第6話 “押してから考える”を、やめさせたい
朝のコワーキング室。
窓からの光と蛍光灯がまざって、ホワイトボードだけやたら明るい。
今日やること
1.名乗りボタンの「ここが不安」聞き取り
2.簡単マニュアル(1枚もの)作成
3.パイロット対象部署と顔合わせ
ことねがマーカーで「不安」を二重線にしてから振り返る。
「今日は、“押したくない理由”を集める日です」
「いいね。“押させる”前に、“押したくない”を出してもらう」
俺が言うと、紗良がメモをひらひらさせた。
「昨日の時点で、すでにこんな声が来てます」
・“名前が残るのが怖い”
・“一度押したら取り返しがつかなそう”
・“後から部長に怒られたらどうしよう”
・“口頭でOKもらってから押したい”
ゆいが眉をしかめる。
「最後の、“口頭でOKもらってから押したい”がクセ者ですね」
「だよね」
俺は頷く。
「それやると、“誰が決めたか分からない決裁”がまた増える」
ことねがボードの左に小さく図を描いた。
[現状]
口頭でOK
↓
誰かが押す(誰だか曖昧)
↓
問題が起きたら、みんなで知らん顔
[新しい流れ]
誰かがちゃんと中身を見る
↓
見た人が“名乗って決める”を押す
↓
それを見たうえで、必要なら別の人も名乗る
「“押してから考える”を、やめさせたいんですよね」
「そう」
俺はペンを取り、図の横に一行足した。
先に考えて、押してから相談される。
「この順番を守ってくれれば、“とりあえず押して後から怒られる”は減ります」
紗良が指でトントンと机を叩く。
「“取り消し”の説明も欲しいですね。一度押したら戻らないと思われると、余計怖がります」
ゆいがすぐキーボードを叩き始める。
「“取消ボタン”の仕様、ここで整理しときましょう」
◆
午前、別フロアの会議室。
パイロット対象の「営業三課」に集まってもらった。
グレーのテーブルにペットボトルの水。
壁のホワイトボードはまっさら。
俺たち三人で、正面に立つ。
「今日は、“名乗りボタン”の説明と、“押したくない”と思ったところを正直に言ってもらう時間です」
最初にそう言うと、
部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
課長が腕を組んで聞いている。
中堅の佐久間さんもいる。
新人ぽい顔が三つ。
ゆいが画面を映す。
「ボタンは、ここです」
[ 名乗って決める ]
(※押した人の名前・時間・場所が記録されます)
その下に、「取消」ボタン。
「“名乗って決める”を押したあと、内容を間違えたことに気づいたら、本人が自分で取消できます。」
ことねがゆっくり言う。
「取消したこともログに残ります。“間違えたときにどうすればいいか分かる”ほうが、人は落ち着きます」
新人1が手を挙げた。
「一回押して、取り消したあとに、“なんで間違えたんだ”って怒られたりしませんか?」
「そこ、大事なところですね」
俺は頷いた。
「“押さなかったのに、口頭でOKって言ったよね?”って後から言われるほうが、よっぽど怖くないですか?」
新人は少し考えてから、こくりと頷く。
「“押したうえで間違いも見える”ほうが、“どこで勘違いしたのか”をみんなで確認できます」
ことねが補う。
「間違いを隠すための仕組みではなく、間違えたときにやり直せる仕組みです」
課長が、腕を組んだまま口を開いた。
「……“犯人探しじゃない”って言い切れるか?」
「言い切ります」
俺はまっすぐ答えた。
「名乗りボタンの画面に、“犯人を決めるためではなく、困ったときに最初に相談する人を分かるようにするためのボタンです”と、そのまま書いてあります」
ゆいが画面をスクロールして、
画面下の説明文を拡大する。
課長はそれをじっと見て、
小さく鼻で笑った。
「……“犯人探しじゃない”って、何回でも言うつもりか」
「何回でも言います」
ことねが淡々と返す。
