第5話 “犯人探しじゃない”って、何回でも言う(改)

月曜の朝。

業務フロー改善チームの島の上には、今日もホワイトボード。


今日やること

1.名乗りボタンのお知らせ文・確定

2.社内Q&Aページ作成

3.ベータ運用スタート


琴音がマーカーをカチ、カチといじりながら言う。


「今日は、“説明を先に出す日”です」


「機能より先に、説明」


俺が言うと、


「そうです。説明をケチると、“なんか怖い”で止まりますから」


琴音はボードの下の、一行を指さした。


これは誰か一人に押し付けるためではなく、

困ったときに最初に相談する人を分かるようにするためのボタンです。


紗良が、自分のマシンでイントラ用の原稿を開いている。


「“責任”って単語、全部消しました」


「正解だと思います」


俺も画面を覗き込む。


「“責任が生まれるボタン”って書いたら、そりゃ誰も押したくないですからね」


ゆいが、UIのラベル案を読み上げる。


「ボタンのラベルはこれにしました」


[ 名乗って決める ]


「“決裁”って言葉、こわい人いるので」


「“承認”も、人によってはイヤそうですね」


「はい。“決める”くらいが限界です」


ことねが横から付け足す。


「下に小さく、こう書きます」


※押した人の名前・時間・場所が記録されます。

※あとから質問が来たとき、最初に相談される人になります。


「“怒られる人”じゃなくて、“相談される人”」


俺が言うと、


「そうです。“頼り先”です」


ことねはそこだけ、少し声を強くした。


 



昼前。

イントラに「名乗りボタンベータ開始」のお知らせが出た。


昼休み前後から、さっそく社内チャットにざわざわが始まる。


「名前残るの、ちょっと怖い」

「今まで誰のハンコか意識してなかったからなあ」

「“名乗って決める”って言われると、構えちゃう」


ことねがチャットを見ながら、ため息というより「よし来た」と言う顔をする。


「想定どおりです」


紗良がQ&Aページを開く。


Q. 名乗りボタンを押したら、全部自分の責任になりますか?

A. なりません。

 “この案件について最初に聞かれる人”になるだけです。専門的な判断が必要な場合は、別の人にも名乗ってもらいます。


Q. これまでのハンコは全部なくなりますか?

A. いいえ。

 “誰が見ているか分からないハンコ”を減らし、

 “見ている人を名乗るログ”に置き換えます。


「ここ、太字にしておきますね」


紗良が「なりません。」に太字を入れる。


「“なりません”って、最初に言ったほうがいいです」


ゆいは、チャットの反応を見ながらUIの微調整をしている。


「ログ画面に、“この案件に関わった人一覧”を出すようにしました」


画面の右側には、


■ この案件に関わった人

・申請者:◯◯

・名乗りボタン押した人:◇◇

・相談に入った人:□□


と並ぶ欄ができている。


「“1人だけじゃない”のが分かるように」


「いいですね、それ」


俺は本気で感心した。


(“名前が残る=一人で背負う”ってイメージを壊したい)


 



午後。

さっそく、名乗りボタン絡みの「初トラブル」が来た。


——トラブルというより、「不安の声」だ。


営業部の中堅・佐久間さん から、ことねに通話が入っている。


「……はい、いや、その、“押したのはいいんだけど”ってやつで」


ことねが片手でスピーカーホンにして、俺たちも聞こえるようにする。


佐久間

「今まで、部長印も課長印もあって、“みんなで見てる”って感じだったじゃないですか」


白石

「はい」


佐久間

「今回、“名乗りボタン”押したら、ログに俺の名前が一番上に出てて。これ、もし変なこと起きたら、“全部お前のせい”ってなるのかなって」


ことね

「その不安、けっこう多いです」


佐久間

「正直、押すのちょっと手が震えました。でも押さないと止まるし……」


ゆいが、隣で佐久間さんの画面をリモート表示してくれる。


画面右側には、さっきの一覧。


■ この案件に関わった人

・申請者:営業三課/新人・山本

・名乗りボタン:営業三課/佐久間

・経理チェック予定:未実施

・法務チェック予定:未実施


ことねが、ゆっくり説明する。


「“名乗りボタン”は、“このタイミングで中身をちゃんと見たのが誰か”を残すためのものです」


「はい」


「経理チェックや法務チェックが入ったら、

 その人たちにもそれぞれ名乗ってもらいます。

 そのログが、この一覧に追加されます」


画面の下には薄く、


※この案件に関わった人全員の名前が残ります。


と書いてある。


俺は、そこを指さすようにして言った。


「犯人を決めるためじゃなく、“相談する順番”を決めるためのログです」


「相談する順番……」


「何かあったときに、“誰に聞けば話が一番早いのか”が分かるようにするためです。今までのハンコは、そこが曖昧でした」


「……たしかに」


佐久間さんは、ため息まじりに笑った。


「印鑑欄見ても、誰がちゃんと見たのか分かんなかったですもんね。課長印があっても、課長が見たかどうか怪しかったり」


「そうです。だから“名乗りボタン”は、“見た人”だけが押すようにしてます」


ことねが、優しい声で重ねる。


「この案件も、“営業側の中身を見た人”として佐久間さんが名乗ってくれた。この後で、経理と法務にも名乗ってもらいます。“全部佐久間さんが負う”という話ではありません」


