第5話: 柏木の声
夜が明ける。
山の霧が少しずつ晴れ、灰巣村の屋根が霞の中に浮かんだ。
鳥の鳴き声も、川の音もない。
世界が呼吸を忘れたような朝だった。
芦田蓮(あしだ・れん)は、朽ちた祠の裏で焚き火を起こした。
膝の上には、柏木が横たわっている。
服は血で濡れ、唇が白い。
それでも、まだ呼吸はあった。
昨夜、儀式の場から抜け出したのは奇跡に近かった。
村人たちは追ってこなかった。
まるで、逃げることさえ“許された儀式”の一部であるかのように。
火がぱちぱちと鳴り、焚き木の香りが漂う。
その音が、やっと「生」の音に感じられた。
柏木のまぶたが、わずかに動いた。
「……せんぱい……?」
「喋るな。まだ傷が開く」
声をかけながら、芦田は柏木の顔を覗き込む。
その瞳の奥に、黒いものが浮かんでいた。
血ではない。
まるで“闇そのもの”が、眼球の奥から滲み出ているようだった。
「俺……死んだ、んですかね」
「まだ生きてる。俺がここにいる」
柏木が小さく笑った。
だが、次の瞬間、その笑みが歪む。
頬が引き攣り、声が二重に割れた。
「……ちがう、俺じゃ……ない……」
喉の奥から、異質な音が漏れた。
人の声のようで、人ではない。
火の光が揺れ、柏木の影が地面に二つ映る。
片方は柏木。もう片方は、わずかに“動きが遅れて”いた。
芦田は拳を握る。
その指先に力を込めながら、声を押し殺した。
「お前の中に、誰がいる」
「……見たんです。
死んだ人たちが、みんな繋がってる。
村全体が……“ひとつの身体”みたいに。
死体を埋めないのは、腐らせないためじゃない。
“情報を繋ぐ”ためなんです」
柏木の目が、焦点を失いかけながらも、必死に蓮を見た。
「この村の土には、死者の血が混じってる。
だから、踏むたびに“記憶”が足元から伝わる。
俺も、それを飲まされた。
誰かの、何百年も前の声が、頭の中で喋ってる。」
「……誰の声だ」
「“灰巣様”って、みんなが呼んでる存在。
でも、それは神じゃない。
最初に死を恐れた“ひとりの人間”です。
その人が、自分の死を村に“記録させた”。
みんなの血の中に。」
言葉が震えるたび、柏木の顔色が変わる。
皮膚の下で何かが動いていた。
まるで血そのものが意志を持っているように。
「芦田さん、俺、もう帰れません。
俺は……村の“声”になっちまった」
「ふざけるな」
芦田の声が低く響く。
柏木の肩を掴み、揺さぶる。
その瞬間、柏木の口から血が飛んだ――黒い血だ。
焦げた鉄の匂い。
普通の血ではない。
芦田は息を呑んだ。
柏木の声が、急に他人の声に変わる。
「お前も、呼ばれてる。
“葬れなかった者”のもとへ。」
「……やめろ」
「お前が見捨てた少女、まだお前の後ろにいるぞ」
その言葉に、世界が止まった。
雨の音も、火の音も消える。
霧の中、芦田の背後で、小さな靴音がした。
振り返らない。
見たら、戻れなくなると本能が叫ぶ。
それでも、声が聞こえた。
「れんさん、どうして助けてくれなかったの」
幼い女の声。
刑事時代、暴行事件で守れなかった少女――美沙。
彼女の顔が脳裏に蘇る。
あの夜の泣き声。
助けを求める小さな手。
届かなかった距離。
芦田は、ゆっくりと目を閉じた。
拳を握る。
その拳は、今だけは震えていない。
「……悪かったな。」
ひとつ息を吐くと、彼は柏木の肩を強く抱きしめた。
焚き火が爆ぜ、火の粉が空へ舞う。
その炎が、二人の影を焼き尽くすように揺らめいた。
「お前を取り戻す。
たとえ、この村ごと地獄に沈めても。」
柏木の瞳が、一瞬だけ人間の光を取り戻した。
涙が頬を伝い、掠れた声が漏れる。
「……先輩、遅かったですよ……」
「すまん。」
「でも……まだ、間に合います。
“灰巣様”の心臓が、まだ動いてる。
村の地下――そこに全部ある。」
柏木の手が震えながら蓮の胸を掴む。
指先が熱い。
血が、皮膚を通して伝わる。
その熱に、わずかに命の鼓動が感じられた。
「だから……俺を、殺してくれ。」
その言葉が、火よりも鋭く、芦田の胸に突き刺さる。
柏木の目が静かに閉じられた。
空から、細い灰が降り始めた。
まるで雪のように、静かに、世界を覆っていく。
芦田は立ち上がった。
霧の向こうに、村の屋根が再び見える。
そこから、鈴の音が響いていた。
誰かが祈っている。
あるいは、呼んでいる。
「……灰巣様、ね。」
拳を握る。
その拳の中に、柏木の血が残っていた。
熱く、冷たく、消えないまま。
「俺が、全部終わらせる。」
芦田は歩き出した。
足元の土が、微かに囁く。
“ようこそ ここへ”と。
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