海に還る日

プラナリア

海に還る日

 その洋館は、木立の中にひっそりと佇んでいた。元は瀟洒な建物だったのだろう。塔屋の縦長の窓にはステンドグラスがはめ込まれ、館全体を白い下見板張りが覆っている。けれど時の流れに侵食され、緑銅色の飾り雨戸は黒ずみ、張り重ねられた板には蔦が這っていた。私はもう一度、地図と洋館を見比べた。そして、雑草が蔓延る前庭の敷石を辿り、玄関ポーチへと向かった。古ぼけたインターホンを慎重に押す。壊れてはいなかったと見え、くぐもった嗄れ声がした。今回の依頼人の、N氏だ。

 「家事代行サービスの方かね」

 返事をすると、緑銅色の扉が僅かに開いた。痩せた老人が、扉の奥から私を窺っている。私は名刺を差し出したが、彼は動かないままだった。

 「ずいぶん若いようだが、経験は?」

 私は少し考える振りをして、「3年目になります」と答えた。高校を卒業し、この仕事に就いてからずっと、同じような問いを投げかけられてきた。けれどN氏の次の問いは、これまでに無いものだった。

 「君の仕事で、最も重要なことは?」

 私は虚を突かれ、N氏を見つめた。ぎょろりとした2つの目玉が、私という人間を暴くように見据えている。

 「……秘密を、守ることです」

 ゆっくりと、扉が開き始めた。広々としたエントランスホールが姿を現す。中に足を踏み入れると、吹き抜けの窓から射し込む光が私を包んだ。天井から吊り下がる洋燈、優美な矩折かねおり階段。まるで別世界だと思った瞬間、背後で玄関の扉が閉じる音がした。N氏が私に向き直る。

 「こちらへ」

 指し示された手の方へ、私は魅入られたように歩き出した。N氏の声も床板の軋みも、館の静寂に吸い込まれていく。染みの浮いたモスグリーンの壁紙も、廊下の色褪せた木目も、不思議と懐かしかった。これまでの日常が遠ざかり、この館に囚われてしまうような気がした。


 元大学教授で一人暮らし。週三回、清掃と料理を希望。私が会社から聞いたN氏の情報は、それが全てだった。N氏自身も余計なお喋りをするつもりはないらしく、仕事の打合せはすぐに終わった。その後、N氏は館内を案内してくれた。彼がくたびれたネルシャツを着ていても、対峙するのは緊張した。寡黙で鋭い眼差しが、隙なく私を窺っているように思えた。

 館の部屋数は多くなかった。書斎、寝室、ダイニングにバスルーム。どの部屋にも、段ボール箱が雑多に積まれていた。

 「急に転居することになったんだ。知人の伝手でここを借りたんだが、不便で仕方ない。思うような一軒家が無かったからな」

 N氏の説明に、私は内心首を傾げた。N氏は一人暮らしなのに、なぜ一軒家に拘るのだろう。館がある辺りは辺鄙で、近所に家も少なかった。近所付き合いを避けたい、偏屈な人なのかもしれない。

 「掃除はそこそこで構わない。見ての通り、古い家だから」

 バスルームの扉を開けて黒黴を示し、N氏は溜息をついた。そこが1階の最後の部屋で、私達は再びエントランスホールへと戻ってきた。目の前には階段がある。柔らかな曲線を描く手摺に惹かれたけれど、N氏はそちらに目もくれず、元来た廊下を引き返し始めた。

 「あの、2階へは?」

 「君がそこへ行く必要は無い」

 素っ気無くN氏は言い放った。直角に折れ曲がった階段の先は、見えない。

 「お掃除も、不要でよろしいですか?」

 N氏は胡乱な目で私を見た。出来の悪い学生に言い含めるように、ゆっくりと言う。

 「2階は、私の研究室だ。貴重な標本もあるから、出入りしてほしくない。掃除は1階だけ。2階は、立入禁止だ」

 はい、と私は返事をした。家に立ち入ることは、その人の心の中を覗くようなものだ。余計な詮索はしないに限る。N氏は頷き、廊下を進んだ。

 「私は書斎にいる。食事ができたら運んでほしい。食材は買っているから、料理の作り置きも頼む。悪いが、鍋の類は探してくれ」

 はい、と再び返事をし、ダイニングへと向かう。小さな冷蔵庫だけが置かれ、食卓も食器棚も無い殺風景な部屋だったが、造り付けの木製キッチンは広い。キッチンに立ち窓を開け放つと、ふわりと風が吹き抜けた。今日からここが私の仕事場だ。私は持参したエプロンを身に着け、段ボールのガムテープを剥がしにかかった。まずは、調理器具の発掘からだった。


