第9話 全印一致VS名乗りボタン・公開フロー会議


水曜・午後一時半。

旧本社・大会議室。


長机がコの字に組まれ、真ん中はぽっかり空いている。

前にはスクリーンが一枚、左右にはホワイトボードが二枚。

片方には「押印フロー」、もう片方には「名乗りフロー」の文字だけが書かれていた。


後ろの席には現場の人たちがぎっしり。

営業、総務、経理、情シス。ざわざわした空気の中に、妙な期待と不安が混ざっている。


前列中央。

契約課・判谷 朱丸。

ネイビーのスーツ、胸ポケットには金縁の印鑑ケース。

その隣に、俺たち新会社チーム——俺、ことね、紗良、ゆい。


司会役の総務部長がマイクを取った。


「本日は、押印フローと“名乗りボタン”フローの公開比較会を行います。テーマはひとつ。“誰が責任を持っているかが一番よく見える仕組みはどちらか”。まずはお二人から、順にご説明をお願いします」


「では——」


判谷が、静かに立った。

椅子の脚は一切きしまず、ネクタイの結び目だけを親指で整える。


「契約課・判谷 朱丸である」


マイクを通さなくても通る声。

後ろの列の人間が、何人か背筋を伸ばした。


「我が守ってきたのは、“全印一致”のフローだ」


ホワイトボード左に、すばやくペンを走らせる。


1.申請者が紙の書類を持参

2.部署長・関係部署の印を集める

3.最後に契約課・判谷の印を押す

4.奉納帳に写しを貼り、“全印一致”と記録


「“全印一致”とは、その書類に押された全ての印が、定められた順番どおりに並んでいる状態だ。」


判谷は自分の印鑑ケースをポンと机に置き、蓋を開いた。

中には整然と並んだ小さな印がぎっしり。苗字も名前も同じ「判谷朱丸」だが、サイズやフォントが微妙に違う。


「印は108種。用途ごとに分けている。契約、覚書、覚え書き、議事録、副本、写し— 、それぞれに“ふさわしい”印がある」


後ろで誰かが小声で言う。「多すぎだろ……」


判谷は構わず続けた。


「紙の利点は、決裁の形が一目で分かることだ。この順番、この位置、この色。それを守ることで、事故を防いできた。数年前の事故のあと——」


一瞬、会議室の空気が固まる。

みんな、あの新聞記事を覚えている。


「我は“この部屋に押印を集める”と申し出た。全部覚える。その代わり、全部ここを通せ。それが“中央押印窓口”の始まりだ」


奉納帳が机の端に置かれている。

厚い。日付と件名と判谷の朱い線で、ぎっしり埋まっている。


「ここに全ての“決意”が並んでいる。我は、それを守り続けてきた」


最後の一言だけ、声が少し低くなった。


司会が軽く黙礼する。


「ありがとうございます。では、新会社さんのほう、お願いします」


俺は立って、スクリーン側に移動する。

ゆいがノートPCで画面を切り替えた。


青い帯のついた画面。

右上に小さく、「名乗りボタン β版」と表示されている。


「新しい会社で業務フローの設計をしている、白石です。今日は、“名乗りボタン”側の流れを説明します」


俺は、板書されている判谷フローの隣に、マーカーで書き出した。

1.申請内容を入力(電子)

2.関係者に“確認依頼”が飛ぶ

3.最後に“自分で決裁”ボタンを押す

4.ログに名前・時間・場所が残る


「やっていることは、実はほとんど同じです」


俺は指で一行ずつ指し示した。


「紙で回すか、画面で回すか。ハンコを押すか、“自分で決裁”を押すか。違いはそこだけです」


ことねが、前に出て補足する。


「ただ一つ、変えたいところがあります」


スクリーンに、ボタンの拡大画面が出た。


[自分で決裁]

押した人の「名前」「時間」「場所」が記録されます。

代理で押すことはできません。


「ここは“名乗りボタン”です」


ことねは、ゆっくりと続けた。


「“自分が責任を持つ”と決めた人だけが押せるボタン。押した瞬間の名前・時間・場所が、自動で会社と本人の両方に残ります。誰がいつ押したのかを、誰でも後から見られます。」


紗良が後ろのボードに三つの丸を書く。


・紙:形で分かる(印の位置・色)

・電子:記録で分かる(名前・時間・場所)

