第三話:倍率100倍の契約
ゴオオオオオオオッ!
空気を揺るがす、という生易しいものではない。
内臓が直接わしづかみにされるような、強烈な圧力を伴った咆哮。
紫色の巨大な裂け目から、それがゆっくりと姿を現す。
ビルよりも大きい。
見上げる首が痛くなるほど、バカでかい。
ゴツゴツとした岩のような皮膚。ねじくれた二本の巨大な角。そして、闇の中で不気味に燃え盛る、二対――四つの赤い瞳。
超巨大な人型の怪物。
ああ、A級モンスターで間違いない。
『遭遇=死』
『S級パーティーによる討伐対象』
そんな、俺とは一生縁のない、別の世界の存在。
それが今、目の前にいる。
さっきまで威勢よく俺を脅していた『ロードウルフ』たちは、クゥン、クゥンと子犬のような哀れな鳴き声を上げ、その場に完全にひれ伏している。
こいつらですら、足元にも及ばない。
格が違う。
住む世界が違う。
あんなのが、なんで新宿の公園なんかに……。
A級モンスターは、ゆっくりと、その巨大な頭部を動かした。
四つの赤い瞳が、地を這う虫けらを探すように、公園を見渡し――そして、俺の位置で、ピタリと止まった。
目が合った。
瞬間、全身の血液が、まるで真冬の氷水になったみたいに冷たくなった。
動けない。
指一本、まばたき一つ、できない。
金縛り、なんていう、ありふれた言葉では説明がつかない。
魂そのものが、その圧倒的な『格』の差によって、凍り付いてしまったようだった。
死ぬ。
さっきは、ロードウルフに食われることを想像していた。
痛いかな、とか。
こいつは、違う。
『死』そのものが、形を持って目の前に立っている。
俺という存在が、この世界から『消去』される。
ただ、それだけ。
巨大な人型モンスターは、俺という小さなゴミを認識し、排除しようとしている。
ゆっくりと、その山のような巨体が動き、右腕が持ち上げられる。
空を覆うほどの、巨大な腕。
あの会社で、俺は『使い捨てのゴミ』だった。
あのEランクの探索者たちにとって、俺は『使い捨ての囮』だった。
そして、このバケモノにとって、俺は『踏み潰すべき石ころ』だ。
ああ。
結局、俺の価値なんて、そんなもんだ。
誰からも必要とされず、ただ、邪魔だからという理由で消される。
つまらない人生だったな。
どうせ死ぬなら、初めから就職なんてせずにゴロゴロ過ごしておけばよかったな。
そんな、どうでもいい後悔が、頭の中をよぎる。
規格外の腕が、振り下ろされる。
ゴウ、と風を切る音が、やけにゆっくりと聞こえた。
さようなら、俺の六畳一間。
さようなら、払い終わっていない奨学金。
俺は目を閉じた。
――「危ないです!」
その声は、突風みたいに、俺の絶望を切り裂いて届いた。
女の人の声?
こんなところに、まだ誰か残って……。
目を開けるよりも早く、世界が、真っ白な『音』で塗りつぶされた。
ドゴオオオオオオオオオオオオンッ!!
耳が焼ける。
鼓膜が破れたかと思った。
凄まじい轟音と衝撃波。
尻餅をついていた俺の体が、公園の地面を紙切れみたいに転がっていく。
「ぐっ……! がっ……!」
何が起きた!?
爆発?
テロか?
いや、それにしては、熱くない。
むしろ、神聖なほどの『圧力』。
さっきのA級モンスターが放っていた、冷たくて重い『圧』とは、まったく逆の種類。
熱くて、速くて、全てを貫くような、強烈な『圧』。
どれくらい転がったのか。
背中をフェンスに強く打ち付けて、ようやく止まる。
「いっ……つ……」
煙で、何も見えない。
耳が、キーンと鳴り続けて、何も聞こえない。
しばらく、その場で必死に咳き込んでいた。
やがて、白い煙が、夕暮れの風に流されていく。
俺は、おそるおそる、顔を上げた。
そして、自分の目を疑った。
……いない。
さっきまで、そこにいたはずの、あのビルみたいに巨大なバケモノが。
『A級モンスター』が。
跡形もなく、消えていた。
まるで、最初から何もいなかったみたいに。
いや、違う。
何かが、キラキラと空を舞っている。
夕焼けの赤黒い空。
それを背景に、無数の光の粒子が、雪のように静かに降り注いでいた。
とても、きれいだった。
もしかして、あの巨体がこれに……?
