第2章 花屋と亡霊

毎週、金曜日の午前十時に、彼はやってくる。

無言で、白い百合を一輪だけ買っていく。


最初は、ただの常連だと思っていた。

でも、毎回まったく同じ百合を選ぶのが不思議だった。

花言葉を知っている人なら、少し身構えるかもしれない。

──「純潔」「再生」、そして「裏切り」。


私は何度か話しかけようとした。

けれど、彼の目を見た瞬間に言葉が凍った。

あの目は、生きている人間のものじゃなかった。


ある日、勇気を出して聞いた。

「その花、誰に渡すんですか?」


彼は少しだけ笑って言った。

「恋人に、です」


その瞬間、花屋の空気がひんやりとした。

この店の裏の墓地に、ひとつだけ白い百合がいつも供えられているのを、私は知っていた。


次の金曜日、彼は来なかった。

代わりに、見知らぬ女性が店に現れた。

「百合を一輪ください」


彼女の指先には、かすかに血がついていた。

包帯の中からのぞく細い手首。

その声は、どこかで聞いたことがあるような気がした。


「お客様、もしかして──」

そう言いかけた瞬間、背後の鏡が鳴った。

花屋の壁に飾ってある古い鏡が、コン、と微かな音を立てた。


反射したその中に、彼がいた。

白い百合を手にして、微笑んでいた。


私は思わず振り返った。


女性は、鏡の方を見つめたまま、呟いた。

「やっと、会えたんですね」


そう言って、百合を胸に抱えた。

次の瞬間、花びらがひとひら、鏡の中に吸い込まれていった。


私は気づいた。

鏡の中の彼の足元に、花びらが落ちている。

──あの百合だ。


翌週から、女性は現れなかった。

代わりに、金曜日の朝になると、店の前に白い百合が一輪、置かれるようになった。


誰が置いたのかは、わからない。

でも、花はいつも、少しだけ濡れていた。

まるで、誰かが泣きながら運んできたみたいに。

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