、な。」


その言葉に、カイが小さく舌打ちした。

「結局、上が決めるんだろ。俺たちが掃除しようが、祈ろうが。」


ライネルは窓の外に目をやる。

白い雪が、静かに降っていた。


「――だからこそ、動くんだ。

 止まってる場所ほど、真っ先に切り捨てられる。」


その背を、子どもたちは息を殺して見つめていた。

雪の下では、誰かの居場所がまた静かに消えていく。



夜。

エイラの熱は下がり、部屋には穏やかな空気が戻っていた。

焚き火の光が壁を染め、子どもたちは木のスプーンでスープを啜っている。


「ねぇ、司祭様。」

リナが顔を上げた。


「もし、また戦争が起きたら……司祭様はどうしますか?」


ライネルは少し考えてから答えた。

「そのときも、できることをする。手を動かして、誰かを支える。」


「それでも、どうにもならなかったら?」


「その時は、誰かに手を貸してもらうさ。」


リナは小さく笑う。

「……それって、祈るのと似てますね。」


「違う。」

ライネルの声は焚き火よりも低かった。

「天からの返事より、

 隣の声の方が良く聞こえる。」


リナは目を瞬かせ、やがて頷いた。

その隣でカイが、ぼそりと呟く。


「……司祭、お前ってさ。」


「ん?」


「言葉が上手すぎる。ズルいんだよ。」


ライネルは口の端をわずかに上げた。

「ありがとう。」


「褒めてねぇっての。」


焚き火がぱちりと弾け、火の粉が空へ跳ねた。

カイの顔を照らす炎は、もう最初の頃のような尖りを映してはいなかった。

代わりに、わずかな迷いと、どこかの希望が混ざっていた。



深夜。

静まり返った礼拝堂に、ライネルはいた。


祭壇の上には、リナが磨いた灯具。

粗末な油でともされた炎が、ゆっくりと息をするように揺れている。


その小さな光を両手で包み込む。

吹き込む風が、扉の隙間を鳴らした。


――まるで、誰かのすすり泣きのように。


炎が小さく瞬き、壁に長い影を落とした。

それは、十字にも、剣にも見えた。


やがて彼はそっと灯を吹き消す。

暗闇の中で、彼の低い息だけが微かに残った。


――祈りを棄てた神父は、今夜も“誰か”を守っていた。

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