全部、これに変わってしまったっていうのか?
一撃で?
あんな化け物を?
「……は、はは……」
乾いた笑いが出た。
夢でも見てるのか。
それとも、俺はもう死んでいて、これは、死ぬ前に見た幻か。
呆然と、光の雪が舞う噴水前を見つめる。
そこに、一人の少女が立っていた。
いや、立っているというより、片膝をついている。
その傍らには、彼女の身長とさほど変わらない長さもある、まるで槍のようにも見える金属製の杖が、地面に深く突き立てられていた。
長い、輝くような銀色の髪。
夕日に照らされて、それはまるでプラチナみたいだ。
服装は、可愛らしい少女が来ているようなデザインだった。
白をベースに、鮮やかな青いラインが入った、魔法を使用する少女らしい、いや、学校の制服にすら見える戦闘服。
どこかの魔法少女もののアニメから飛び出してきたみたいに見えた。
その少女は、苦しそうに肩で息をしている。
そして、ゆっくりとこちらを振り返った。
息をのんだ。
その瞳は、まるで夏の空をそのまま切り取って埋め込んだような、鮮烈な碧色だった。
汗が、その白い頬を伝っている。
「……はぁ、はぁ……間に、合って……よかったです……」
か細い、だけど、芯の通った声。
さっき俺が聞いた、「危ないです!」の声の主だ。
「あ……あ……」
俺は声が出なかった。
ただ、その姿に見覚えがあったから。
知ってる。
俺みたいな、底辺のFランクでも、この人を知ってる。
少なくとも探索者ライセンスを持つ人間で、この顔を知らない奴はいない。
ギルドのロビーに貼られた、特大のポスター。
ネット上の情報。
探索者たちに人気の、S級のトップランカー。
日本に数人しかいない、最強のS級探索者。
その最年少にして、最強の火力を持つと言われる、天才。
「『魔砲の守護者』……朝比奈ひかり……」
思わず、俺は、その名前を呟いてしまった。
なぜ?
どうして、日本の最強戦力が、こんな小さな公園に?
その時、俺の視界の端に、あるものが映った。
俺の探索者アプリが、まだ起動したままだったんだ。
探索者は、他の探索者のステータスを、本人の許可があれば、簡易表示できる。
そして今、俺の視界には、信じられないステータスが表示されていた。
================
名前:朝比奈 ひかり(アサヒナ ヒカリ)
ランク:S
レベル:68
HP:3500/3500
MP:0/8000
装備 :【カーディナル】
スキル:【マジックショット】
【ブレイズキャノン】
【シューティング・バスター】
================
MP:0/8000。
ゼロ?
最大MPが8000もあるのに、残りがゼロ?
「……さっきのとんでもない、一撃が……」
彼女が、さっきのあのA級モンスターを消滅させた一撃。
あれは、彼女の持つスキルの中でも最大の切り札、『シューティング・バスター』。
噂には聞いていた。地形すら変える一撃。
きっと、想像を絶するほどの膨大な魔力を消費するに違いない。
そして、彼女は、俺を助けるために、一発しか撃てない、最大の切り札を使ってしまったんだろう。
だから、今、彼女は魔力枯渇状態で、次の攻撃ができないのだ。
「!」
彼女が、鋭い視線で周囲を警戒した、その時。
グルルル……。
低い、唸り声が背後から聞こえた。
しまった!
俺は、あのA級モンスターに気を取られて、完全に忘れていた!
振り返る。
そこには、さっきまでひれ伏していた、三匹の『ロードウルフ』が、再び立ち上がっていた。
やつら、あの爆発でも無傷だったのか!