・共通:誰が責任を持ったかが分かる


「押印フローを全部消すつもりはありません。紙で残したいもの、法的に押印が必要なものは、もちろん残します。今日お話ししたいのは、“名乗りが見えないハンコ”を減らしたいということです」


俺は最後にこうまとめた。


「“押すこと”ではなく、“名乗ること”を真ん中に置きたい。今日は、その比較をしに来ました」


会議室が一瞬静かになる。

ざわざわが、一回リセットされた感じだ。


司会が、「ありがとうございます」と頭を下げたそのとき——


「異議あり」


判谷が、小さく手を上げた。

笑ってはいるが、目は笑っていない。


「今の説明だと、紙が古い・電子が新しいという構図に見える」


「そのつもりはありません」


俺が返す。


「どちらも手段です。見たいのは、“誰が責任を持っているかが見えるかどうか”です」


「ならば——」


判谷は、奉納帳を開いた。

ページの端にふせんがびっしり貼ってある。


「この三つの契約の流れを見ていただきたい」


スクリーンに、コピーが映し出される。

その下には、手書きの朱線。

日付、件名、担当者名、押印位置。


「この三件は、事故のあとに導入した“押順表”をもとに動かしたものだ。誰がどこに押すか、どの順番で押すか、全て決めてある。これを守ることで、同じ事故は起きていない」


後ろの席の幾人かが、小さく頷く。


判谷は、机の上に自分の印鑑を横一列に並べた。


「紙の“ポン”には、“この順番で決めた”という意味がある。“名乗りボタン”は、“順番”をどう扱う?」


ことねが答える。


「画面の順番でルートを固定します。押す順番は、システム上のルートで決まります。誰がどこで承認したか、後から全て見られます。」


「では——」


判谷は、不意に声を張った。


「全印一致(ぜんいん・いっち)!!」


ペンをとり、ホワイトボードに大きく書きなぐる。


係長 → 課長 → 部長 → 契約課 → 奉納帳


「この順番で押された紙は、“全印一致”として奉納帳に納める。順番が一つでも乱れていたら、我は押さない。戻す。差し戻す。“まだ決まっていない”と宣言する。」


後ろから、「そこは確かに助かってる」という声が、小さく聞こえた。


判谷は、それを聞いてさらに勢いづく。


「“名乗りボタン”は、その力を持ち得るか? “押し順の間違い”を、誰が止める?」


俺は、あえて少し間を置いてから答えた。


「ルートを変えられる権限を、個人に持たせません。順番はシステム設定で決めて、勝手に飛ばしたり、抜かしたりができないようにします」


紗良が補足する。


「“順番自体が決まっていない紙”が危険なんです。そこをシステム側で固定しておいて、押す人は“自分が押すかどうか”だけを決める。」


ゆいが、画面を切り替えた。

承認ルート設定の画面。


営業課 → 課長 → 部長 → 契約課 → 保管


灰色の部分には鍵マークが付いている。


「ここは契約課だけが触れる設定です。現場の人は順番を変えられません。“順番決め”は紙でも電子でも危険なので、“ルート担当者”だけに限定します。」


判谷は一瞬黙り、奉納帳をぱらぱらとめくった。


「……ルート担当者、か」



少し間が空いたあと、

判谷は、ぽつりと言った。


「我は、“忘れる”」


会議室が静かになる。


「昔の事故以来、その日何枚押したか、誰が何を持ってきたか、日によって抜け落ちることがある。」


後ろの席で、知らなかった人たちが顔を見合わせる。


「だから——」


奉納帳を指で叩く。


「ここに全部残している。誰が何時に、どの書類を持ってきて、どの順番で押したか。“我が忘れても、この紙が覚えている”ように」


その言葉には、さすがに俺も何も言えなかった。


(それ自体は……完全に間違いとは言えない)