 初日の仕事は順調だった。N氏は私が作った料理を完食したし、作り置きも準備できた。本格的な掃除をする時間は無かったが、埃が積もった1階を掃くことはできた。帰り支度を終えた私は書斎をノックしたが、N氏は不在だった。他の部屋にも姿は無く、2階にいるらしい。階段の下から呼びかけてみたが、返事は無かった。終了の報告をせずに帰れば、トラブルになりかねない。迷った末、私は階段に足をかけた。古い階段が軋む度、私の心臓も跳ねる。踊り場で曲がると、2階の廊下が見えてきた。足音に気付いたN氏が現れないかと待ってみたが、静寂が深まるばかりだった。仕方なく、私はそのまま2階へと上った。吹き抜けを囲むように廊下があり、すぐ手前に木製の扉がある。丸い真鍮のドアノブは動く気配が無く、中からは何の物音もしない。覚悟を決め、ノックした時だった。

 突然、扉が開いた。内側の黒い暗幕をかき分けて現れたN氏は、後ろ手に素早く扉を閉めた。恐ろしい形相で睨みつけられ、私は思わず後ずさった。痩せた体を震わせ、掴みかからんばかりの勢いでN氏は怒鳴った。

 「2階には来るなと言ったはずだ。帰れ。出ていけ!!」

 私は声も出ず、身を翻して階段を駆け下りた。玄関を開け、庭の木立を走り抜けたところで振り返る。暗幕に覆われた暗闇の中には、何があったのだろう。豹変したN氏の怒声には、どこか悲痛な響きがあった。館は再び木立に覆い隠され、沈黙に沈んでいた。


 私はクレームを覚悟していたが、会社からの連絡は無く、N氏との契約は続いているようだった。再び館を訪れた私を、N氏は黙って迎え入れた。前回の謝罪をしようとしたが、N氏は私の言葉を遮り、「時間がきたら帰って構わない」と背を向けた。

 室内は前回から変わり無く、片付が進んだ様子は無かった。私はまず掃除にとりかかった。バスルームの黒黴はいくらこすっても消えず、剥がれかけた壁板は私にはお手上げだった。この館を蘇らせるには、プロに頼るしかないのだろう。それでも、人の手が入ることで、館が息を吹き返すのを感じた。床の美しい木目を磨きながら、私は館のかつての輝きを想った。

 N氏は書斎に籠もりきりだった。巨大な書棚は空のままで、積み重なった段ボールから分厚い書籍や論文らしき紙の束がはみ出していた。N氏自身も本に埋もれながら、机上で忙しなく作業をしていた。

 書斎の中央には簡易テーブルと折り畳み椅子が置かれており、食事はそこに運んだ。頃合いを見て食器を下げに行くと、N氏はまだテーブルについていた。私に気付くと、N氏は吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。

 「失礼します」

 私が空の食器を片付ける間、N氏は小刻みに吸殻を灰皿に打ち付けていた。下膳を終え退室しようとしたところで、N氏が私を呼びとめた。

 「先日は、申し訳なかった」

 突然の謝罪に、私はお盆を取り落としそうになった。目を伏せたN氏は、吸殻を強く握りしめている。

 「……ルール違反をしたのは、私の方です。大切なお部屋なのでしょうから」 

 そうか、と口ごもり、N氏は私を見上げた。彼は初めて、はにかむような笑みを見せた。

 「君は料理の腕がいいね。私にも娘がいたが、全く料理に興味が無くて。妻が嘆いていたよ。君の料理はお母さん譲りなのかな。いいお嬢さんだったのだろうね」

 「違います」

 思わず出た言葉に、私は口を手で押さえた。娘、妻。過去形で懐かしそうに語るN氏に、心のたがが緩んだのだ。怪訝そうに見つめるN氏から、視線を逸らす。

 「両親は、私が幼い頃に事故で。私は祖母に育てられましたが、祖母も病気が悪化して、私が高校を卒業する頃に」

 「では、今は?」

 「私一人です」

 沈黙が降りた。話し過ぎてしまったことを後悔する。お決まりの哀れみを聞きたくなくて、私は笑顔を作った。

 「料理がお口に合ったならよかったです。自己流で凝ったものは作れませんが、もし食べたいものなどあれば……」

 「君は、恐ろしくはないのかね」

 私の言葉を遮り、N氏がポツリと言った。新たな煙草を取り出し、火をつける。その指先が、微かに震えている。

 「世の中は厳しい。まだ若い身空で、苦労もあるだろう。一人で……たった一人で、取り残されるなど……」

 苦し気な暗い声は、N氏自身をも縛る呪いのように聞こえた。私は、祖母の家を出た日のことを思い出した。小さな荷物だけを抱え、一人ぼっちだった。それでも、「お前なら大丈夫」といつも笑ってくれた祖母の姿が、私を支えてくれた。

