第8話 事故記事と、“朱丸印房”の名刺
午前九時、新会社・会議スペース。
ホワイトボードには、ことねの字で今日のToDoが三つ。
1.事故記録の確認(10年前)
2.判谷さんの押印範囲・担当の整理
3.公開比較会(名乗りボタン vs 押印)のシナリオ案
ことねがマーカーをトントンしながら言う。
「今日は“ハンコそのもの”じゃなくて、“ハンコの外で何が起きてたか”を押さえる日です」
紗良が眼鏡をクイッと上げる。
「事故記録と、当時の規程ですね。“全部判谷さんに押させる”に至る流れを確認したい」
ゆいはノートPCを開いて、指を鳴らした。
「じゃあ私は“名乗りボタン比較会”の画面、“どこを見せるか”のラフ作ります。ログと紙を横並びで見せないと伝わらないので」
俺は頷いて、タスクを割り振る。
「じゃあ——、ことねと紗良は、労災・事故関係の記録と稟議。ゆいと俺は公開比較会のシナリオと、“ここだけは判谷さんに残してもらう”押印の線引き案を詰めよう」
二時間後。
ことねと紗良が戻ってきた。
ファイルを二冊と、プリントを数枚抱えている。
「ありました」
ことねが一番上を机に置いた。
新聞データベースから出したコピーだ。
地方欄の片隅に、小さな記事。
「押印ミス巡り、社員処分」
大手メーカーX社は、契約書の押印漏れにより取引先との間でトラブルが発生した件について、担当部署の社員一名を処分したと発表した。
(中略)
同社は「再発防止のため、押印手続きの集中管理体制を構築する」としている。
「“押印ミスだけ”の話にされてます」
紗良が言う。
「でも、社内の事故報告書はもう少し細かい」
次の紙には、社内フォーマットらしい文書。
・押印漏れが発生した主因:
担当者による捺印場所の誤認/最終確認者不在
・再発防止策:
契約課への押印集中
押印前の条件チェックリスト追加
多部署への分散押印の禁止
ことねが指でなぞる。
「“最終確認者不在”。この時点で、“一人に全部押させる”対策は出てないんです」
「だよな」
俺は息を吐く。
「“契約課に集める”までは分かるけど、“判谷さん一人に集める”は、ここには書いてない」
紗良が次の紙を出した。
「で、ここからが追加分です」
古い会議録のコピー。
文字が少し薄い。
・契約課としては「押印担当者を限定する」ことで責任の所在を明確化したい意向あり。
・判谷朱丸 氏(当時:契約課)は、記憶力の低下を理由に「印影を記録として残す」ことを希望。
・上長の一人が提案:“押印担当を原則一名とし、その記録を一元管理する窓口を設けてはどうか”。
ことねがまとめる。
「つまり——、“集中管理”という会社の方針に、
“自分が全部覚える代わりに、全部押す”って判谷さんの希望が、重なっちゃったんです」
「結果、“中央押印窓口=判谷さん”になった」
俺は机を指でコツコツ叩く。
「事故がきっかけなのは確かだけど、“全部自分で押す”までは会社の文書にも書いてない。そこはもう、判谷さんの“覚悟”と“暴走”が混ざってるな」
紗良が、もう一枚の紙をそっと出した。
「それと、気になる名前がひとつ」
カラーコピー。
古いチラシのスキャンらしい。
朱丸印房(しゅまる・いんぼう)
実印・銀行印・認印・ゴム印
○○商店街 半谷(はんや)
ことねが言う。
「人事の人にお願いして、“朱丸”って名前のもとを探してもらったら、このチラシが出てきました。」
チラシの下の方には、
小さく描かれたシャチハタみたいな可愛い印のイラスト。
ゆいが身を乗り出す。
「かわいい……。ていうか、“半谷”?」
「そう」
紗良が頷く。
「“半谷”が苗字で、“朱丸印房”が店の名前。判谷さんの“朱丸”は、どう考えてもここから来てます」
ことねが、別のプリントを出す。
今度は人事台帳の一部。
氏名:半谷 修(はんや・おさむ)
通称:判谷 朱丸(はんたに・しゅまる)
通称使用:可
備考:事故後の本人希望により通称使用継続
「法的な名前は半谷 修。“判谷 朱丸”は通称。入社時にはちゃんと登録されてました」
俺は思わず息を吸った。
「……本人は、知ってるのか? それ」
「気づいてるはずです」
紗良が淡々と続ける。
「入社時の書類には、“本名で署名→隣に通称を括弧書き”になってますから。その後、押印窓口の看板を出すときに、通称だけを前面に出した」
ことねが、メモ帳に書いた一行を読み上げる。
“朱丸”でいたい気持ちと、
“半谷 修”を直視したくない気持ちが同居している
ゆいが小声で付け足した。
「あと、“判”って字のほうがハンコっぽいですしね……」
「そこかもしれん」
俺は苦笑いする。
「事故のほうは?」
俺が聞くと、
ことねがもう一枚の記録を出した。
【医務室記録(抜粋)】
・○年前、交通事故により頭部を負傷。
・一時的な健忘症状あり。
・家族の証言によれば、「直近数年の出来事」を中心に断片的な記憶の抜けがみられた。
・意識回復後、本人は「印章店の店名・デザイン」をよく口にしていたとのこと。
「“印章店の店名”。つまり、朱丸印房です」
ことねが言う。
「たぶん、記憶を失った状態で手元にあった“朱丸印房”の名刺を見て、“これが自分の名前だ”って思ったタイミングがあったんでしょう」
紗良がゆっくり付け足す。
「本当は、“祖母のお店の名前”だったのに」
ゆいが、コピーをじっと見つめる。
「“半谷 修”っていう本当の名前より、“朱丸”っていう、好きだった店の名前を選んだ……」
「それ自体は、責められない」
俺は、素直にそう思う。
「でも、そのあとが問題だ」
ことねが手帳をパタンと閉じる。
「“名前をごまかし続けるためのハンコ”になった瞬間があるはずです」
「そこをちゃんと見せないと、“可哀想な過去があるから全部許せ”って話になっちゃう」
紗良がきっぱり言う。
「事故は事実、記憶障害も事実。でも、“中央押印窓口=判谷さん一人”は、そこから先の話です」
ゆいが画面に新しいメモを打ち込む。
公開比較会のゴール:
・ハンコそのものを悪者にしない
・“名乗りをごまかす/抱え込むためのハンコ”をやめる
・“名乗りボタン”と“押印”の使い分けを、みんなで決める
「で——」
俺は椅子にもたれて、天井を一度見る。
「この話、どこまで公開で言う?」
ことねと紗良とゆい、三人とも黙り込む。
ことねが最初に口を開いた。
「事故そのものは、事実として出したほうがいいと思います。“押印ミスだけで全部背負わされた人がいた”って誤解も、どこかでほどいてあげないと」
「名前は?」
紗良が慎重に言う。
「“半谷 修さん”という本名があって、今は“判谷 朱丸さん”という通称を使っている。その経緯はご本人の前で確認したほうがいい」
「いきなり“あなたの本名はこっちですよね?”って出すのは、正直ショックが強すぎると思うので……」
ゆいが手を挙げる。
「比較会の前半は、あくまで“紙の押印フロー”と“名乗りボタンフロー”の比較だけやる。事故や名前の話は、判谷さんが“全部自分で押す理由”として語ったときにだけ、必要な最小限を出すのはどうでしょう」
俺は少し考えてから、頷く。
「そうだな。最初から“あなたが悪い”ってやると、“紙 vs 電子”の話が、全部“人攻撃”にすり替わる」
ことねがホワイトボードに書く。
1st:
フロー比較(誰の名乗りが見えるか)
2nd:
“全部一人押し”のリスクを示す(事故・健忘の事実を添える)
3rd:
“名乗りボタン”と“押印”の使い分け提案
紗良が最後に一行足した。
4th:
“名前をごまかすためのハンコ”は終わりにする、と宣言
♢ ♢ ♢
そのころ、旧本社・契約課。
中央押印窓口の小部屋。
蛍光灯は少し暗く、窓は小さい。
机の上には、奉納帳と、印鑑ケースと、朱肉だけ。
判谷 朱丸は一人で奉納帳を開いていた。
9:12 A社契約/全印一致:判谷
10:27 社内覚書/全印一致:判谷
13:45 機密保持契約/全印一致:判谷
朱の線が、今日もびっしり並ぶ。
「……全印一致」
小声で呟く。
「“名乗りボタン”とやらは、何を“一致”させるつもりなのだろうな」
ポン、と朱肉に印を落とし、余白に小さく押す。
朱丸の朱。
机の隅には、
古びた名刺が一枚、透明なカードケースに入って立ててある。
朱丸印房
半谷
判谷——いや、半谷 修は、その名刺をしばらく見つめた。
「……祖母上」
誰もいない部屋に向かって、
ぽつりと言う。
「我は、まだ間違えているのだろうか。」
答える人はいない。
ただ、明日の会議のお知らせメールの受信音だけが、
パソコンのスピーカーから小さく鳴った。
件名:
《公開フロー比較会のご案内》
名乗りボタンと押印窓口の役割について
判谷は、その件名を一度だけ読み、
メールを閉じた。
奉納帳に視線を戻す。
「……名乗る、か」
自分の名前の欄に、
小さく指を当てる。
判谷 朱丸
「我は、何者として名乗れば良い?」
誰にも聞こえない声は、
奉納帳の紙にだけ、静かに落ちた。
新会社の会議スペースに戻る。
ホワイトボードには、今日のメモがぎっしりになっていた。
・事故は“押印ミスだけ”の話ではなかった
・中央押印窓口は「会社の方針+判谷さんの希望」の合わせ技
・法的な名前は半谷 修、通称が判谷 朱丸
・“ハンコでしか名乗れない”状態を終わらせる
ことねが最後にペンを置いて言う。
「……やっぱり、“ハンコを全部否定”じゃなくて、“名乗りを増やす”話にしてよかったですね」
紗良も頷く。
「事故のことを知ったあとだと、“全部電子にしろ”とは、とても言えません」
ゆいが笑う。
「でも、“全部ポンで守る”も、もう無理ですしね」
俺はホワイトボードの端に、一行足した。
公開比較会のタイトル案:
「名乗りを紙だけにしないための会」
「タイトル、ちょっと固いですかね」
ゆいが首を傾げる。
「いいんじゃない?」
ことねが言う。
「“ハンコをやめる会”じゃなくて、“名乗りを増やす会”に見えるし」
紗良が笑う。
「問題は、中身でしっかり“増えてる”って見せることですね」
窓の外はもう夕方の色。
対面のビルの窓には、誰かが残っている影がちらほら。
どこかのフロアでは、
今もポン、という音がしているかもしれない。
「明日は、ポンとカチを横並びにする日だ」
俺は静かに言う。
「“誰が名乗ってるか”が一番見えるのはどっちか、みんなの前で比べよう」
三人とも、まっすぐ頷いた。
次は、公開の場。
奉納帳とログ。
ハンコと名乗りボタン。
その真ん中で、
判谷 朱丸——半谷 修と向き合う番だ。
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