第4話 押印棚卸しと、全印ツアーの地図
木曜の朝。
業務フロー改善チームのホワイトボードには、また大きな字が増えていた。
今日やること
1.「どこでハンコ押してるか」全部出す
2.名乗りボタンに置き換えられる場所を探す
3.“残すハンコ”を決める
琴音がペンをトントンしながら言う。
「今日は、“押印棚卸し”です」
「押印棚卸し……」
俺は思わず復唱した。
「今の会社で、“どこでハンコ押してるか”を全部出します。見積り、契約、稟議、勤怠修正、交通費、備品購入……。“押してるのに意味がないハンコ”を探すイメージです」
紗良がノートPCをくるっと回して見せる。
「ひとまず、社内規程から機械的に拾いました。『押印』って単語があるところに付箋打ってあります」
画面には、規程のPDFに黄色いハイライトがびっしり。
「多くないです?」
ゆいが素直に言う。
「多いです」
琴音がきっぱり言った。
「“なんとなく押してた”のも含めると、まだ増えます」
◆
午前中は「聞き取りツアー」になった。
三人+俺で社内を回って、
「最近押したハンコありますか?」と聞いてまわる。
営業部。
「見積りの内容変えたとき、訂正印を三個押しました」
「その訂正が合ってるか、誰が確認してるんですか?」
「……誰も。習慣で押してるだけです」
総務。
「入館証の申請書に、まだ押印欄残ってますね」
「メールで来た後、プリントして押してPDFに戻してます」
「最初からフォームで出してもらえれば、押さなくていい気がしますよね……」
人事。
「勤怠修正届の“上長印”と“本人印”、両方ですか」
「本人は電子押印、上長は紙に押してPDF化して……」
「上長の印は何を見て押してます?」
「……“とりあえず一回サインして戻して”って感じで……」
みんな、聞かれるとちゃんと答えてくれる。
琴音は淡々とメモを取る。
「“中身を見ている人”と、“見てないけど押している人”を分けます」
紗良が横から付け足す。
「“見てないけど押している人”のハンコは、名乗りボタンに置き換える候補です。“見る人”だけが、名乗ればいい」
ゆいは、ヒアリングに来た人に簡単な図を見せる。
「いま、こうなっているのを——」
申請者 → 課長印 → 部長印 → 総務印 → 契約課印
「こうしたいです」
申請者 → (内容を見る人)名乗りボタン
「“見る人”が名乗る。“見てない人”のハンコは、最初から押さない」
「……言われてみれば、そのほうが自然ですね」
そう言ってくれる人のほうが多かった。
◆
昼。
会議室に戻ると、ホワイトボードは付箋だらけになっていた。
・営業:見積り訂正印/値引き承認印/謎の「決裁済」スタンプ
・総務:入館証申請印/備品申請印/会議室申請印
・人事:勤怠修正印/住所変更届印/身上変更届印
・経理:経費清算印/請求書受領印 などなど。
琴音が、付箋を二つの列に分けていく。
「A:中身を見る人のハンコ」
「B:誰も中身を見てないハンコ」
「B、結構ありますね……」
俺が呟くと、
「“昔そう決まったから押してる”ってやつですね」
紗良が苦笑する。
「ここ、“名乗りボタン”の候補です」
ゆいがペンで丸をつける。
「“中身を見る人のボタン”だけを残して、他は“参照ログ”に変える」
「参照ログ?」
「“名乗りボタンを押した人が誰かチェックした”人も、ログを残せるようにするんです。でも、その人はあくまで“見に来た人”。決めた人ではない」
琴音も補足する。
「紙のハンコって、全部同じに見えますよね。見た人も、押しただけの人も、“同じ一個”に見える。それを分けたいんです」
俺はホワイトボードのA列とB列を見比べた。
(前の会社は、全部ごちゃ混ぜになってた)
申請 → 判谷。
とにかく、最後に全印一致で塗りつぶされる。
(“誰が見たか分からない安心感”で全部やってた)
今やろうとしているのは、その真逆だ。
「“誰が見たか分かる安心感”に変える」
自分で口にしてみて、やっとしっくりきた。
◆
午後。
「押印棚卸し・結果まとめ」を作るターン。
大きな紙に、今日分かったことを書いていく。