 私はお盆を置き、N氏をまっすぐ見た。家政婦ではなく、一人の人間として。

 「私は、自分の力で生きると決めたんです」

 そうか、とN氏は呟き、ゆっくりと煙を吐いた。そのまま、彼自身の想いの中へ沈潜しているようだった。無言のうちに交錯する私達の記憶に、館だけが耳を傾けていた。


 それからN氏と私は、食後の短いひと時に会話を交わすようになった。他愛ない話題に交じり、N氏の研究の話も出た。動物の遺伝子に関することらしいが、専門的な内容は私には難しく、講義の雑談のようなエピソードばかりだった。一人だけの聴衆に対しても、N氏の話は熱を帯び、老いた瞳には輝きが戻った。時を遡り、学生達と議論していた教授の姿を見るようだった。

 私が惹かれたのは、大昔、鯨の先祖は陸を歩いていたという話だった。陸から海へ。水中の暮らしに慣れるため、前脚はヒレ状に、尾は先が尾びれになり、後ろ脚は退化して無くなった。けれど今も、後ろ脚の名残である骨盤の骨が残っているのだと。

 「鯨が陸にいたなんて、不思議ですね。なぜ、海で暮らすようになったのかしら」

 「何らかの、生の淘汰の結果だろうな。当時、その生き物には、海で暮らす必然性があった」

 「でも私、似た話を聞いたことがあります。確か……ヒトの胎児の話。胎児には、一番最初は魚だった頃の尾がある。胎内で、ヒトの進化の過程を辿るんだって。もともと、全ての命は海から産まれたんですよね。私達には、太古の海の記憶が眠っているのかも。鯨の先祖も、海に還りたくなったのかしら」

 N氏の返事は無かった。素人の浅はかな話に呆れたのかと思ったが、彼の表情は憂いを帯びていた。

 「地上に産まれ、海に還りたいと願ったとしても……それは、罪ではあるまい」

 呟いた微かな声が、胸に響いた。私は、海に還った鯨の先祖を想った。母の腕に抱かれるように、波に身を任せたのだろうか。辿り着いた海が、彼を優しく包んでくれたことを願った。


 その日、私が館を訪れると、いつもは出迎えてくれるN氏が現れなかった。玄関先で電話をしても、コール音が鳴るばかり。嫌な予感がした。もしもの時に使うよう教えられた合鍵を探す。玄関脇のポストの中を探ると、ガムテープで貼り付けられた鍵が見つかった。鍵穴に差し込んだが、焦りでうまく回せない。何度か試すと、やっと手応えがあった。

 「失礼します!」

 扉を開け放ち、エントランスホールに駆け込んだ私は息を呑んだ。階段の踊り場に、手摺に体をもたせかけ、ぐったりと座り込むN氏の姿があった。

 「大丈夫ですか!?」

 近づいて声をかけると、うめき声が漏れた。青白い顔でうずくまるN氏は、ただのちっぽけな老人に見えた。乾いた唇から、掠れた声がする。

 「目眩がしてな。すまないが、肩を……」

 私はN氏の腕を肩に回し、抱えながら立ち上がろうとした。けれどN氏は足に力が入らないらしく、私だけでは支えきれない。2人とも、その場にしゃがみこんでしまった。よく見れば、昼前だというのに彼は寝間着のままで、痩せた体から熱っぽい温もりが伝わってきた。寝込んでいたのだろうか。いつから?

