第4話: 血の契り
夜が落ちた。
灰巣村の空は、雲がないのに黒い。
光が、どこにも届かないのだ。
芦田蓮は、懐中電灯の光で足元を照らしながら歩いた。
道はぬかるみ、靴底が泥に吸い込まれる。
村の奥へ進むほど、空気が重くなる。
人の息よりも、何か別のものがそこに漂っているようだった。
柏木のメモにあった言葉――
「血を分ける儀式“契り(ちぎり)”」。
その儀式が今夜、行われる。
村人たちはそれを“供養祭”と呼ぶ。
だが、供養のために何かを“食べる”という話を聞いた。
芦田は、楓に案内を頼んだ。
楓は断らなかった。
むしろ、微笑みながら言った。
「ようやく、見てくれるんですね。
私たちの“愛”の形を。」
それが愛なら、地獄はきっと優しい場所だ。
そう思いながら、芦田は黙ってついていった。
◇
村の中央にある社(やしろ)は、木々に覆われていた。
鳥居の代わりに、赤く塗られた縄が張られ、
その縄に“何かの骨”が結びつけられている。
蝋燭の火が何十本も灯され、
その光が村人たちの顔を白く照らしていた。
皆、同じような服を着ている。
古びた喪服。
そして、全員の額には朱(あか)い印。
その中心に、長机があった。
机の上には、大きな白布。
白布の下から、細い腕が覗いていた。
芦田は、瞬時に息を止める。
その腕を、知っていた。
柏木だった。
血の気を失った肌。
だが、肩が微かに上下している。
まだ、生きている。
村長の白石が前に出て、穏やかに声を上げた。
「灰巣様(はいすさま)に感謝を。
死を恐れず、命を分かち合う者に祝福を。」
村人たちは、両手を合わせ、一斉に唱える。
その声は低く、波のように響いた。
楓が芦田の隣に立ち、静かに言った。
「柏木さんは、“選ばれた”んです。
死を継ぐ者として。
あの人の血を口にした者は、彼の記憶を継ぎます。
死なせないために。忘れないために。」
「……それが、お前たちの“愛”か。」
「ええ。あなたたちは死を“終わり”と呼ぶけれど、
私たちは“続き”と呼ぶんです。」
蓮の拳が、わずかに震えた。
それは怒りではない。
悲しみだった。
「柏木は、そんなことを望まない。」
「でも彼は言いましたよ。
“もう帰れない。ここに残る”って。」
「違う。言わされたんだ。」
楓の笑みが、ゆっくりと崩れる。
蓮は、一歩前に出た。
儀式の輪が、ざわめきのように揺れた。
「芦田さん。ここで止めたら、あなたは“もう帰れない”」
「俺は、もう帰る場所なんてとうに捨てた。」
白石がゆっくりと顔を上げた。
その笑みは、狂気の中で完璧な秩序を保っていた。
「外の人間が、“死の意味”を知らずに生きてきた。
あなたも同じだ、芦田さん。
死を恐れる者は、必ず誰かを失う。
だから我々は、死を“喰う”。
死を受け入れることで、生を続ける。」
白布がめくられる。
柏木の胸が露わになる。
その胸には、無数の印。
生贄のような、朱の文様が刻まれていた。
「やめろ。」
芦田の声が、低く、深く響く。
しかし、誰も動かない。
ただ、村長が刀を手に取り、柏木の指を切り落とそうとした瞬間――
音が消えた。
次の瞬間、鈍い音。
白石の腕が弾かれ、刀が地に落ちた。
誰も見えなかった。
芦田の拳が、いつ振るわれたのか。
空気だけが動いた。
蝋燭の火が一斉に揺れる。
「……一度だけ言う。
人間は、死を“喰う”んじゃない。
死を“受け止める”んだ。」
白石が地面に膝をつき、血を吐いた。
村人たちは動かない。
動けない。
楓が呆然と呟く。
「あなた……どうして怒れるんですか……?」
「怒ってるんじゃない。」
蓮の声は静かだった。
「俺は、誰かを“取り戻す”ために来た。」
その瞬間、柏木が息を吹き返す。
目が、開いた。
白目の中に、黒いものが滲む。
だが、かすかに芦田の名前を呼んだ。
「……れん、さん……」
村人たちがざわめき、祭壇の灯が消えた。
闇の中で、無数の囁き声が響く。
“まだ、終わらない”
“血を継げ”
“次は、お前だ”
蓮は柏木を抱き上げ、崩れ落ちる社から走り出た。
背後で、村人たちの声が祈りに変わる。
その声は、まるで葬送ではなく、誕生の歌のようだった。
霧の中、楓が一人、社の前に立っていた。
白い喪服が血に染まり、微笑みながら呟く。
「灰巣様……“継承”は、終わっていません。」
その目に宿ったのは、柏木と同じ黒い光だった。
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