・見る人が一人なのに、ハンコが三つ四つある
・誰も中身を見ていないのに、とりあえず押している
・「押した人に聞けばいい」仕組みになっていない
琴音がそれぞれに番号を振る。
「今日のまとめ方針はこうです」
1.ハンコを減らしたいから変える、とは言わない
2.“誰に聞けばいいか分かるようにする”ために変える、と言う
3.その結果として、ハンコが減る
「順番、大事ですね」
「“効率化のためにハンコを減らします”って言うと、反射的に反対する人がいます。“サボりたいからでしょ”って」
琴音はペンを止めずに言う。
「でも、“困ったときに助けてくれる人を決めたい”って言うと、大体の人は聞いてくれる」
紗良がPCを見ながら提案する。
「“押印棚卸しレポート”の一枚目、この一行でいきましょう」
これは誰か一人に押し付けるためではなく、
困ったときにまず相談する人を分かるようにするための見直しです。
「……いいですね、それ」
俺は大きめの付箋にその文を書いて、ホワイトボードの一番上に貼った。
ゆいがタブレットを操作する。
「名乗りボタンの説明も、それに合わせて書き直します」
※このボタンは、
“困ったときに一番最初に相談される人になる”ボタンです。
「“責任をかぶるボタン”って思われないように」
ゆい。
「“頼りにされるボタン”ですね」
俺。
「名前ダサいけど意味は伝わります」
紗良。
こんな感じで、
新しい仕組みの言葉が一つ一つ決まっていく。
◆
——同じころ、旧本社・六階 契約課「中央押印窓口」。
今日も、紙の行列ができていた。
「判谷さん、このハンコもらえますか!」
「これもお願いしまーす!」
「あとこれも! 締切今日なんで!」
カウンターは、ほとんど“御朱印帳売り場”みたいになっている。
判谷 朱丸は、淡々と受け取って淡々と押していく。
ポン。
ポン。
ポン。
最後に、例の大きなやつ。
【全印一致】
「全印一致ッ!」
ドンッ。
そのたびに、周りの若手が小さく拍手する。
「やっぱカッコいいなあ、あの音」
「“会社がOKした”って感じするよな」
「実際、印鑑欄見てる監査の人とか多いしね」
カウンターの横には、今日から新しく貼られた紙があった。
【全印ツアー 短縮のお知らせ】
・以前:各部署ハンコ巡り → 契約課
・現在:契約課に集約 → 全印一致
皆さんの押印時間は、平均1.2時間削減されています。
判谷は、それを少し誇らしげに見上げる。
(巡礼に比べれば、今のほうがまだマシだ)
昔は、本当に“ハンコ巡礼ツアー”だった。
1階の営業部で課長印をもらい、
2階の部長席で待たされ、
3階の総務でまた待たされ、
最後に6階の契約課。
その全部を、ここ六階に集めた。
それが「中央押印窓口」のはじまりだ。
(我は、世界を一度“楽にした”)
そう思っている。
今も、奉納帳には
「巡礼時代の押印ルート」が残っている。
誰がどのフロアを回って、
何分かかったか。
それに比べれば、今の“ポン渋滞”はマシだ。
——だからこそ、彼は思う。
(“名乗りボタン”で本当に回るのか?)
社内チャットには、先日から
「名乗りボタン実験中」というスレッドが立っている。
そこにときどき、
白石の名前が上がる。
「ハンコ待ちがゼロになりそうです」
「誰が決裁したか一目で分かります」
そんな報告を見るたびに、
判谷は奉納帳の朱線を強くなぞる。
(ポンの痕が消えた世界で、誰が今日を覚えておく?)
紙を揃える手に、少しだけ力が入る。
「次——決裁稟議」
差し出された紙を受け取りながら、
彼はふと、自分の胸ポケットを指で押さえた。
中には、店の名前が入った古い名刺と、
小さな手帳が一冊。
その手帳の一番最後のページには、
自分の名前が大きく一度だけ書いてある。
彼は、そこまでめくることはない。
代わりに、今日もポンと押して、
奉納帳に朱線を一本足すだけだ。
——新しい会社でカチの音が増えていくのと同じ速度で、旧会社では今日もポンの音が積み上がっている。
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