いや、それもそうか、さっきの魔法攻撃はあの巨大なA級モンスターに向けられたもの。
三匹のバケモノは攻撃を避けたのだ。
明らかに、俺たちに敵意を向けている。
そして、気づいてしまった。
さっきまで、あれほど怯えていた、あの巨大な気配が消えたことに。
そして、あのA級モンスターを消した張本人である、この銀髪の少女が、今、MP不足に陥っていることに。
「……まずい」
やつらの赤い目が、ギラリと光った。
獲物が、変わった。
さっきまでの恐怖は、もうない。
あるのは、弱った強者を食らい尽くそうという、獰猛な本能だけだ。
「くっ……!」
ひかりさんが、杖を構え直そうとする。だが、魔力が発動する気配がない。
彼女は小さく舌打ちすると、戦闘服の腰についた小さなポーチに素早く手を入れた。
だが、その手を引き抜いた彼女は、目に見えて絶望的な表情になった。
彼女の手のひらに握られていたのは、小さな瓶。たった一本の青い液体。
『MPポーション』だ。
彼女は、S級探索者として、自分の魔力も、ポーションの残量も、正確に把握しているに違いない。
その彼女が絶望している。
おそらく、彼女ほどのS級ランカーなら、こんな最低ランクのポーションでは、魔力は雀の涙ほども回復しないのだろう。
つまり、あのポーション一本くらいの回復量では、どうにもならないということだ。
「……!」
ひかりさんが、俺の言葉にハッとした顔をした。だが、すぐに、彼女の視線が、俺の胸元――安物のプロテクターと、そこから覗くライセンスホルダーに釘付けになった。
「……あなた、探索者、ですか!? もしかして戦えますか!?」
「え!? いや、無理です! 無理!」
俺は必死に首を横に振った。
「俺、Fランクで、MPもゼロで! 戦闘能力なんてないんです! スキルも【ギフト】なんていう、ゴミスキルで……!」
俺が慌てて言い訳をまくし立てている間に、彼女の碧眼が、カッと見開かれた。
その視線は、俺のステータスウィンドウに集中している。
「……スキル、【ギフト】……? 」
「え!? あ、ああ! だから、これがゴミだって……!」
「いいえ、ゴミなんかじゃありません!今すぐ、私と専属の『契約』を結んでください!」
「はあ!?」
何を言ってるんだ、この人!?
グルルル……! ロードウルフたちが、ジリジリと距離を詰めてくる。
もう、時間がない!
「いいから、早く! 私の使用する魔法では、このポーションでは、雀の涙にしかなりません! でも、あなたのそのスキルが本物なら……!」
彼女は、俺に向かって、必死に叫んだ。
「お願いします! 私を信じて! 『契約』に同意してください!」
「くそっ、意味わかんねぇけど、わかったよ!」
ガアアアッ!
ロードウルフの一匹が、もう目の前まで迫っていた!
「『契約』する!」
「はい! 私も承認します!」
周囲に白い光が満ちた。
清純な光。
それによって、ロードウルフも瞬間、怯んでいるようだ。
続いて、俺と彼女の間に魔力が繋がるかのような感覚が通った。
この間、コンマ一秒だろうか?
ただ、俺がFランクなせいだろう、それ以上の感覚の変化は生じない。
しかし、それでも確実に、俺と彼女は契約したのだ。
「『契約』、成立です! これを!」
ひかりさんが、最後の一本のポーションを俺に向かって投げるようにして、渡してきた。
「あなたがそれを飲んで、私にスキルを使用してください!」
俺は、それを慌ててキャッチする。
キャップを開けて、容量物を口に含む。
うげっ、まずい。
薬みたいな、変な味だ。
俺は、人生で初めて飲むMPポーションの味に顔をしかめながら、一気にそれを喉の奥へと流し込んだ。
ゴクリ。
瞬間。
カアアアアッ!
腹の底から、何かが燃え上がるような、熱い感覚が湧き上がってきた。
「ぐっ……!?」
なんだ、これ!
このポーションって、こんな、すごいものなのか!?
いや、違う!
俺の体の中で、摂取した魔力が、まるで、ダムが放流されたみたいに、とんでもない勢いで膨れ上がっていく!
そして、スキル【ギフト】が発動する。
『契約対象への魔力転送』
俺の体は、ただの『通り道』になった。
膨れ上がった魔力が、俺というパイプを通って、目の前に立つ朝比奈ひかりへと、激流となって流れ込んでいく!
「……あ……!」
ひかりさんの碧眼が、カッと見開かれた。
「すごい……! なに、これ……飲んだポーションの、何十倍、いえ……100倍近い魔力が流れ込んできます……!」
彼女の声に、力が戻っていく。
さっきまでの消耗しきった様子が、嘘のようだ。
俺の視界の端。
さっきまで『0/8000』だった彼女のMPゲージが、凄まじい勢いで回復していく。
1000、4000、8000……!
この安いポーション一本で、こんなに!?
ガアアアッ!
ついに、ロードウルフの一匹が、ひかりさんめがけて飛びかかってきた!
だが、もう遅い。
彼女は突き立てていた金属製の杖――『カーディナル』のグリップを掴むと、迫りくるモンスターたちに向け、軽くそれを振るった。
「【マジックショット】!!」
ひかりさんの凛とした、力強い声。
シュン!
