第二話:使い捨ての囮
夜へと移行を始めている時間の新宿。
その新宿駅前にある公園。
俺の目の前で空間が裂けていく。
噴水の上、何もないはずの空間が、バリバリと音を立てている。
まるで巨大な何かが、見えない壁の向こう側から、こちらをこじ開けようとしているみたいだ。
黒い断層。
そこから、コールタールみたいにドロリとした闇が溢れ出してくる。
生臭い。鉄が錆びたような匂いと、嗅いだことのない獣の匂いが混じって、鼻の奥をツンと刺した。
「うわっ!?」
俺は尻餅をついたまま、後ずさる。
だが、腰が抜けて、うまく力が入らない。
まずい。
まずいまずいまずい!
講習で習った。これは『次元の断層』だ。
モンスターが出てくる。
俺は戦闘能力ゼロ! HP85、MP0! 一般人以下なんだぞ!
闇の中から、低い唸り声が聞こえた。
グルルル……。
黒い闇が形を取る。
それは森にいる怪物というイメージを実体化したような、四つ足の獣だった。
大きさは大型犬ほど。ギラリと光る赤い目が、憎悪に満ちた色でこちらを睨んでいる。
口が裂け、鋭い牙が並んでいるのが見えた。
『ロードウルフ』
ネットの情報で見たことがある。最下級のF級モンスターだ。
だが、F級だろうがなんだろうが、今の俺にとっては死刑宣告と変わらない。
それが、一匹、二匹……合計三匹。
三匹のモンスターが、噴水を取り囲むように、闇の中から這い出してきた。
「ひっ……!」
情けない声が出た。
逃げないと。
頭ではわかっている。全力で走って、ここから離れて、ギルドに通報しないと。
なのに、足がガクガクと笑って、言うことを聞かない。
まるで、冷たい水の中に突き落とされたみたいに、体の感覚が鈍い。
「ま、モンスターだーっ!」
「ゲート出現! ゲート出現だ!」
「誰かギルドに連絡しろ!」
公園にまばらにいた人々が、ようやく事態に気づき、悲鳴を上げて逃げ惑う。
パニックになりつつも、スマートフォンを取り出して、緊急通報用のアプリをタップしようとする。
その時だった。
「おい、見ろよ! あいつ、探索者用のプロテクター着けてるぜ」
「本当だ。おい、お前!」
逃げる集団の中から、同じように安物の装備をつけた男たちが二人、俺に気づいた。
彼らも探索者だ。胸のライセンスホルダーが見える。
「助かったぜ、俺たち以外にも探索者がいたか!」
彼らは、俺の姿を見て、一瞬だけ安堵したような顔をした。
……だが、そのランクはEか、よくてもDランクに見える。お世辞にも強そうには見えない。
「いや、待て。あいつのライセンス……」
「……Fランク、か」
男の一人が、俺のライセンスホルダーをまじまじと見て、あからさまに顔をしかめた。
その視線が、痛い。
やめろ。そんな目で見ないでくれ。
「チッ。なんだよ、Fランのゴミか」
「使えねえ……」
ロードウルフたちが、獲物を定めるように、ゆっくりと俺たちの方へ向き直る。
グルルル……。
低い唸り声が、腹の底に響く。
「まずいぜ、こっちに来るぞ!」
「おい、Fラン! お前、ちょっと時間稼ぎしろ!」
「え……?」
男の一人が、俺に向かってそう言い放った。
時間稼ぎ? 俺が?
戦闘能力ゼロの俺が、どうやって?
「な、何言ってるんですか! 無理ですよ、俺は戦えな――」
「うるせえ! お前も探索者だろ!だったら、壁になるくらいできらあ!」
「そうだそうだ! 俺たちはEランクだが、こいつら三匹相手にするのは分が悪い! お前が囮になってる間に、俺たちがギルドに応援を呼んでやるよ!」
「そ、そんな……!」
「いいから行けよ!」
男は、俺の背中をドン、と強く押した。
俺はよろめいて、ロードウルフたちの前へと押し出される。
「あ……」
三対の赤い目が、一斉に俺を捉えた。
獲物、発見。
そんな声が聞こえた気がした。
「じゃあ、頼んだぜ! Fラン!」
「せいぜい五分、いや、一分でも持てば御の字か!」
男たちは、俺に背を向け、公園の出口へと一目散に走り出した。
「ま、待って! 待ってください!」
俺は必死に手を伸ばす。
だが、彼らは一度も振り返らなかった。
すぐにその姿は遠くへと消えていった。
公園には、俺と、三匹のモンスターだけが取り残された。
シン、と静まり返る。
噴水の水音だけが、やけに大きく聞こえた。
……まただ。
また、これだ。
『おい相田!お前、この資料、今日中に終わらせとけよ。俺ら、先に帰るから』
『え、で、でも、これ、どう見ても一人で終わる量じゃ……』
『は? お前、給料もらってんだろ?だったらやれよ。お前の代わりなんていくらでもいるんだからな』
『使い捨てのゴミが文句言うな』
使い捨て。
ゴミ。
あの男たちの背中が、あの上司たちの背中と重なった。
そうだ。
無能な俺は、いつだってそうだ。
面倒なこと、誰もやりたがらないこと、危険なこと。
そういうのを押し付けられる、一番価値のない人間。
あの会社でも、そうだった。
ギルドの荷物持ちだって、そうだ。
そして、今、この瞬間も。
俺は、他の誰かが逃げるための『時間』を稼ぐためだけに、ここにいる。
使い捨ての囮。
グルルルル……!