「“一回だけ言って終わり”だと、“本当は違うんじゃないか”って思われますから」
佐久間さんがふっと笑った。
「昨日、電話でも同じこと言われました」
「おかげさまで、押せました」
新人たちも少し笑う。
「じゃあ、まずは少ない案件から始めましょう」
俺はまとめた。
「“全部をいきなり名乗りボタンにする”んじゃなくて、まずは“金額の大きい案件だけ”とか」
課長がうなずく。
「……それなら、いい」
「“怖い”と思ったところは、全部出してください」
紗良がホワイトボードを指さす。
「“押したら怒られそう”とか、“このケースはどうなる”とか。それ聞くための時間なので」
会議室の空気は、
さっきよりだいぶ軽くなっていた。
◆
夕方。コワーキング室に戻って、今日のまとめ。
ホワイトボードには、
営業三課とのやりとりが箇条書きで並ぶ。
・“取消ができるかどうか”の不安が大きい
・“犯人探しじゃない”と画面に書いてあるのは効く
・“全部じゃなくて一部から”のほうが入りやすい
・“今までのハンコは誰が見たか分からない”という共通認識あり
「思ったより、“ハンコへの信頼”は薄かったですね」
紗良がペンをくるくる回す。
「“課長印があっても、見たかどうか分からない”って、みんな普通に言ってました」
「“押した人が分からない安心”より、“相談先が分かる安心”のほうが欲しいってことだね」
俺が言うと、
「それ、トップページに入れません?」
ゆいがすぐPCに打ち込む。
ハンコ:誰が見たか分からない安心
名乗りボタン:誰に相談すればいいか分かる安心
「この一文、説明会で使えそうです」
ことねがにやっとした。
「判谷さん、どう思うかな」
「たぶん、“紙のほうが偉い”って言いますね」
「でしょうね」
◆
——同じころ、旧本社・六階 契約課「中央押印窓口」。
午後の窓口は、いつもより人が多い。
契約書、覚書、稟議書。
バインダーで挟まれた紙の束が、
ひとつ、またひとつカウンターに積まれる。
判谷 朱丸は、
その山を見て、ほんの少しうれしそうに口角を上げた。
「本日も巡礼日和だな」
隣の若手が小声でつぶやく。
「……普通、巡礼ってもっと静かなやつだと思うんですけど」
「静かだろう」
判谷は朱肉を開けながら答える。
「ここで鳴るのは、ポンだけだ」
ハンコ捌き・午後の部
最初の社員が書類を差し出す。
「これ、稟議の——」
「申請者、名乗れ」
「えっ、あ、システム開発部の村上です」
「よろしい。初印・村上、受付」
小さい角印が左下にポン。
次の欄。
「課長は?」
「今日は席にいないので……代理で部長が」
「代理の影。代影印(だいえいいん)、召喚」
中くらいの丸印を朱肉に沈め、右上へポン。
列に並んでいる社員が、
こそこそと囁き合う。
「代影印て何……」
「分かんない。判谷さんの中では意味あるんだよ、多分」
判谷は奉納帳の今日のページに、
今押した順番を朱ペンで書き足す。
14:03 開発稟議/初印:村上/代影印:部長/全印:未
「——さて」
彼は最後の欄、
決裁印の位置に指を当てた。
「全印一致は、今は保留だ」
「えっ、なんでですか」
村上が慌てる。
「急ぎの案件なんですけど……」
「魔王がうごめいている」
「は?」
「電子決裁の呪文だ」
判谷は、さっき×印を押したプリントを取り出して見せた。
[ 承認する ]
(上から真っ赤な×)
「魔王クラウドが、“承認”という名で名を盗ろうとしている。その呪いが完全に解けるまで、全印一致は安易に振るわぬ」
「……すみません、もっと分かりやすく言ってもらってもいいですか」
「上が“五分で返せ”と言うから、電子に魂を売るのだ。紙は時間を食う。しかし、時間を食ったぶんだけ、我の中に残る」
村上は完全についていけていない顔をしている。
後ろの社員がこっそりLINEを打つ。
(いま判谷さん、魔王とか言ってる)
(また始まったの?)