 3日前に訪れた時、N氏は私の料理を残した。「風邪気味で食欲が無い」と言う彼に受診するよう勧めたが、曖昧な返事だった。あの時、強引にでも受診させていたら。N氏の細い腕に、病室で痩せ衰えていった祖母が重なり、私は唇を噛んだ。バッグから携帯電話を取り出し、119をダイヤルする。

 「やめろ……」

 言うなり、N氏が激しく咳き込み始めた。私は彼の背中をさすりながら、口早に通話を終えた。

 「大丈夫です。すぐ、救急車が来ますから」

 私が言うと、N氏は荒い息のまま、階段に手をつき這い上がろうとした。けれど私が制止する前に、うずくまる。弱った足が持ち上がらず、段差を越えられないのだ。N氏は喘ぎながら、階段の上を見上げた。胸が刺されるような、悲痛な横顔。私は為す術も無く、彼の背中をさすり続けた。

 不意に、N氏がうずくまったまま私を見上げた。蒼白の顔の中で、2つの目だけが爛々と見開かれている。彼はゆっくりと手を伸ばし、私の肩を握りしめた。

 「頼みが、ある……」

 N氏は上を見上げた。私もつられて、階段の上を見上げる。例の扉が、静かに私達を見下ろしている。

 「冷蔵庫……を、……に、与えて……」

 「え? 中に、誰かいるんですか?」

 N氏が再び、咳き込み始めた。私の肩に載せられた手が、縋るように食い込んでくる。その瞳から、一筋の涙が溢れた。

 「……あれは、罪では、無い……」

 何処かで聞いたフレーズだったが、思い出せない。混乱の中で、遠く響く救急車のサイレンが聞こえた。私は慌ててN氏を横たえ、救急車を誘導しようと外へ飛び出した。扉の向こうは昼間の明るい陽射しに満ち、長閑さに全てが夢のような気がしたが、近づく赤いランプが私を現実に引き戻した。

 その時、記憶の底からN氏の声が甦った。

 『海に還りたいと願ったとしても……それは、罪ではあるまい』

 私は思わず館を振り返った。燦々と光が降り注ぐ中、2階の窓の向こうには、黒黒とした闇がわだかまっていた。


 N氏が救急搬送された後、私は一人、館に取り残された。先ほどまでの慌ただしさが嘘のように、静まり返っている。そっと階段に足をのせると、思いの外足音が響いた。息が詰まるような静寂の中、私は下を向いたまま、ゆっくりと階段を上った。やがて例の扉が現れた。ノックしてみたが、やはり何の物音もしない。真鍮のドアノブを回すと、あっけなく開いた。入口を覆う暗幕をくぐる。禁忌を犯す罪悪感に、胸が疼いた。

 室内の窓は分厚いカーテンで閉め切られ、昼間とは思えない暗さだった。手探りで電灯のスイッチを押すと、正面の壁にぽつんと小さな洋燈の灯りが灯った。そこは、がらんとした小部屋だった。壁際に本棚とソファー、小さな冷蔵庫。そして、部屋の中央に、人の身長ほどもある水槽があった。近づくと、円柱の水槽の中に、巨大な魚の尾が見えた。大きさからイルカかと思ったが、体を覆う鱗が僅かな光を反射して煌めいた。姿を確かめようと、水槽に手をつき顔を近づけた時。

 突然、尾が反転し、水中に人の顔が現れた。まだあどけない、少女と見紛うような少年だった。真っ直ぐな鼻梁と真っ白な肌が、作り物めいて見える。けれど長い睫毛に縁どられた瞳は、確かに私を見つめていた。柔らかな髪が、ゆらゆらと彼の周りで揺れる。手をついた私と対になるように、彼もまた水槽に手をついた。その細い指の間には、水膜があった。

 視線を下げると、暗闇に白い裸体が淡く浮かび上がった。滑らかな肌のところどころに、煌く鱗が覗く。人の名残の臍を境に、下半身は鱗に覆われていた。彼と先ほどの尾が繋がっているのだと理解した瞬間、全身が総毛立った。悲鳴を飲み込み、その場にしゃがみ込む。ぎゅっと目を閉じると、N氏の悲痛な横顔が甦った。そうだったのか、と胸の内で呟く。N氏が抱えていたもの、守ってきたもの。

 目を開けると、水槽の少年が私を見おろしていた。怒るでもなく哀しむでもない、感情を映さない面。私は、足に力を込めて立ち上がった。私が逃げ去れば、少年はひっそりと息絶えてしまうのかもしれない。暗闇の中、一人きりで。

 私は部屋の隅の冷蔵庫へと近づいた。中を開けると、袋に小分けにされた魚が入っていた。袋を一つ掴み、水槽へと引き返す。背伸びすると、水槽の上部に手が届いた。袋から魚を一匹掴み、彼の前に落とす。少年の視線は動かず、魚はゆっくりと水槽の底に横たわった。いつもとは与え方が違うのだろうか。今度は、勢いをつけて魚を投げ入れてみた。パシャリと水音を立て、魚が彼の目の前を横切る。少年は動かず、二匹目も水槽の底に沈んだ。