「……分かりました」


少し間があって、佐久間さんが言った。


「“誰にも聞けない決裁”が一番怖かったんだな、って今気づきました」


「それを潰すためのボタンです」


俺ははっきり言った。


「“誰に聞けばいいか分かるようにする”ための。だから、その最初の一人になってくれてるのはありがたいです」


「……なんか、“押して悪いことした”じゃなくて、“押して助け船になってる”みたいに言われるの、悪くないですね」


「そのイメージで広めたいです」


通話を切ったあと、ことねが小声で言う。


「“犯人探しじゃない”って、何回でも言う価値ありますね」


紗良がQ&Aページに一行足す。


Q. このボタンを押すのが怖いです。

A. “犯人探し”のためではありません。

  “困ったときに最初に相談される人を決めるため”のボタンです。


「これ、トップにも置きましょう」


ゆいが、イントラのお知らせ文章をまた微調整していく。


 



夕方。

ホワイトボードには、今日の記録。


・名乗りボタン初日:押した件数 23件

・“怖い”という声:6件

・説明後、“安心した”という声:6件

・“犯人探しじゃない”という説明、効果あり


「“怖い”はゼロにはならないですね」


ことねがマーカーをくるくる。


「ゼロにしなくていいよ」

俺は答える。


「“怖いことが起きたときの相談先が分かる”ほうが大事だから」


紗良がPCを閉じる。


「“押さないでなんとなく流れる”のが一番怖い、ですね」


「そう」


ゆいがペンを走らせ、ホワイトボードの隅に小さく書いた。


ハンコでポン:誰が押したか分からない安心

マウスでカチ:誰に相談すればいいか分かる安心


「これ、いいですね」


琴音が笑う。


「社内資料のどこかに紛れ込ませましょう」


 



——同じころ、旧本社・六階 契約課「中央押印窓口」。


エアコンの風は強く、紙の角だけがかすかに震えている。

カウンターの上には今日も書類の山。

天板の端には、印鑑ケースが整列していた。


判谷 朱丸は、朱肉のふたを開ける前に手を止めた。

いつものように、胸ポケットの社員証を指先でなぞる。


(判谷……朱丸。今日の我は、ここから始まる)


それから朱肉のふたを開け、

インク面に人差し指をそっと触れさせる。


「温度、良し。粘度、良し。——本日の儀を開始する」


 


中央押印窓口・午前


列の先頭、営業の若手が緊張した顔で書類を差し出した。


「こ、これ……A社の契約書で……」


「名乗れ」


「え?」


「紙の上で最初に名乗るのは誰か。——汝の名は?」


「営業一課の……佐野です」


「よろしい。初印(しょいん)・佐野、受付」


小さめの認印で左下にポン。

朱色が紙にひろがる。


次に、課長の欄を指で叩く。


「課長は、“同意の影”だ。ここに後から落ちる」


「は、はあ……」


判谷は中サイズの印を縦に立て、

朱肉の縁だけをすくうようにしてから、

課長欄にポン。


「影印(えいいん)・発動」


若手は完全にポカンとしていた。


後ろに並んでいる別の社員が、小声で囁く。


「気にしないでいいよ。いつもこうだから」


「こ、こうって?」


「技名を叫ばないと押せない人なんだ」


「えっ」


 


判谷は最後の一つ、大ぶりな丸印を取り出す。


「全員の意思を一度に束ねる器——」


朱肉に沈める前に、

なぜか一拍置いて天井を見上げた。


「秘奥義・全印一致(ぜんいん・いっち)——ッ!」


ドンッ。


大きな朱丸が書類の右上に落ちる。

紙がわずかにたわんだ。


列の後ろで、

「出た」「今日も決まった」と小さなざわめき。


判谷は満足げに頷くと、

書類を奉納帳の横にそっと置いた。


 