ロードウルフの一匹が、痺れを切らしたように、一歩前に出た。
牙の間から、粘ついたよだれが滴り落ちる。
ああ。
俺は、ここで死ぬのか。
ブラック企業から逃げ出して、無職になって、アパートに引きこもって。
誰の役にも立てないまま、誰からも必要とされないまま。
最後は、こんな公園で、影みたいなバケモノに食われて、終わり。
なんて、つまらない人生だったんだろう。
生まれてこれまでの二十三年間、俺は、一体何をしてきたんだ?
何もしてない。
何もなれなかった。
でも、もうどうでもいいか。
恐怖よりも、諦めに似た感情が、冷たい水のように全身を満たしていく。
俺は、その場にへたり込んだまま、動くのをやめた。
せめて、痛くないといいな。
そう思って、固く目を閉じた。
ガアアアアアアッ!
獣の咆哮が、すぐ近くで響いた。
いよいよ来たか。
俺は衝撃に備えて、奥歯を強く噛みしめた。
だが。
待てど暮らせど、牙が肉を裂く感触はやってこない。
あれ?
恐る恐る、片目を開けてみる。
ロードウルフたちは、俺に飛びかかってはいなかった。
それどころか、三匹とも、さっき俺が来た方向――俺が押し出された、空間の裂け目がある噴水の方を向いて、警戒するように低く唸っている。
なんだ?
俺は、やつらの恐怖の対象ですらなかったのか?
いや、違う。
やつらも、何かに怯えている。
キィィィィィィィン!!
さっきよりも、何倍も甲高い、耳を突き刺すような音が鳴り響いた。
空間がきしむ音。
世界が悲鳴を上げているような音。
「な……んだ、これ……」
目を見開く。
信じられない光景が、そこにあった。
さっきまで、噴水の上で人間一人分くらいの程度だった『次元の断層』が。
今、バリバリバリ! と凄まじい音を立てながら、急速に広がっている。
縦に横へと。
まるで、巨大なジッパーが開かれていくように。
あっという間に、裂け目は公園の端から端まで広がり、空高く伸びていく。
夕焼けだったはずの空が、裂け目から溢れ出す濃い紫色の闇に飲み込まれていく。
ゴオオオオオ……。
地響きと共に、裂け目の奥から、とてつもない圧力が溢れ出してきた。
肌が粟立つ。
寒い。
寒いなんてもんじゃない。まるで、巨大な冷凍庫の前に立たされたみたいだ。
ギルドの技能講習で習った知識が、最悪の形で頭をよぎる。
『低級の次元断層は、通常、F級からD級程度のモンスターを排出して、数時間で自然消滅する』
『だが、ごく稀に――本当にごく稀にだが、周囲の魔力濃度や空間の歪みが一定の閾値を超えた場合、高位の断層へと『変貌』することがある』
『兆候は、急激な断層の拡大と、A級以上の魔力反応。もし遭遇したら、即座に――』
即座になんだっけ。
もう、頭が回らない。
目の前のこれは、どう見ても『ごく稀』なやつだ。
ロードウルフたちが、哀れな声でクンクンと鳴き始めた。
さっきまでの威勢はどこへやら、三匹とも体を寄せ合い、ガタガタと体を揺らしている。
お前ら、あっちから来たんだろ。
なのに、なんで自分たちの故郷(?)をそんなに怖がるんだ。
その答えは、すぐにわかった。
裂け目の奥。
底なしの闇の中。
紫色の空を背景に、とてつもなく巨大な『何か』が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
それは、ビルよりも、ずっと大きい。
二つの燃えるような赤い光点が闇の中で灯る。
それが『目』だと気づいた時、俺はもう、声を出すことすらできなかった。
「うそだろ……」
絶望が、さらなる巨大な絶望によって、あっけなく上書きされた。
囮だ? 時間稼ぎ?
あんなのが出てきたら、この公園も、新宿も、俺も、あの逃げていった探索者も、何もかもが、一瞬で消えてしまう――。
ロードウルフたちは、もはや逃げることすら諦めたのか、その場に伏せて動かなくなった。
俺も同じだった。
ただ、迫りくる『死』そのものみたいな、圧倒的な存在を見上げることしかできなかった。
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