 「お願い、食べて」

 思わず口にした言葉が、水中の彼に届いた気配は無かった。何か無いかと辺りを見回し、本棚に飾られた写真立てに気付いた。近づいて手にとると、家族写真だった。若い頃のN氏と、隣に寄り添う妻らしき女性、2人の間であどけなく笑う少女。私は写真立てを掴み、水槽にかざした。見えるだろうかと危ぶみながら、写真のN氏を指さす。

 「ねぇ、私はこの人に頼まれてここに来たの。だから、大丈夫よ」

 水中の彼が瞬きをする。視線が、写真に向けられたような気がする。

 「大丈夫」

 私は最後の魚を水槽に差し入れた。冷たい水に手を浸し、彼の目の前に魚を差し出し続ける。つま先立ちの足が震えだすのを堪え、水槽に片腕をつき全身を支えた。硝子越しに、少年の顔が目の前にあった。必死の形相の私とは対照的な、生気の無い眼差し。まるで、全てを諦めたような。

 「生きて」

 澄んだ瞳が私を見つめた。時が止まったように、私達は見つめ合っていた。やがて、彼の両手がゆっくりと動き始めた。ほっそりとした掌が私の手を包み、魚を受け取る。私は水槽から手を放し、両手を見つめた。かじかんだ掌に、一瞬重なった彼の温もり。水槽を見ると、彼は魚を手に持ったままだった。見られていたら、食べにくいのかもしれない。私は彼に背を向け、本棚へと移動した。元の場所に写真を戻そうとし、ふともう一度写真を眺める。少女の、長い睫毛に縁どられた瞳、真っ直ぐな鼻梁。水中の少年が、少女の笑顔に重なった。

 本棚の最上段に、もう一つ写真立てがあった。落とさないよう気をつけながら、写真立てに手を伸ばす。映っていたのは、成長した写真の少女だった。大人になった彼女の、挑むような強い眼差し。その両手は、大きく膨らんだ腹部に添えられていた。写真にはメッセージが書き添えられていたが、だいぶ前のものらしく、万年筆の筆跡はところどころ消えかけていた。


『安らかに眠れ』


 私は背後を振り返った。彼は食事を終え、水槽の底にうずくまっていた。人と魚の淡いのような少年は、微睡むように目を閉じた。陽の差さない静かな部屋は、まるで永遠の子宮のように、彼を包みこんでいた。


 それからの日々を、私は館で過ごした。会社づてにN氏の搬送先に連絡してもらったところ、N氏は肺炎になっており、1週間は入院するとのことだった。私は今まで通り家政婦として働いたが、家事を終えると少年の部屋に行き、水槽を眺めて過ごした。夜は小部屋のソファーに横たわって眠った。1日毎に時間の感覚が曖昧になり、私自身も水槽の住人になっていくような気がした。

 少年は私の存在に慣れたようだった。最初は水槽の底にうずくまっていたのが、私が部屋の中にいても、くるくると泳ぎ回るようになった。2階の扉を開ける瞬間は、いつもN氏の怒声が甦った。けれど暗幕をくぐると、そこは彼と私の世界だった。

 私がそっと水槽に近づくと、小さな水音がして私めがけて飛沫が飛んだ。悲鳴を上げて飛び退ると、体を折り曲げて笑う彼が見えた。器用に尻尾で飛沫をとばしたらしい。逆さまのまま、彼は屈託の無い笑顔を私に向けた。顔の周囲で弾ける気泡が、笑い声になり水面へ立ち上っていく。無表情だった彼が活き活きとした表情を見せる度、私の胸に暖かな灯りが点った。

 「やったわね」

 私が水槽を手のひらで軽く叩くと、彼も硝子越しに手を重ねてきた。上に下に、私が手のひらを移動させる度、彼もその手を追いかける。彼が笑うと、水中に泡が弾けた。儚い幸せを繋ぎ止めるように、私達は硝子越しに追いかけ合い、笑い合った。