(電子決裁=魔王らしい)
一段落ついたところで、
判谷は奉納帳を開いた。
今日だけで、すでに十数行。
9:12 A社契約/初印:佐野/影印:課長代行/全印一致:判谷
10:27 社内覚書/初印:総務・井上/影印:総務課長/全印一致:判谷
11:43 B社注文書/初印:営業二課・高山/影印:部長/全印一致:判谷
……
その下、さっきの村上の行が追加されている。
14:03 開発稟議/初印:村上/代影印:部長/全印一致:保留
(……村上)
さっきの顔を思い出そうとして、
視界が一瞬、白くにじむ。
黒髪だったか。茶だったか。
眼鏡だったか、そうでなかったか。
(……抜けた)
胸の中が、少しだけざわつく。
彼はペンを握り直し、
奉納帳の余白に小さく書き足した。
村上:システム開発/若手/声 高め
(これで、次に見たとき思い出せる)
ページの端には、
過去の日付がみっしりと並んでいる。
一枚めくるたびに、
小さく「ポン」「ポン」と声にならない音を出す。
(ここに朱がある限り、今日の我は消えない)
そこへ、
総務の女性が小走りでやってきた。
「判谷さん、電子決裁の件で、“押印窓口としての意見”を出してほしいと——」
「意見?」
判谷の目の奥で、
何かがきゅっと細くなる。
「意見照会(いけんしょうかい)か。呪文の前触れだ」
「い、いえ、普通の——アンケートみたいな」
「よい。書こう」
判谷は、紙のアンケート用紙を受け取ると、
ボールペンではなく朱ペンを取った。
設問1:電子決裁について、良いと思う点はありますか。
設問2:不安に思う点はありますか。
設問3:その他、ご意見があれば。
彼は一行目に、整った字でこう書いた。
良い点:なし。
二行目。
不安な点:名乗りが“ボタン”に奪われる。
三行目は、少し長くなる。
意見:
印は「その場にいた」という事実を紙に留めるもの。
電子決裁は「誰かが押したかもしれない」という影を残すだけ。
我は、影よりも紙を信じる。
書き終えると、
アンケートの右下に自分の印をポンと押した。
総務の女性が、それを見て苦笑する。
「……アンケートに押印はいりませんよ」
「名乗りに印は必須だ」
「お名前、上に書いてあります」
「目が滑ることがある」
判谷はさらっと言う。
「しかし、朱は滑らない。
そこにあるなら、我が押したのだと分かる」
総務の女性は何か言いかけて、
結局「預かります」とだけ言って去っていった。
夕方五時。
契約課のフロアで、ポンという音がまだ続いている頃。
別ビルのコワーキング室では、
小さなカチという保存音が、
少しずつ増えていた。
画面のログには、
名乗りボタン:営業三課/佐久間
名乗りボタン:営業三課/課長
名乗りボタン:経理部/担当者
と、ハンコの代わりに名前と時間が並んでいく。
「……ポンが減るたびに、あの人、どうするかな」
ことねがぽつりと言う。
俺はモニターのログを見ながら、
小さく息を吐いた。
「たぶん、ポンを増やそうとする」
「“電子に取られるくらいなら、全部ここに持ってこい”って?」
「そう。——そのときに、どこかで無理が出る」
紗良が、静かにメモに書き足す。
判谷:ハンコを増やす方向に振れるはず
→ 押印順序/本人確認/物理的な限界
ゆいが、画面の右上に小さく一行出した。
“ボタン”と“ハンコ”のどちらが正しいかではなく、“誰の名乗りが見えるか”を基準にする。
「明日も、“犯人探しじゃない”って、何回でも言いましょう」
ことねがホワイトボードの同じ一文をなぞる。
契約課のフロアと、
業務フロー改善チームのフロア。
同じ会社の中で、
ポンとカチの音が、
すこしずつ違う意味を持ちはじめていた。
か。
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