雪道
青いひつじ
第1話
皮膚を切り裂くほど冷たい風の中、夕暮れを歩くふたつの影があった。
容赦なく降り注ぐ雪から守るように、顔半分を布で覆い俯いて歩いていた母親は、足元の灯りに視線を上げた。
窓からの光だった。そこだけ暖かそうな黄色い光。薔薇の模様が描かれた縦長のステンドグラス。
中にいる家族が透けて見えた。幸せそうに食卓を囲んで、テーブルには赤いロウソクが立っている。
「いいな‥‥」
夢のような風景に歩みを止め、思わず言葉を溢した。それほどまでに立派な家だった。2階は子供部屋だろうか、窓際に人形が飾られている。さらに見上げると、風を含んだ頭巾が吹き飛んで、黒い空に消えていった。
丸出しになった顔に寒さが突き刺さり、母親は肩をすくめた。
『わたしもあのロウソクほしい』
指をさして羨ましそうに娘が言った。4歳になる娘は、見るもの全てにあれが欲しいこれが欲しいと言って母親を困らせた。人の物が羨ましく見えてしまう年齢なのだ。地面に座り込んで泣き出すこともしばしばだった。それでも母親は、呆れるだけで怒りはしなかった。こうなってしまうのは買ってあげられない自分に責任があるのだと、いつも自分を責めた。そう言い聞かせるのがいちばん楽で、早い解決方法だったのだ。
「うん。買ってあげる」
娘の頭巾もいつのまにか飛ばされていたことに気づき、母親は両手に息を込め、赤くなった娘の頬を包んだ。
『とびらのリースもかわいいなぁ‥‥』
娘のコートの襟をたてながら母親は優しく微笑んだ。
「リースも買お。クリスマスツリーも。全部買って、きれいに飾って、サンタさんが来るの一緒に待とう」
『ほんと?』
「本当」
『やくそくだよ!』
「うん。約束」
『ぜったいに!』
「うん。絶対」
瞳に半分涙を浮かべながら、まるで自分に言い聞かせるように母親は答えた。それが後に嘘となり、娘を傷つけてしまうと分かっていても、どうしても心から溢れて止められなかったのだ。
『‥‥てがいたいよぉ‥』
「ごめんね‥‥。とりあえず風の当たらないところに行きましょ」
切れかけた街灯が、どうにか道を照らしている。降る雪はどんどん強まり、まるで初めから何もなかったかのようにふたりの足跡に積もった。
キシキシと踏みしめる音の中で娘が尋ねた。
『わたしたちのおうちは?いつになったらかえれるの?』
「きっとすぐ帰れるよ。ほんの少しの辛抱」
母親の体力も限界だった。指先の感覚はほとんどなく、薄まっていく世界の中で、脚だけがかろうじて動いていた。
『もう‥‥つかれた』
娘はその場に座り込んだ。
無理もない。この吹雪の中かれこれ1時間歩いているのだから。ダウンコートもマフラーもない。大人でもこれ以上歩き続けることは難しい。しかしここに留まることはできないと判断して、母親は娘を背負って雪道を歩いた。
『おもたくないの?』
「重たくないよ」
『さむくない?』
「背中がホカホカしてきたよ」
娘を不安にさせないようにそう答えた母親だったが、いよいよ体力が限界に達した。
膝からガクンと崩れ、ふたりは真っ白な雪の上に倒れ込んだ。
「はぁ、もう、だめ‥‥」
とどめを刺すようにやってきた眠気に諦めかけた時、歪む視界の先に小屋が見えた。
「あ、あそこ‥‥あそこまで、頑張ろう」
小屋は自転車置き場のようでもあり、ゴミ置き場のようでもあり、物置のようでもあった。
錆びた自転車にダンボールの束とごみ袋、それにテーブルとイスが置いてある。畑を耕す道具なんかもあった。
部屋とは呼べないが、寒さから守ってくれることがなによりも重要だった。
『ここがおうち?』
「お家じゃないけど、今日はここで過ごそう。寒さも少しはましだし」
テーブルの上のキャンドルを見つけると、母親はポケットからマッチを取り出し、火を灯した。
『うわぁ!さっきのとおなじだ!』
「そうだね」
テーブルの真ん中にキャンドルを移動させると、先ほど見た家と似た風景になった。
『ねぇはっぱがおちてるよ!リースもつくろうよ』
娘は床の枯れ葉を拾い集めて机に広げた。
『こうしたらくっつくよ』
器用に葉っぱ同士を繋ぎ合わせると、丸いリースが出来上がった。
「すごいね。もうこんなこともできるんだね」
『そうだよ。しらなかった?』
「うん。知らなかったよ。‥‥お母さんだめだめだね」
『そんなことないよ。わたしをせおってくれた』
「ふふ。お母さん強いかな」
『‥‥おとうさんいなくなってさびしくない?』
「お母さんね、雪道だって、どんな道だってあなたがいれば寂しくないのよ。そんなことより、あなたが少しも寒くないようにその手を握ってあげたい。体を温めてあげたいって、私の胸はいっぱいになるの。‥‥見て!お母さんもできた!」
母親は完成した枯れ葉のリースを、壁の釘にひっかけた。
「あの大きな家には到底及ばないけれど、ここも悪くないかもね」
『ロウソクもリースもできた!あとはクリスマスツリー!』
「じゃあもっと葉っぱ集めよう!」
ふたりは葉っぱをかき集め床に並べた。娘はクリスマスツリーの形を作ると、星の髪飾りをはずしてツリーのてっぺんに飾った。
お腹がすけば、カバンからパンを取り出しバターを塗って交互に齧った。パンは岩のように硬くなっていた。
眠くなれば段ボールを1枚床に敷いて、もう1枚を掛け布団の代わりにした。
母親は娘を抱きしめ瞼を閉じた。
「おやすみ。明日晴れたら、新しいお家を探しに行こうね」
『おかあさん、ありがとう』
ふたりは眠りにつき、壁の隙間から吹いてきた風に、キャンドルの火が消えた。
翌朝になると、ふたりの警察官が小屋にやってきた。女性の死体を発見したと住民から通報があったのだ。
『あぁ。彼女この街で有名な浮浪者ですよ。商店街のキャンドル店に侵入してよく通報を受けてました』
『床の落ち葉は一体なんだ』
『知りませんよ。2年ほど前に娘さんを事故で亡くしたそうで、それからは働くこともできず、このありさまです。精神病も患ってたみたいですし、こんなかたちでも娘さんのもとへ行けてよかったかもしれませんね』
『たった2年でこんなふうになってしまうのか』
『大変な人生だったのでしょう。出産後すぐに結婚相手が破産して行方不明になってしまったそうですよ。それからは娘さんとふたりで質素に暮らしていたみたいですが‥‥。たしか以前は4番街の高級住宅街に住んでいたような。今も残ってる、あの薔薇模様のステンドグラスが目印の』
雪道 青いひつじ @zue23
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