「追撃!【マジックショット】!さらに、追撃!【マジックショット】!!」
シュン! シュン!
全部で三発。
目で追えないほど高速な光の弾丸。
それは、杖の先端にある宝石のような機構、そのさらに先の空間から射出され、寸分の狂いもなく、三匹のロードウルフ、それぞれの眉間を正確に撃ち抜いた。
ギャイン!
悲鳴を上げる間もなかった。
三匹のモンスターは、一瞬で、さっきのA級モンスターと同じように、光の粒子となって、サラサラと崩れ落ちていった。
……。
……静かだ。
噴水の音だけが、また、公園に戻ってきた。
俺は、あまりの出来事に、何も言えず、ただ、目の前に立つ少女を見つめていた。
彼女も、俺を、見つめていた。
その碧眼は、驚きと、それから……とんでもない、喜びみたいな色で、キラキラと輝いていた。
「……はぁ。助かりました」
彼女は、杖を支えにするのをやめ、その場に、ふう、と座り込んだ。
俺も、ようやく、抜けていた腰に力が入るようになり、彼女の隣に座り込む。
「あ、あの……」
なんだ、今の。
俺、今、何をしたんだ?
慌てて、自分のステータスを確認する。
さっきまでと、変わらない。
MPは、0/0のままだ。
だが、スキル欄。
【ギフト】Lv.1。
さっきまで、詳細不明瞭だった部分が、更新されている。
俺は、そこをタップした。
【ギフト】Lv.1:
契約対象への魔力転送(倍率:100倍)
……は?
……ひゃく、ばい?
100倍?
レベル1で?
俺が飲んだのは、『MPポーション』。この安いポーションの回復量は、たしか100だ。
それが、100倍……つまり、10000?
いや、ひかりさんの最大MPは8000だ。だから、あふれた分はともかく、ゼロから一瞬で全回復したのか。
安いポーション一本で、S級探索者のМP8000が全回復……?
MPゼロの俺がポーションを飲んで、契約相手に『そのまま』転送する。
なんの存在意義のないスキル。それが、俺のスキルの今までの評価だった。
だが、いざ使用してみるとまったく違った。
『倍率:100倍』
この、とんでもない一文が、今まで隠されていた。
「やっぱり……!」
俺が固まっていると、隣で、朝比奈さんが、パアアッと顔を輝かせた。
さっきまでの、S級探索者としての凛とした表情じゃない。
年相応の少女としての、満面の笑みだ。
「やっぱり、あなたは、私の……最高のパートナーになれます!」
「へ? ぱ、パートナー?」
何を言ってるんだ?
俺は、ただ、ポーションを飲んだだけで……。
「あの! 私、ずっと探してたんです!この私の魔法を支えてくれる人を!」
彼女は、興奮したように、俺の手を、ギュッと両手で握りしめてきた。
柔らかくて、温かい。
「私の最強魔法は、一撃で魔力がゼロになっちゃうんです。だから、連発もできないし、その後は、別の誰かに戦ってもらわないと……。でも、あなたのそのスキルがあれば……!」
「俺のスキル……」
「はい! あなたがいてくれれば、私は、何度でも、最強の魔法を撃てます! あなたは、私にとって、絶対に必要な人です!」
――あなたは、私にとって、絶対に必要な人です。
その言葉が、さっきの、すべてを石器時代に戻してしまう魔砲攻撃なんかより、ずっと強い衝撃で、俺の頭を殴りつけた。
必要?
俺が?
使い捨てのゴミで、囮で、石ころだった、俺が?
S級の探索者である、朝比奈ひかりにとって、『絶対に必要』?
「あ、あの……でも、俺、Fランクだし……二十三歳だし……」
思わず、俺は意味不明なことを口走る。
混乱していた。
そんな年下の天才少女に「絶対に必要」なんて言われて、どう反応していいかわからない。
俺の言葉に、ひかりさんは、きょとん、と碧眼を瞬かせた。
そして、次の瞬間、イタズラっぽく、ニパッと笑った。
「……じゃあ、今日から、私の『お兄さん』になってください!」
「え、ええ?ああ」
要するに、俺はS級探索者専属の『バッテリー』として契約するのだ。
でも、『バッテリー』って、それ、今までの立場とそんなに変わらないんじゃ……。
……いや、まあいいか。
『絶対に必要』と言ってくれたんだ。
それに少なくともゴミじゃない。
バッテリーとして、目の前のSランク探索者のお役に立てるのだ。
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