ライネル神父は、今日も祈らず誰かを救う ― 神は沈黙し、神父は動く ―

ひたむき

欠けた十字架と、祈らぬ神父

第1話 辺境の孤児院と、祈らぬ神父

雪解けの匂いは、春より先に“腐敗”を知らせる。

町の空気には、湿った泥と諦めの臭気が沈んでいた。


馬車がきしむ音を最後に、

ライネル・グレイスは外套の裾を払って外へ降りた。


その瞬間――

遠くの鐘の音が一拍だけ遅れた。


"遅れた?"


教会直属施設としては、あり得ない怠慢だ。


(……嫌な匂いだ)


風の匂いではない。

もっと、腐っている“人間の陰湿な匂い”。


――赴任先は辺境教会併設孤児院。教会直属、再建中、前任者は不在。

しかも、本部からの簡潔な文章が、馬車の中で渡されていた。

『閉鎖候補施設:監査の可能性あり。対応"要"確認。』


要するに、「誰もやりたがらない現場」、かつ――今すぐ手を入れなければ潰されかねない場所を意味する。


銀に近い髪を無造作に束ね、灰色の彼の瞳には冷たい現実が映っていた。


祈りの言葉はない。

ただ一言――「行くか」。


ライネルは門の前で一度だけ立ち止まり、

窓の奥に視線を投げる。


窓ガラスの向こうで、人影が揺れた。


子どもではない。

重い足取り。

酒に沈んだ大人の姿。


門をくぐる。

足元の雪は黒く、壁は苔に覆われていた。


扉を押し開けると、むわりと臭気が広がった。

酒、油、汗、そして……人間の無関心。


――孤児院とは名ばかりだ。

教会直属のはずが、腐臭だけが充満している。


椅子に沈む様に座り込んだ管理人の男が、

こちらを見もしないで言った。


「……また“本部の犬”か。どうせ三日で逃げるだろ」


不快という感情が、頭を占領する。


しかし彼は感情を顔に出さない。

ただ、淡々と名乗る。


「臨時赴任聖職者、ライネル・グレイスだ」


その冷静さが、逆に場の空気を張りつめさせた。


男が鼻で笑う。

「フン! 神父が来たところで、この家畜小屋は変わらねぇよ」


ライネルは室内を見渡す。


壁には黒カビ。

床には乾いた吐瀉物の跡。

奥の部屋からは、酒瓶が転がる音。

部屋のすみに固まる子ども達の皿はカラで――その隣で、女性職員が賭け事をして笑っている。


全て、瞬時に“判断”できた。

この場所がどれほど放置されているか。


(……間に合うか?)


ほんの一瞬。

初めて、ライネルの眉がわずかに動いた。


男が机を乱暴に叩く。


「規定? 祈り? そんなもんこの辺境じゃ意味ねぇんだよ。」


ライネルは沈黙したまま、机に置かれた寄付袋を手に取った。


――軽い。

あり得ないほどに。


封を切る。

銀貨が一枚。

そして――砂利。


(……これは、腐っているどころの話じゃないな)


静かな怒りが、胸の底でゆっくりと熱を帯びる。

その熱は決して顔に出ないが、行動に変わる。


ライネルは椅子の背を掴み、


――蹴り倒した。


男が跳ね上がる。


――ガタン!


「な、なにを――!」


バコン!

彼が持っていたメイスが床板をえぐる。


「勤務中の飲酒は禁止。神聖統教会規定十二条」


声は低い。

だがその後の静寂が、部屋の全員を凍らせた。


「腐った現場ほど、規律から始める。必要ならば手も汚そう。」

「口が動く間に話せ、反論があれば聞く。今は――この孤児院の“救済”が最優先だ。」


その言葉と圧に、大人な達が初めて怯え逃げ出した。


荒れた室内。


怯え、カラの器を抱いた子どもたち。


そこにライネルは宣言した。


「今日からここは“動き出す”。」

「祈りの前に――清掃だ。」



昼までに、十数枚の雑巾が泥に染まった。

廊下にはいまだに酒瓶の破片、壁の隙間には虫の巣だらけ。

ライネルは黙々と片づけながら、子どもたちに声をかけた。


「手伝ってくれる奴、いるか」


ライネルの声だけが反響する。


一人の少年が睨みつけてくる。

赤毛の耳と尻尾――獣人族。十四ほどで、目つきが悪い。


「やる理由がねぇ。」


「理由がなくても、住む場所は綺麗な方がいい。」


「ッケ! どうせあんたも捨てんだろ。人間の聖職者なんて、皆、前のやつらみたいに、俺たちを人と思わねぇ。」


ライネルは言葉を返さず、雑巾を差し出した。


「名は?。」


「カイ。」


「ならカイ。手が空いてるなら使え。」


「……チッ、おまえも命令かよ。」


「違う、依頼だ。報酬は、夕飯のパン一枚追加。」


カイは鼻を鳴らし、雑巾を奪う。


その背後から、金の瞳の少女が顔を出した。

カイよりも体が小さな赤毛の獣人。耳がぴくりと動く。


「カイ、お手伝いしよ?」


「うっせぇ。リナは引っ込め。お前が今まで一番ひどい目にあってんだろ!」


「でも司祭様、一人じゃ大変そうだよ?」


ライネルは少しだけ笑った。

その笑みは柔らかいが、どこか疲れている。


「助かる。神に祈るより、ずっとありがたい。」



夕暮れ。

壁の虫の巣は消え、窓から光が差していた。


久しぶりにまともな食事が出き上がり、

子どもたちは静かにスープを啜る。


カイが器を置き、疑い深く聞いてきた。


「……ったく、何が目的だ?」


「仕事だ。」


「ハッ! 仕事!? 本当にそれだけかよ。こんなとこに来る奴、頭おかしいぜ。リナや他のやつにはぜってぇ、手っ、出すなよ!」


「安心しろ神に誓ってお前らには手は出さん。それに――誰かがやるべきだ。知らないふりってのも同じくらいおかしいからな。」


カイは黙り込み、リナが笑う。


「司祭様って、少し変わってますね。」


「よく言われる。」


ライネルは立ち上がり、窓の外を見た。

雪は溶け、黒い土が顔を出している。


「――明日から、本格的に動く。この場所を“孤児院”に戻す。」


「戻すって、神様の奇跡でもない限り無理だろ!?」


ライネルは背を向けたまま力強く言う。


「奇跡なんてものは、誰もいない時に、黙って動いてる奴の汗だ。」


部屋が静まり返る。

薪のはぜる音だけが響いていた。


その背を、子どもたちは息を潜めて見送った。



――夜。


礼拝堂は、冷たい沈黙に包まれていた。


ひび割れた祭壇。欠けた十字架。


灯りをともすライネル。


その姿は、昼の彼とは別人のように静かだった。


炎が揺れ、影が壁に伸びる。


「――祈る前に、手を動かせ……か。」


小さく息を吐き、祭壇を見上げる。

「あの子らが、少しでも安心して休めるの暇を……。」


夜風が小窓を叩いた。

炎がわずかに揺らぎ、彼の影は祭壇に溶けていく。


孤児院の再生は、まだ始まったばかりだった。

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