エピローグ 名前のない愛をしていた
春が過ぎ、夏が来て、そして季節はまた巡っていた。
アトリエの窓から差し込む光は柔らかく、埃交じりの空気を温かく照らしている。
結香は静かに机に置かれた一冊の原稿に目を落とした。
表紙もなく、文字はところどころ滲み、鉛筆の手跡が残っている。
──蓮が書いたものだ。
「名前のない愛をしていた」
タイトルに目をやるだけで、胸の奥に小さな痛みが走る。
この作品は、完成していない。
けれど、書かれている言葉の一つ一つが、蓮の心の奥底を映していた。
結香は深く息を吸い込み、ページをめくる。
『梨乃へ――
君が笑うと、世界が光に満ちる。
君の手を握ると、僕の心も温かくなる。
でも、僕は知っている。
君の記憶の中に、僕はもう存在していないことを。
忘れられた恋人の僕は、ここにいる。
でも、忘れられたとしても、僕の中の君は消えない。
名前も、顔も、言葉も、まだはっきりとは思い出せないかもしれない。
でも、愛していたことだけは、確かに覚えている。
あの日、雪の中で手を握った感触。
名前を呼べなかったけれど、君の温もりは確かに僕の中にあった。
その時の声、笑顔、泣いた頬も、すべて、忘れられない。
僕は願う。
君が今、誰かの隣で幸せであることを。
僕の知らない時間の中で、君が笑っていることを。
僕はもう、君のそばにはいられない。
でも、心の奥底で、君を見守り続ける。
名前のない愛でも、確かにそこにあったことを、忘れないために――』
結香は息をつき、目を細める。
文字から滲む蓮の痛み、葛藤、そして深い愛情。
彼の胸の奥で、梨乃への想いがどうしようもなく膨らんでいたことを、結香は知っていた。
次のページをめくると、雪の夜の記憶が綴られている。
手を握り、頬にキスをしたあの日。
覚えているのは、感触と温もりだけ。
名前を呼べなくても、感情は確かにそこにあった。
『雪が溶けるように、僕たちの時間も溶けていった。
でも、君を忘れても、僕の中の愛は、君の名前を呼び続けている。』
結香はゆっくりと目を閉じる。
その一文で、すべてが閉じられていることを感じた。
未完の原稿は、完璧ではない。
だが、蓮の想いは、完璧以上の力で伝わってくる。
机の上で原稿を抱きしめ、結香は静かに立ち上がる。
外では風が吹き、窓から桜の花びらが舞い込む。
舞い落ちる花びらを見ながら、結香は心の中で蓮に語りかける。
「あなたの愛は、確かに届いているわ」
名前のない愛。それは届かぬ愛かもしれない。
だが、その存在は確かにここにある。
過去の痛みも、届かない想いも、雪のように溶けることはなく、心に残る温もりとして生き続ける。
結香はそっと微笑む。
原稿の最後のページに書かれた、あの一行の言葉が、まるで春の光のように心に差し込む。
『君を忘れても、僕の中の愛は、君の名前を呼び続けている。』
その言葉を胸に抱き、結香は静かに立ち去る。
窓の外、桜の花びらが舞う。
春の光は優しく、そして確かに、名前のない愛を照らしていた。
名前のない愛をしていた サファイロス @ICHISHIN28
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