ことねが、ゆっくりと手を挙げる。


「それは、すごく大事なことだと思います。私も、人事の仕事で同じ不安を感じるので」


判谷がこちらを見る。


「“忘れる自分”から目をそらさないのは、本当に覚悟のいることです。ただ——“一人で全部覚えようとする”のは、そろそろ限界なのかもしれません。」


ことねは、スクリーンを指差した。


「“名乗りボタン”は、押した人の名前と時間を、全部“システムに覚えさせる”仕組みです。奉納帳と同じことを、もう少し分けて持てるようにしたい」


紗良が続ける。


「紙の奉納帳は、これからも残せます。ただ、“全部ここ一冊に集める”のではなく、“各担当者の名乗りログ”として分散して残す。そうすれば——」


俺が言葉を継ぐ。


「“忘れること”を、一人の問題にしなくて済む。“ハンコを押した人だけが覚えていなければいけない”状態から、“誰でもログを見れば分かる”状態にしたい」


判谷は、机の上の朱肉を見つめた。


指が、印鑑ケースの縁を何度もなぞる。



後ろのほうから、手が挙がった。

営業部の中堅らしい男性だ。


「すみません、一つだけ質問があります」


司会が促す。


「どうぞ」


「名乗りボタンって、“押した人の名前が全部残る”って言ってましたけど、“押さなかった人”はどうなりますか?」


いい質問だ、と素直に思った。


「たとえば——」


営業が続ける。


「紙の場合、回覧板が机の端にずっと置いてあったら、“あの人、回してない”って目で分かるじゃないですか」


後ろで何人かが苦笑いする。


「電子の場合、“誰が止めてるか”って、ちゃんと見えるんですか?」


俺は頷き、ゆいに目で合図した。


スクリーンに、進行中の案件一覧の画面を出す。


案件ごとに、丸いアイコンが並んでいる。

青=完了、灰=未着手、赤=滞留。


「誰のところで何日止まっているか、一目で分かるようにしています。」


ゆいが説明する。


「紙だと“机の上にある”でしか見えませんけど、画面だと“誰のところで何日”まで出せます。“押さなかった人”も、“まだ考え中の人”も見えるようにします」


紗良が補足。


「ここを“人事評価に使わない”ルールもセットで必要です。“慎重に確認している人”まで全部“悪者扱い”になると、誰も押せなくなりますから」


営業の人は、「なるほど」と頷いた。


「そこまでやるなら、“決めた人の名前を表に出す”のはアリかなと思います」


会議室全体の空気が、少しだけ名乗りボタン側に傾いた、そのとき。


判谷が、静かにマイクを取った。


「——一つだけ」


声は落ち着いている。

さっきより、少しだけ小さい。


「“名乗りボタン”は、誰の“名”を残すのだろうか」


俺は聞き返した。


「どういう意味でしょう」


「人は、名を変える。結婚で、改姓で、通称で。過去に事故があれば、“昔の自分の名前”を見たくない日もある」


会議室のどこかで、誰かが小さく息を飲む。


「紙の押印は、“今の自分”の印だけを残すこともできる。あえて昔の名前を出さない選択もできる。“名乗りボタン”は——そこをどう扱う?」


ことねが息をつぎかけたのを、

俺は手で制した。


(そこに触れてきたか)


俺たちが今日、あえて口に出さなかったポイント。

人事台帳の「半谷 修」という名前。

「朱丸印房」のチラシ。


「その話は——」


俺は、きちんと正面から言った。


「次回、もう少しだけ“個人の話”として整理してから、この場に出したいと思います。今日は、フロー比較に絞りたい」


判谷は、じっとこちらを見た。


「個人の話、か。」


その言い方は、

少しだけ、寂しそうだった。


司会が時計を見て言う。


「本日の比較会は、時間の都合もありますので、一旦ここまでとさせていただきます」


ざわざわが戻ってくる。


「続きは——」


俺はマイクなしで言った。

前列の人間にだけ聞こえるくらいの声で。


「“名乗り”の話をするときに、改めて。」


判谷は奉納帳を閉じ、

金具をカチリと留めた。


その指先が、一瞬だけ震えたのを、

俺は見逃さなかった。


 


会議室を出るとき、

ことねが小声で言った。


「……言いかけましたね」


「ああ」


「でも、“今”出さなくてよかったと思います」


紗良も頷く。


「今日のは“フローの話”。次は“名前の話”。分けておいたほうが、ちゃんと聞いてもらえる」


ゆいが、不安そうに俺を見る。


「判谷さん、気づいてますかね。“半谷 修”の名前、私たちが知ってるって」


「たぶん、薄々気づき始めてる。だから、さっきああいう質問をした」


俺は、会議室のドアを振り返った。


(次は、真正面からやる)


ハンコか電子か、じゃない。

“名乗りを紙に閉じ込め続けるかどうか”*の話だ。


奉納帳と、名乗りボタン。

判谷 朱丸と、半谷 修。


次の回は、その全部を一つのテーブルに乗せる番だった。

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