奉納帳


カウンター裏の棚。

黒いバインダーが三冊、背筋を伸ばして並んでいる。


【奉納帳 一】

【奉納帳 二】

【奉納帳 三】


判谷は「二」を取り出し、

今日のページを開いた。


そこには、

日付、案件名、押した順番、

そして押した印の種類がびっしりと朱線で描かれている。


「……午前の巡礼、ここまで」


赤いペンで、今日の一行を足していく。


9:12 A社契約/初印:佐野/影印:課長代行/全印一致:判谷


一つ書き終えるごとに、

彼はわずかに肩の力を抜いた。


(これで、今日の朝を忘れても思い出せる)


ページの右上には、小さなメモ。


※ここに記録したものは、今日の我が見た世界。


その行だけは、インクが他より濃い。


「……よし」


奉納帳を閉じ、

背表紙を指で二回コツコツと叩く。


「目録、更新」


誰に聞かせるでもなくつぶやき、

またカウンターへ戻る。


 


電子決裁メール


そのとき、PCの画面隅で、

新着メールの通知がぴこんと光った。


件名:電子決裁システム試験導入のお知らせ


判谷は、しばらくカーソルを動かさずに眺めていた。

数秒後、ゆっくりとクリックする。


・一部の稟議・申請について、来月より電子決裁を試験導入します。

・決裁者は画面上のボタンを押すことで、承認の意思表示を行います。

・押した人の名前・時間・端末がログとして記録されます。

・詳細は追ってご案内します。


画面右下には、試作のイメージらしいボタン。


[ 承認する ]


「…………」


判谷は無言のまま、

プリントボタンを押した。


プリンタから白い紙がするすると出てくる。

さっきの文面と、

黒い[ 承認する ]ボタンが印刷されている。


彼はそれを両手で持ち、

カウンターの真ん中にそっと置いた。


朱肉のふたを開ける。

最も大きな丸印を取り出し、

ぐっと深く朱に沈める。


「電子のボタンごときが、名乗りを奪おうとしている」


隣の席の若手が、おそるおそる声をかける。


「あの、判谷さん、それ……社内の案内で……」


「知っているとも」


判谷は、印鑑を握った拳をゆっくり構えた。


「電子の海の最深部には、魔王クラウドが棲む。ログという名の呪符で名を集め、ある日まとめて“消去”という雷を落とす」


若手「ま、魔王……?」


「紙は焼けても灰が残る。朱は陽の下で色あせても、跡は残る。奉納帳は、この手でめくれる」


彼は印を振り下ろした。


ドンッ。


[ 承認する ]の上に、

真っ赤な×印が重なる。


「封印完了」


小さく息を吐いてから、

今度は細いペンでプリントの右上にこう書き込んだ。


電子決裁邪気封じ(案内文)


若手は完全に目を丸くしている。


「あ、あの……これ、どうファイリングすれば……」


「禁書のとなりだ」


判谷は棚の中段を指さした。


【奉納帳】の横に、

【電子呪文・参考】と書かれたファイルが差さっている。


「そこは“触れてよい禁書”だ。——魔王の姿を知るための見本だよ」


若手「は、はあ……」


若手が戻っていくとき、

別の社員が書類の束を持ってきた。


「判谷さん、これ、C社との覚書です。部長が“急ぎで”って」


「うむ。受理した」


判谷は書類の左上を見て、ふっと眉を寄せる。


そこには「C社営業ご担当:佐久間様」と書いてある。


(佐久間……佐久間……どの顔だったか)


一瞬、真っ白になる。


昨日も、営業フロアで「判谷さん、お疲れさまです」と頭を下げられた気がする。


だが、誰の顔だったか繋がらない。


代わりに、

さっき奉納帳に書いた行が、頭の中に浮かぶ。


9:12 A社契約/初印:佐野/影印:課長代行/全印一致:判谷


(……佐野か、佐久間か。どちらだ?)


胸ポケットの社員証に指をやる。

自分の名前だけは、そこに印刷されている。


判谷 朱丸。


(我は、判谷。——判谷、朱丸)


小さく、口の中で二度繰り返す。


それから、目の前の紙に印を構えた。


「部内一印(ぶないいちいん)——発動」


ポン。

朱が、また一つ増える。




デスクの隅では、社内チャットの通知がちらっと点滅した。


〈業務フロー改善チーム〉

「名乗りボタンベータ開始しました」


判谷は、そのポップアップを

まるで見えないもののようにマウスで払う。


(電子のボタンなど、ただの影。名乗りとは、押印とは、紙と朱と、奉納帳に刻まれた順番だ)


奉納帳の今日のページをもう一度開き、

朱線を一本、足す。


ポン。ポン。ポン。


こっちのフロアでは、

まだ朱の音だけが積み重なっている。


別のビルの別の階では、

小さなカチの音が少しずつ増えているとも知らずに。

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