 息が上がり、私は水槽にもたれて呼吸を整えた。台座にしっかりと固定された水槽は、びくともしない。彼も水槽に顔を寄せる。大きな瞳が、いたずらっぽく輝いている。

 「案外やんちゃなんだから。あなたには、もうこの水槽は狭いんでしょうね」

 ふっと現実に立ち戻る。彼は、これから先の長い年月を、ずっとここで過ごすのだろうか。安らかで小さな揺り籠が、彼の世界の全て。私は水槽越しに、彼の顔に頬を寄せた。

 「いつか、海で泳ぐあなたを見てみたい。私達は皆、海から産まれたのよ。果てしなく広くて恐ろしい、この美しい世界で」

 届くはずのない私の呟きに、彼はそっと首を傾げた。華奢な首筋は、簡単に手折れてしまいそうに細い。力強く泳ぐのだろう尾は、水槽の底でじっとしている。庇護され、囚われたまま。

 「ずいぶん馴染んだようだね」

 すぐ傍で声がした。振り向くと、いつの間にかそこにN氏が立っていた。心なしやつれた彼は、穏やかに水槽を見つめている。私は混乱した頭で日数を数えた。まだ7日も経っていないはずだ。

 「早めに退院したんだよ。少々無理を言ったが、心配だったからね」

 私の思考を読んだように、N氏は呟いた。私は無言で水槽から離れた。少年はきっと、安堵しているだろう。けれど、その顔を見ることができなかった。私と彼の世界に、ゆっくりと幕が下りていく。

 「ありがとう。君は、この子が初めて出会った、私以外の人間だ。……私がいなくても、どうにかなるものだね。なぁ、君」

 独り言のように呟いていたN氏が、私に向き直った。今まで見たことがない、哀し気な瞳。

 「この子は、この世界で生きていけるだろうか」

 返事は、言葉にならなかった。それでも、私は頷いた。N氏と私の沈黙を、大きな水音が破った。振り向くと、水槽の中から少年が飛び出していた。細い腕で体を持ち上げ、水槽の縁に上半身を預けて、少年は私達に微笑んだ。その唇から、澄んだ歌声が響いた。原初の言葉にならない歌は、彼の笑顔そのままに、生きる喜びに満ちていた。閉ざされた窓の向こう、遥かな空まで、朗々と響き渡るようだった。


 それが、私が少年を見た最後だった。私はN氏から解雇された。N氏宅に向かう道中で会社から電話があり、私はそのことを知った。

 「急に引っ越すことになったっていうんだよ。君にお礼を言われていたよ、よくやってくれたって。あぁ、これまでの支払いは済んでいるから心配ない。じゃあ、なるべく早く次の仕事を回すようにするから」

 生返事で電話を切り、私はN氏宅へ急いだ。途中で電話もしたが、N氏が出ることは無かった。息せき切って辿り着いた館は、一見変わり無かった。けれどよく見れば窓のカーテンが剥がされ、人の気配は消えていた。インターホンは虚しく鳴り響くだけだったが、ポストの合鍵は残されていた。私は迷わず鍵を使い、扉を開けた。

 館内は、窓から直接射す真っ白な陽射しに満ちていた。積み上げられた荷物は消え、開け放たれたままの扉が、彼らの不在を告げていた。私は階段を駆け上った。暗幕の無い扉の先は、空洞だった。家具は無く、巨大な水槽も消え去り、少年の痕跡はどこにも無かった。全てが失われて初めて、窓にステンドグラスが嵌め込まれていたのに気付いた。瑠璃色の硝子から差し込む陽射しが床を青く染め、まるで海の底のようだった。

 私はそのまま床に座り込んだ。目を閉じると、少年が浮かんだ。私達に微笑み、高らかに歌う姿が。

 彼はいつか、海に還るだろうか。

 眼裏に浮かぶ、静かな夜の浜辺。そこに、N氏が佇んでいる。大きく膨らんだコートの中には、少年が抱きかかえられている。波に誘われるように、N氏が海の中へ踏み出す。おかえりを告げるように、潮騒が優しく響く。ゆっくりと進む2人を、月が見守っている。

 懐かしい感覚に、魚の尾が跳ねる。人の子の少年は、じっとN氏を見つめている。固く少年を抱くN氏の腕が緩んでいき、少年はふわりと海に抱かれる。縛るものも、守るものも無い、初めての自由。戸惑うように振り向いた少年に、N氏はそっと頷く。

 少年の尾がしなり、力強く泳ぎだす。目の前に広がる、果てしない海原。少年はもう振り返らない。月の光を浴びて、煌めく波飛沫に笑う。その唇から、歌声が響きだす。これから知る美しいもの、胸を震わせるもの。耐え難い痛みも悲しみも全て抱き抱え、この世界に生きる喜びを、高らかに歌うのだ。


 <終>

 


 

 


 


 

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