第7話 夏雨のアトリエ、優しさの距離
七月も半ば、蝉の声が一層強く響く季節になった。
アトリエの窓は開け放たれ、熱気が静かに室内に流れ込む。
梨乃は少し顔色が優れず、キャンバスの前に座るものの筆を止めている。
蓮はそんな彼女を横目で見ながら、胸の奥に小さな不安を覚えた。
「……梨乃、大丈夫か?」
蓮の声に、梨乃はふわりと微笑む。
「大丈夫……ちょっと、暑さにやられただけです」
だが、その頬の赤みは、ただの夏の暑さではない。
体がだるそうに揺れる彼女を見て、蓮はすぐに察した。
(……体調を崩してる)
その日の午後、結香がアトリエに現れた。
白いブラウスに軽く羽織ったカーディガン、優雅にまとめられた髪。
その姿には、相変わらずの安心感が漂う。
「梨乃さん、少し休ませましょう」
結香はそう言うと、柔らかく手を差し伸べる。
梨乃は抵抗なく手を取る。
蓮はそのやり取りを見つめ、胸が締め付けられた。
──やっぱり、結香は彼女にとって特別な存在だ。
その存在感は、俺がどう頑張っても、簡単には入り込めないものだ。
結香は蓮に向き直る。
「朝倉さん……あなたが傷つく前に、少し離れていてくれたほうがいい」
その言葉に、蓮の胸がぎゅっと痛む。
「……え?」
「梨乃さんはまだ弱い状態です。無理に近づかず、彼女が回復するのを待って」
結香の瞳は真剣で、決して揺らぐことはない。
──つまり、俺は待つしかない。
蓮は深く息をつき、覚悟を固める。
その夜、梨乃は寝室で静かに眠っていた。
結香がそっと脇に座り、額に手を当てて体温を確かめる。
「熱は少し下がった……でも無理はさせられない」
その声は、どこか母性にも似た優しさに満ちていた。
蓮はアトリエの廊下で、二人の様子を見守る。
胸の奥に渦巻く複雑な想い。
(……俺は、彼女を見守ることしかできないのか)
雨が窓にぽつりと当たる。
外は夏の夕立、雷鳴が遠くで響く。
蓮は手を握りしめ、心の中で自分に言い聞かせる。
(俺は諦めない。諦めるわけにはいかない……)
翌朝、梨乃は少し体調が戻ったものの、まだ完全ではなかった。
結香は食事を作り、優しく差し出す。
梨乃は小さく笑い、少しずつ口をつける。
「……ありがとう、結香さん」
その笑顔は、蓮の胸を再び締め付ける。
──この人に、俺は勝てるのだろうか。
そこへ、もう一人の人物が現れる。
佐伯真冬——結香の後輩で、心理学の研究者。
「梨乃さん、無理は禁物ですよ」
彼は柔らかい声で、でも確かな優しさを持って彼女に寄り添う。
梨乃はその声に安心したように微笑む。
──真冬の存在が、徐々に彼女の心に入り込むのを、蓮は感じていた。
真冬は蓮に向かって軽く会釈する。
「朝倉さん、いつもお世話になっています。梨乃さんの回復を一緒に見守りたいのです」
蓮は短く答える。
「……よろしく」
しかし胸の奥では、競争心と焦燥感が入り混じる。
梨乃は二人の間で微笑みながら、体調の回復に集中する。
その様子は、まるで誰にも触れさせない柔らかな光のようだった。
日中、真冬は梨乃の状態をチェックし、軽い散歩に付き添う。
梨乃は彼の腕に少し寄り添いながら歩き、安心感に満ちた表情を見せる。
蓮は少し離れて見つめながら、胸の奥でざわめく。
(……やっぱり、俺の存在はまだ届かない)
夕方、アトリエに戻ると、梨乃はキャンバスの前に座り直す。
「少しずつ描けそうです」
その声は弱々しいが、希望に満ちていた。
蓮は微笑みながら、心の中で再び誓う。
(どんなに距離があっても、俺は諦めない……)
その夜、結香は蓮に小さく告げる。
「朝倉さん……あなたは、彼女にとって大切な存在です。
でも、今は無理に近づかないで。傷つく前に、少し距離を置くのが正解よ」
蓮は黙って頷き、覚悟を固める。
──愛は、優しさか、執着か。
今、俺が選ぶべきは――優しさだ。
雨音の中、夏の夜が静かに流れる。
梨乃の呼吸を見守りながら、蓮は胸の奥に微かな痛みと共に決意を刻む。
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