妖怪のこども

いぬきつねこ

妖怪のこども


 僕の父さんは妖怪なのだという。

 母さんは、人に紛れて生きていた父さんと出会い、恋をして僕と綾音を産んだ。

 僕達は双子だった。僕が兄。綾音は妹だ。僕の方が早く母の胎から出たということでしかない。僕たちはそっくりという程でもないが、まあよく似ていた。

 母さんは僕たちを産んですぐ、東京を出て海と山の両方が近いこの町に引っ越した。

 東京の空気には生気が足りない。僕たちは妖怪のこどもだから、植物や海や、その他の生き物の気配が濃密に満ちている空気の中でしか生きていけないらしかった。父さんは無理をして東京で暮らしていたから、死んで透明な石になってしまった。その石は母さんの胸に、ペンダントにしてつり下げられている。

 透き通って丸みを帯びた小指の先ほどの石を、母さんは指先で撫でながら父さんの話をした。

 東京の大学で出会ったこと。ふたりで暮らした小さなアパートのこと、父さんの正体を知った日のこと。それでも父さんを愛していたこと。父さんの本当の姿は、透き通るように薄い鱗を持つ美しい蛇の姿だということ。

 僕たちはそれをいつも部屋の中をくるくる回りながら聴いていた。くるくるとコマのように回ると、体がほどけて風になる。これも母さんが教えてくれた。

 父さんもくるりと腕を回して風になり、母さんを乗せて都会の街の上を飛んだのだという。

 僕たちの家は、海が見える山の中腹にあった。 

 悲鳴のように軋みを上げる階段を登り切って物干し台に出ると、山並みの向こうに青い線を引いたように海の姿が見えた。

 僕たちの家には、雨の日には、雨の使者がやってくる。風の日には風の使者がやってくる。彼らは父さんの眷属で、僕たちの成長を見守っているのだった。

 父さんが死の間際に下した命を彼らは忠実に守った。

 綾音は家のあちこちに置かれた白い皿を箸で叩いてはしゃぎ回った。皿に溜まった雨水がそれを呼応して高い声で歌った。僕は風の出どころを探した。風はどこからか部屋の中に忍び込み、カレンダーだとか、母さんが大事にしている宮沢賢治の古い詩集だとか、不思議や生き物の姿が描かれたスケッチブックを舞い上がらせた。

 そして、母さんは柔らかく笑って僕たちを抱きしめるのだった。かわいい子。愛しい愛しい妖怪のこども。

 母さんは絵描きだった。いつも不思議な生き物の絵を描いていた。母さんは時折「うちあわせ」と僕たちに告げて山を下りた。そういう日には、普段食べられないものをたくさん買って来てくれるので嬉しかった。

 母さんが不在の時も僕と綾音は山を駆け回って過ごした。そして、風や水や、山ですれ違う小さな生き物たちを眷属にする練習を毎日行った。綾音のほうが僕よりずっと上手だった。彼女の指先で触れられた野ネズミは、綾音の肩を駆け上がり、柔らかな毛皮を綾音を頬に押し当てた。

 僕にできたのは、風で舞い上げられた楓の葉を、右に左にと動かすことくらいだった。

 僕たちの世界は狭く、人間とは母としか接していなかったが、山には数え切れないほどのモノたちがいて豊かなものだった。

 一度だけ、山で母ではない大人と出会ったことがある。

 その人は山道を上がってきて、僕に一箱の菓子をくれた。僕はその時初めて市販の菓子を見た。不思議と顔は思い出せない。

 赤い箱に、こどもの写真が印刷してある小さな箱。

 その中に、銀色の包みに包まれたクッキーがあった。

 僕と綾音はそれをふたりで分けて食べた。

 クラッカーにほんのりと酸味のあるクリームが挟まれている。菓子の類は母さんが作ってくれることもあったが、包装紙に包まれた菓子は初めての味だった。美味かった。その美味さの中には罪悪感も混ざっていたと思う。人に見つかっても、すぐに隠れなさい。妖怪の子は連れ去られて殺され、薬にされてしまう。母さんに言われていたことだった。でも、菓子をくれた人は僕たちに何もしなかった。だから僕らは油断していた。

 歯触りの良いクラッカーをサクサク音を鳴らして食べ、食べかすを野ネズミとリスに分けてやった。

 でも、あれは受け取ってはいけなかった。

 僕は今も思い出す。

 あの菓子を受け取らなければ、僕たちの辿る道は違っていたのかもしれない。

 次の日から、綾音は喋らなくなった。

 元々ことばの多い子でなかった。しかしそれは、風や水を通して語りかけたほうが早いからだった。綾音が触れれば水は歌い、風は言葉を持った。

 しかし、次に綾音は歩けなくなった。

 綾音、と呼んでも返事をしなくなった。身体をのけぞらせて苦しげに呻くばかりだ。

 ついに僕は母に知らない人から菓子をもらったことを白状した。

 その時に母がどんな顔をしていたか思い出せない。

 ただ、暗がりの中で白目がぬらりと光っていたこと、僕を怒らなかったことだけは覚えている。

「綾音はもうだめ。山に還してあげよう」

 母は静かに言って、僕は泣いた。

 翌日、母の胸のペンダントは、石がふたつになった。


 綾音は山に還った。

 そして、僕と母はまた別の場所へと引っ越した。




 解体された空き家の床下から、古い小型の冷蔵庫が発見され、さらにその中から幼女の白骨死体が見つかるのはそれからわずか二年の後だった。

 僕はあっという間に「妖怪のこども」から、薮内綾斗という名前の人間のこどもになり、母さんは警察の人に連れて行かれた。

 僕たちの父さんは人間の男だった。

 母さんは大学に通ったことなどない、なんなら高校すら出ていない精神を病んた風俗嬢で、あの山の中の家は、半ば打ち捨てられていた母さんの実家であったこともそのうちに知った。父親は誰か知れない。場末の、届け出も出しているか危うい店で働いていた母は誰のものとも知れない子どもを腹に宿した。それは元々現実と虚構を往来していた母の精神を簡単に虚構に押しやった。母は昔アニメで見た物語を自分の中に落とし込み、それを現実としてしまった。母は絵描きですらなかった。「うちあわせ」の日は、公衆トイレや誰かの家で客を取っていたのだという。胸のペンダントは、インド雑貨の店で売っていた安物の水晶だった。

 あの時僕らに菓子をくれたのは児童相談所の人だった。そもそも僕たちには出生届も出ておらず、いわば、いないはずの子どもだったのだ。ここまで生きてきたことが奇跡と言われた。そして、綾音の死因が破傷風であることも、僕は知ることとなった。予防接種を受ける機会もなかった僕が細菌だらけの山の中で生き延びたのは、本当に奇跡なのだ。

 そこから僕は人間のこどもとして生きて、妖怪のこどもだったことなんてお首にも出さずに、養父母の下で育った。東京でも僕は死ぬことはなかった。

 幼い日々の幻想は種明かしをされてしまえばあっけない、不適切養育されて育った可哀想なこどもの話でしかなく、僕はそれを隠して今も生きている。

 しかし、今日みたいに風の強い日には僕はふと思い出す。

 かつて僕は、楓の葉を揺らすことができた。

 戯れに目の前を落ちていく木の葉に意識を集中してみて、耳元に綾音の声を聞く。

「やめとこうよ。あたしとだけの秘密にしよう」

 そうだね、と僕は返す。

 あれからずっと、僕は綾音の声を聞いている。

 風の中に住んで、僕の眷属となった綾音。


 僕たちは、ふたりだけの妖怪のこども。

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妖怪のこども いぬきつねこ @tunekoinuki

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