第6話 雨に溶ける約束
翌朝、アトリエには柔らかな日差しが差し込んでいた。
窓の外では、夏の空気に蝉の声が混ざり、遠くで車の音が響く。
梨乃は今日もキャンバスの前に座り、鮮やかな色を乗せていく。
結香は傍らで静かに微笑みながら、彼女の手を取り、時折アドバイスを添える。
蓮は少し離れた場所からその光景を見つめる。
(焦るな、蓮。まずは見守ることだ……)
胸の奥で静かに自分に言い聞かせる。
けれど、視界の隅で、梨乃が結香の肩に寄り添う姿を見ると、胸が締め付けられる。
「……朝倉さん、今日はどうするんですか?」
梨乃の問いに、蓮は微笑む。
「俺は……君が安心して絵を描けるように見守る」
その言葉は真実であると同時に、心の奥で葛藤を抱えている自分を隠すものだった。
午後、アトリエの空気は柔らかく、静かな幸福が流れていた。
梨乃は笑いながら筆を動かし、結香も微笑む。
そして蓮もまた、遠くからその光景を見つめ、心の中で誓う。
──諦めるわけにはいかない。
蓮の胸に、強い決意が芽生える。
(必ず、もう一度、梨乃に好きになってもらう。
記憶が戻らなくても、俺の想いは変わらない)
夕方。アトリエを出ると、外は一瞬の雨が降り、風に混ざって濡れたアスファルトの匂いが漂う。
梨乃は傘もささずに、風に髪を揺らしながら歩いている。
「ねえ、朝倉さん」
梨乃の声が少しだけ緊張しているように聞こえた。
「なんだい?」
蓮は歩調を合わせながら答える。
「私……変わっていく自分が、怖くないんです」
蓮は少し驚いた。
「え?」
「昔の私は、何を考えていたのか分からないけれど、今の私がここにいる。
それだけでいいと思えるようになったんです」
蓮は小さく息をつく。
──梨乃は、確かに変わった。
でも、変わったからこそ、俺はもう一度彼女の心に触れたいと思った。
その夜、アトリエに戻ると、窓の外はしとしとと雨が降っていた。
梨乃は一人で立ち、雨音に耳を傾ける。
「雨……好きなんです」
振り返った梨乃の目が、少し潤んでいる。
「そうか」
蓮は微笑んで見せる。
その笑顔の裏で、胸に鋭い痛みが走る。
──きっと、彼女は真冬のことを思っているのだろう。
「でも、戻らなくていいんです。今の私は幸せだから」
その言葉が、蓮の胸に深く突き刺さった。
窓の外の雷鳴が遠くで響き、稲光がアトリエの影を一瞬引き裂く。
蓮はじっと梨乃の言葉を受け止める。
──彼女の“今”の幸せを、俺は守る。
翌日。結香から、真冬が梨乃に告白したことを聞かされる。
「泣いていたけれど、その涙は拒絶じゃなかった。
“ありがとう”って言って、手を取ったの」
蓮は視界が滲むのを感じた。
──もう、梨乃は“今の愛”を選んだのだ。
過去に囚われた俺の想いは、そこには届かない。
しかし、蓮は静かに頷く。
「分かってます」
声は震えていたが、決意は揺らがない。
夜、アトリエの灯が消え、外は静かに雨が降っていた。
蓮は遠くから家を見つめ、窓の中に映る二人の影を見つめる。
寄り添う梨乃と真冬。
その光景に、胸の奥が締め付けられつつも、蓮は微笑んだ。
──俺は、見守る。
どんなに胸が痛んでも、梨乃の幸せを、そして自分の想いを、最後まで守る。
雨音の中、夏の夜が静かに流れ、遠くで蝉が鳴き始める。
蓮の心には、新たな決意と覚悟だけが、しっかりと刻まれていた。
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