ただならぬ縁
をはち
ただならぬ縁
小山義彦は、両親の遺した莫大な財産で、贅沢な日々を謳歌していた。
両親は奇妙な善人だった。
私財を投じて子ども食堂を運営し、自らの美容室では成人までの子供や定職のない者たちの散髪を無料で施した。
山奥の広大な合宿所では、夏休みの長期休暇に子供たちを集め、自然とふれあう、そんな場を作った。
そんな彼らが、不慮の事故でこの世を去った。残された息子は、口先だけの怠惰な男だった。
財産を手に入れた途端、毎夜のように飲み歩き、好き勝手に浪費した。
そんな義彦のもとに、ある日、一本の電話がかかってきた。
「○○と申します。ビルの塗装などを手がけております」
義彦は無愛想に返した。
「あ、営業ね。うちは全部管理会社に任せてるから」
相手の女性は、穏やかだが粘っこい声で続けた。
「もちろん、お客様もお付き合いのある業者様がおありでしょう。だからこそ、塗装を任せてくれというのではなく、
無料で見積もりだけでも。今後の参考に、他社と比べてご納得いただけるお値段であれば…その程度でお電話しております」
「うちさ、一軒は塗装終わってるし、もう一軒はアパート建てる時、
一回分の塗装無料で約束して建てさせたんだ。だからお願いする建物はないよ」
「今お住まいのご自宅は、写真を見る限り、塗装が必要ではないかと思いますが」
「ああ、必要だよ。自宅は築35年で、外壁だけ一度やってるけど、屋上は手つかずだから、水が染みてるかもな。
でも銀行から建て替えを勧められてる。アパートに。だからこの家に金はかけない。塗装なんてしないよ」
「建て替えはいつ頃お考えで?」
「立て替えるかもわからない。俺、この年で独身だから、この家たぶん俺で途絶えちゃう。
それなのにアパート増やしてもしょうがないだろ」
「あら、独身でいらっしゃるんですか? 私もですわ」
「ほう…これも何かの縁だな」
「ただならぬ縁を感じます。私、申し遅れましたが、小山と言います。小山由美子です」
「え! 由美子って、死んだ母親と同じ名前だよ」
「あらあら! これはもう、深い縁でございますね。何か他に物件はお持ちでないでしょうか?」
「ああ、茨城に建物がある」
「茨城ですか? 私、そちらに詳しくないもので…若い頃に二度ほど行ったきりで」
「ああ、海と湖に囲まれた良い場所だよ。鹿嶋市○○80-7って調べてごらん」
「あら、この大きな建物ですか」
「ああ。大きいだけで、中は虫食いだよ。そんな建物に塗装したり金かけたりしない。
ただ、うちでやってる子ども食堂の米が50袋くらい保管してるくらいだね」
「となると、セコムとか入ってるんでしょう?」
「入ってないよ。そんな金かけたりしないって」
「ほほほ、今日は長々とお電話に付きあって、いただき有り難う御座います。
私のことをお忘れにならぬよう、会社の パンフレットと、この小山由美子の名刺をお送りしてよろしいでしょうか」
「ああ、もちろん。小山さんとはただならぬ縁だし、このまま終わらない気がするんだよね。待ってるよ!」
「ほほほ。ありがとうございます」
──それから二週間が過ぎようとしていた。
義彦は茨城の建物に足を踏み入れた。埃と湿気の匂いが鼻を突く。
倉庫の奥、いつも米袋が山積みになっていた場所は、ただの空洞だった。
50袋の米が、音もなく消えていた。
床に残るのは、わずかな米粒と、埃の跡だけ。
セコムはない。鍵はかかっていたが、プロなら朝飯前だろう。
住所も、米の在庫も、警備の有無も、すべて口にしたのは義彦本人である。
だが義彦は、そんなことなど頭にない。彼はただ、彼女からのパンフレットが届くのを待っている。
そして数日後、茨城の建物に再び空き巣が入った。
前回の窓は、破られたまま、そのまま放置してある。
それでも、空き巣は新しい窓を割って建物に押し入った。
大きいだけで、中は虫食いだよ。そんな建物に塗装したり金かけたりしない――
そう言ったのも義彦本人である。
当然、空き巣に入られたくらいでは、金をかけたりはしない。
そんな事よりも、義彦の頭の中にはパンフレットの事しか無かった。
家に戻っても、郵便受けを何度も開ける。空だ。テーブルの上にも、玄関にも、何もない。
名刺も、パンフレットも、約束の品はどこにもない。
由美子。由美子。由美子。彼女はもう、義彦の全てを握っている。
なのに、何も来ない。あと何を彼女に話せば良いのか――
このままでは、空き巣の手下に、わざわざ情報を伝えた道化になってしまう。
パンフレットさえ届けば、俺は道化で無く、立派な被害者になれる。
由美子。由美子。由美子――三度目の前に、お願いだからパンフレットを届けておくれ、
義彦はソファに座り、スマホを握りしめる。電話は鳴らない。メールもない。郵便受けをまた開ける。空だ。
米が盗まれたことなど、どうでもいい。ただ、彼女からのパンフレットが、届かない。
それだけが、義彦の心を、静かに、確実に、蝕んでいった――。
その夜、彼は夢を見る。由美子が微笑みながら、パンフレットを手渡してくれる夢だ。
目覚めた義彦は、寝巻きのまま玄関へ向かう。郵便受けを開ける。やはり空だ。
だが、ふと視線を落とすと、玄関の隅に白い封筒が落ちている。
拾い上げると、差出人欄には「小山由美子」の文字。
義彦は震える手で封を切る。中には、名刺とパンフレット、そして一枚のメモ。
「私は、あなたのご両親に救われ育った、かつての子供です。あなたの米袋は、
未来の子どもたちのために使わせていただきました。 ただならぬ縁に感謝を込めて。由美子」
義彦は、しばらくその場に立ち尽くす。
怒りも、悲しみも、喜びもない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚。
そして、彼は初めて、両親が遺した「善意」というものに、ほんの少しだけ触れた気がした。
ただならぬ縁 をはち @kaginoo8
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