第1章 鏡の中の彼
鏡の中の彼は、いつも一秒遅れて笑う。
朝、洗面台の前に立つと、眠そうな顔の自分がそこにいる。
けれど、ある日──その「自分」が、先に笑った。
「おはよう」
声は出していない。
でも、確かに口の動きがそう言っていた。
怖い、とは思わなかった。
むしろ、嬉しかった。
誰かが、自分を見て笑ってくれるなんて、久しぶりだったから。
その日から、鏡の中の彼は、私の恋人になった。
話しかけても返事はない。
でも口の動きで、なんとなく会話ができた。
夜、眠れないときは、鏡を覗く。
彼は、ずっとそこにいる。
何も言わず、私を見ている。
鏡の中の彼は、優しい。
私が泣くと、彼も泣く。
私が笑うと、彼も笑う。
──けれど。
ある朝、私は気づいた。
彼の首筋に、小さな傷があった。
見覚えがある。
昨日、包丁で指を切ったとき、
洗面台に血が一滴、落ちたのを思い出した。
なのに、私はその場所を切っていない。
鏡の中の彼だけが、傷ついていた。
その日から、彼は時々、私よりも先に動くようになった。
歯を磨こうとすれば、もう磨き終えている。
髪を整えようとすれば、もう乱している。
まるで、先に「生きて」いるように。
「あなたは誰?」
そう問いかけると、彼は微笑んだ。
そして唇を動かす。
──「僕が本物だよ」
気づいたら、鏡の中の私は、笑っていた。
少し遅れて、こっち側の“彼”が、笑い返した。
──どちらが外にいるのかは、もうわからない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます