第7話 奉納帳と、“名乗り”の取り合い
水曜の午後。
旧本社と新会社の合同ミーティングルーム。
壁一面のホワイトボード。
長机がコの字に並べられて、その一角に「押印フロー意見交換会」とだけ書いた紙がテープで貼られている。
片側に旧本社メンバー。
契約課の人たち、総務、経理。
その真ん中に、判谷 朱丸。
反対側に、新会社から来た俺たち四人。
俺と、ことね、紗良、ゆい。
空調は効いているのに、なんとなく暑い。
司会役の総務が、緊張した声で言う。
「本日は、押印フローの見直しにあたりまして……“名乗りボタン”チームの皆さんと、中央押印窓口の判谷さんとの、意見交換の場を——」
「戦か」
判谷が、小さく笑う。
「戦いではありません」
総務が慌てて否定する。
「意見交換です」
「戦は、意見の交換から始まるのだがな」
ことねが俺の袖をちょいっと引いた。
「ツカミからこれです」と目で言ってる。
俺は一度だけ息を整えて、立ち上がる。
「新会社側、相原です。今日は、“ハンコを全部やめろ”と言いに来たわけではありません」
旧本社側の視線が、少しだけ和らぐ。
「“名前を残す手段を増やしたい”と考えています。紙のハンコだけじゃなく、画面の“名乗りボタン”でも、“誰が見て・誰が決めたか”を残せるようにしたい」
ゆいがノートPCからスクリーンに画面を出す。
〈名乗りボタン〉
[ 自分で決めて記録する ]
(※押した人の名前と時間が記録されます)
その下には、
小さくこう書いてある。
※犯人探しのためではなく、「困ったときに最初に相談する人」を分かるようにするための記録です。
会議室の数人が、
ここだけ見てふっと笑った。
「では、こちらからも名乗ろう」
判谷が立つ。
ネイビーのスーツ、朱色のペン。
胸ポケットには小さな印鑑ケースがいくつも詰まっていて、ひとつ動くたびにカチャカチャと鳴る。
「中央押印窓口——印の聖域。その番人、判谷 朱丸である」
新人らしき子がビクッとした。
総務が小声で「自己紹介、普通で……」と言いかけて黙る。
「我がここに座る理由から話そう」
判谷は、机の上に分厚いノート——奉納帳——を置いた。古びたハードカバー、背には金の文字で「奉納」とだけある。
「昔、この会社で押印ミスがあった。」
部屋の空気が少し重くなる。
知っている人は知っている話らしい。
「その日。一本の契約書に、押すべき印が一つ、抜けた」
判谷の声は、急に普通のトーンになる。
「担当者は、若い人間だった。“紙の束が多すぎて、気づきませんでした”と、震えながら言っていた」
彼は奉納帳の裏表紙を、ゆっくり撫でる。
「印が抜けていたせいで、相手先からクレームが来た。追加費用、納期の遅れ。あの日の夜、彼は呼ばれて——、それから、このフロアに戻ってくることはなかった」
会議室の隅で、誰かが小さく息を呑む。
「その時、上層部はこう決めた」
判谷は指を一本立てる。
「“押印をバラバラにしておくから抜ける。全部、契約課に集約する”」
総務が補足するように言う。
「……それで、“中央押印窓口”が出来たんです」
「そうだ」
判谷はうなずく。
「その時、我は覚えが悪くなった。顔も、順番も、時々すぽっと抜ける」
奉納帳を開く。
朱色の線と印影がびっしり並んでいる。
「だから、印影を外付けの記憶にした。誰が来て、何を持って、どの順で押したか。全部ここに、朱で残すことにした」
指で今日の日付の欄をなぞる。
9:12 A社契約/初印:佐野/影印:課長代行/全印一致:判谷
10:27 社内覚書/初印:井上/影印:総務課長/全印一致:判谷
「この朱を捲れば、その日のことを思い出せる。我が抜けても、朱は抜けない」
一瞬だけ、
部屋の空気がしんとした。
俺も、ことねも、紗良も、ゆいも、
自然と奉納帳を見つめてしまう。
(……ちゃんと理由がある)
ことねが、俺の横で小さく息を吐いた。
「もうひとつ」
判谷は奉納帳を閉じ、今度は右手の印鑑ケースを軽く持ち上げた。
「誰かが“押し損ねた印”の先に、不幸を見た。」
「不幸……」
紗良が小さく繰り返す。
「押していれば防げたかもしれない、と言われた事故。押していれば止められたかもしれない案件。──押さなかったことで、“お前のせいだ”と指を向けられた者を、何人も見た」
判谷の声は、淡々としている。
「だから、我はこう結論づけた」
彼は印鑑ケースを机にコトンと置く。
「誰か一人が押すと、その人が不幸になる印がある。ならば、我が全部引き受ける。“押したという事実”を、一箇所に集める」
ことねが、思わず口を開いた。
「……それ、“誰かが一人で背負わされないように”じゃなくて、“判谷さん一人に背負わせる”ってことになりませんか?」
「構わん」
間髪入れずに返ってくる。
「我は“印を押す役”としてここにいる。だから、押す。」
「でも——」
俺が口を開く。
「“押した証拠があるほうが、“誰が押したのか分からない状態”より、安全じゃないですか?」
「証拠は紙にある」
判谷がぴしゃりと言い切る。
「画面の“名乗りボタン”は、いつ魔王に書き換えられるか分からない。」
ゆいが、こっそり俺の肘をつついた。
(また魔王出ましたよ)って顔。
」
「魔王、というのは……」
紗良が丁寧に聞き返す。
「電子決裁システム?」
「そうだ」
判谷は、以前×印を叩きつけたアンケートのコピーを机に置いた。
[ 承認する ]
その上から、朱の×。
「クラウドの奥底に潜む魔王だ。“承認”という名の呪文で、誰が押したのかを溶かそうとしている」
「……ログには、名前と時間が残る設計です」
ゆいが冷静に返す。
「それこそ、“名乗り”の記録なんですが」
「ログは、見ようとしなければ存在しない。」
判谷が即答する。
「紙は、開けばそこにある。画面の裏のログは、“信じようと思えば信じられる”程度の影。我は、影より紙を信じる」
ことねがメモ帳にさらさらと何かを書いた。
(影より紙、か……)
「“名乗りボタン”も、影では?」
判谷が俺たちを見る。
「画面の端に小さく“相原 迅/13:02”と出たところで、紙の上の相原印ほどの重みがあるか?」
「重みというより、意味だと思います」
俺は答える。
「“名乗りボタン”を押した人は、“自分が見て、自分が決めた”と明言する。後から、“聞いてません”は通用しない。でも、“押してません”とも言える」
ゆいが続ける。
「ログを見ると、“誰が押したか”が一発でわかるので、“誰も押してないのに進んでた”が消えます」
紗良が静かに落とす。
「紙のハンコ一つで“見たことにする”よりも、画面で“見たかどうか”をきちんと分けられます」
判谷は、ふん、と鼻を鳴らした。
「なるほど。“名乗りボタン”は、“自分の名前を自分で押す”ボタン、ということだな。」
「そうです」
ことねがうなずく。
「“誰かが押してくれてた”をやめるためのボタンです」
「……嫌いではない」
判谷がぽつりと言った。
「?」
「自分の名は、自分で名乗る。その点では、我も同じ考えだ」
少しだけ、
場の空気が和らぎかけた——その瞬間。
「だが、魔王は笑っている」
判谷は、その空気を自分で切った。
「“電子の名乗り”が増えれば、押しに来る者は減る。」
「そりゃあ、そうなりますね」
俺が正直に言うと、
「“押しに来ない者”の顔を、我は覚えられない」
判谷は、奉納帳をトン、と指先で叩いた。
「ここに来て、“ポン”と押される印だけが、我と結びつく。ポンが減れば、我の世界も減る。」
……ああ、と俺は心の中だけで声を出す。
(そこか)
ことねが気づいた顔をして、ノートに書き込む。
判谷さんにとって「押印窓口に来ること」=「存在が世界に記録されること」
紗良もペンを走らせる。
“押印ミスの事故”で責任の所在が曖昧になった →「印がないと誰も守れない」と思い込む →自分のところに全部集めて守ろうとしている
ゆいは、モニターを見ながら小声で言う。
「“名乗りボタン”が広がれば広がるほど、判谷さん、“世界から人が減る”って感じなんでしょうね」
「判谷さん」
俺は正面から見る。
「“押しに来てくれた人しか覚えられない世界”が、本当に安全なんでしょうか。」
「……ほう」
「“押しに来れない人”はどうなります?」
俺は続ける。
「出張中とか、体調崩しているとか、別の拠点にいるとか。今までは“押しに来れない=印がない=その人が決めたことにはならない”だった」
ことねが静かに補う。
「名乗りボタンを使えば、“押しに来れない人”も、“決めた人”として記録できます。」
紗良がさらに言う。
「“押しに来た人だけ守る”よりも、“押せる環境さえあれば誰でも守る”ほうが、全体として安全です」
判谷は、俺たちをじっと見た。
瞳の奥に、
わずかに揺れるものがある。
「……それでも、我は“ポン”を捨てぬ。」
「捨ててくれとは言ってません」
俺は首を振る。
「“名乗りボタン”と“ハンコ”を、どこで使い分けるか決めましょうって話です」
ゆいが画面を切り替える。
「例えば、こんなルールです」
・対外契約:紙+押印(今まで通り)
・社内決裁:名乗りボタン(原則)
・緊急時:名乗りボタンのみで走り、後から紙で補完
「“全部電子にしろ”とも、“全部紙に戻せ”とも言っていません」
ことねが、はっきり言う。
「“誰の名乗りが見えるか”を基準に、混ぜて使うルールにしたいんです」
会議室のあちこちで、
「それなら……」「そのくらいなら……」と
小さな声が生まれる。
総務の担当者が、おずおずと手を挙げた。
「私たちとしても、“社内決裁だけでも電子にしたい”って気持ちはあって……。でも、判谷さんが“全部ダメ”って——」
視線が、自然と判谷へ集まる。
判谷は、少し長く黙った。
奉納帳を閉じて、
ペンをきちんと揃えて置く。
「面白い」
ぽつり、と言った。
「“誰の名乗りが見えるか”で線を引く。我の奉納帳と、そなたらのログ。どちらが明るいか、比べる価値はある。」
俺は少しだけ肩の力を抜く。
「じゃあ——」
「公開でやろう。」
判谷の声が、急に一段響いた。
「ここで話しただけでは、“また勝手に電子にした”と言われる。魔王の噂は、影で増える」
総務が慌ててメモをとる。
「公開……?」
「全社メールで告知しろ」
判谷は指を二本立てる。
「“名乗りボタン 対 中央押印窓口”どちらの記録が分かりやすいか、どちらが“名乗り”としてふさわしいか、社員の前で討つ。」
ことねが俺を見る。(来た)
紗良が少しだけ口角を上げる。(やりましょう)
ゆいは「配信もしたいですね」と真顔で言う。(ノリノリだ)
「日時と場は、そなたらが決めろ」
判谷が、こちらに委ねるように言う。
「契約書が一本。ハンコのフローと、名乗りボタンのフロー。同じ案件で、並べて見せる。その上で——」
彼は、自分の胸ポケットにやさしく触れた。
「我の奉納帳を、真正面から否定してみせよ。」
会議室の空気が、ぎゅっと張りつめる。
俺は、逃げ道を作らないほうがいいと判断して、はっきり言った。
「やります」
「よろしい」
判谷は、いつもの薄い笑みを浮かべる。
「“我のポン”と、“お前のカチ”——、どちらが“名乗り”として残るか、見ものだ。」
会議が終わって、
別室に移動してから。
ことねが最初に口を開いた。
「……あの人、“事故の話”、本気で言ってましたね」
「押印ミスの夜の話?」
「はい」
ことねはメモを見せる。
・押印抜け → 担当が飛ばされた
・そのあと中央押印窓口設置
・“顔と順番を忘れるようになった”
・だから奉納帳
紗良が腕を組んで言う。
「話としておかしくはない。でも、“全部一人で押す理由”としては、やりすぎです。」
「“誰か一人が押すと不幸になる”から全部自分で押す、って理屈ですよね」
ゆいが首を傾げる。
「それ、本人もどっかで“おかしい”って分かってると思うんですよね。だからああやって、言葉を派手にしてごまかしてる」
俺も頷く。
「“影より紙を信じる”も、“ポンが減れば世界が減る”も、感情としては分かるけど、会社としては限界が来る」
ことねがペンを握り直す。
「事故の記録、本当に調べてみませんか?」
「記録?」
「はい」
ことねは、労務の目になる。
「労災の扱いがどうなってたか。押印ミスと言ってましたけど、もしかしたら、もう少し複雑な事情があったかもしれない」
紗良が、法務モードの顔になる。
「当時の規程も見ましょう。“全部判谷さんに押させる”って、普通ならコンプラ的に止められるはずです」
ゆいがノートPCをパタンと閉じた。
「じゃあ次回、“事故の夜のログ”を探す回ですね」
「そうだな」
俺は小さく笑ってから、
ホワイトボードに一行書いた。
次回:事故記録/奉納帳の外側にある“名乗り”を探す
「ハンコを否定しに行くんじゃない。」
俺は、自分にも言い聞かせる。
「“名前をごまかし続けるためのハンコ”を、
終わらせに行く」
会議室の外、
旧本社のフロアからはまだ、
遠くでポンという音が響いていた。
次にその音を聞くとき、
俺たちは奉納帳の“外側”の話を手に入れているはずだ。
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