第9話 牡丹雪の降る空
僕が解放されたのは、日がとっぷりと暮れた後だった。
さちさんの父が学校に駆けつけ、大げさに騒いだらしいが、警察沙汰にはならなかったが、そのまま中学校の教師に延々と説教を受け、高校に戻されてからは担任と教頭から延々と説教を受けた。進路に影響が出るかもしれないと脅され、父母、そして矢沢工務店にも連絡が行き、父と親方が謝ってくれたようだった。
教師たちに見送られ、校門を出る。吐き出した息は白く、心臓が疲弊しきっている。
ボロボロになりながらも、両親にも迷惑をかけたなと思い、家に帰る気もせず 無意識に市立図書館に足を向けた。
夜9時を回り。風のない夜は物音ひとつしない。市立図書館はすでに閉館し、冷房の匂いも、埃の匂いも、静寂の匂いもない。
僕は、入口の自動ドアの前の、誰も使っていないベンチに、力なく座り込んだ。この図書館で、夏にさちさんとポケットボーイを一緒に聞いたのが遠い昔の思い出のようだった。
「よう、ヒーロー 派手にやったな」親方が缶コーヒーを差し出しながら笑顔で前に立っていた。「やっちゃいました。すいません。迷惑かかったでしょう?」僕は熱い缶コーヒーを受け取りながら話す。
「まあ、それなりにな。気にすんな。気が済んだか?」親方が自分の缶コーヒーを飲みながら言う。
「ええ」ぼくは曖昧にうなずく。
真っ暗な空を見上げる。吐く息だけが白く、吐き出す言葉が凍り付いてしまうようだった。
「結局、なにもできませんでした。みんなに迷惑をかけて、終わってみれば何も残ってない…」
僕は、疲弊した手で、顔を覆い、小さく嗚咽を漏らした。
牡丹雪が静寂を楽しむように空からゆらゆらと降り落ちてきていた。
「そう思うか。オレはお前を誇りに思う。線は細いが、いざとなれば腹ぁくくれる。好きな女のためにあれだけのことができる男はそーはいねえ」親方は笑顔で缶コーヒーを飲み干した。
「はは」僕は力なく笑い、降り落ちる雪をてのひらに乗せる。体温で一瞬で消えてなくなる雪に、どんなに手に入れたくても手に入らない彼女を重ねる。
親方は前方の暗闇をまっすぐに見ながら言う。
「それにな、」
「それに?」聞き返す僕に、親方は、微笑みながら立ち上がり、前へ歩き出した。
途中で振り返り、親指を上げながら言う。「お前は勝ったんだよ」親方は進行方向の前方を指さす。
舞い落ちる雪の間に、白いダッフルコートを着た人影が、静かに立っていた。
雪が積り始めた街灯の下で、さちさんが、静かに、僕を見つめていた。
彼女の息は白く、長いこと走ってきたのだろう、肩で息をしている。彼女の手に握られているのは、あの夜、アスファルトに落ちた『渾身のUDⅡ』だった。
「先輩...」
その声は、震えていた。彼女は、静かに、ボロボロの僕の隣に座り込むと、すぐに涙を流し始めた。
「ごめんなさい...父がひどいことをして...私、先輩が私の前から、いなくなっちゃうんじゃないかって...」
僕は、何も言わず、ただ、彼女の肩を抱き寄せた。彼女の身体の冷たさが、現実であることを教えてくれる。
さちさんは、僕の制服の袖を強く掴みながら、言った。
「楓ちゃんが、あのテープを届けてくれました。そして、今日、先輩が会いに来てくれて...」
彼女は、冷たい僕の手を握る。
僕は一番伝えたかった言葉を探す。
「さちさん、僕の夢は建築士になること。これから夢に向かって全力で進んでいく。君は君の可能性に向けて進んでほしい。僕はそのためならどんな協力も惜しまない。だから僕のために志望校を僕の高校にするのは違うと思う。学校が違っても僕の想いは変わらない。」
彼女の目をまっすぐに見て、一気に伝えた。
さちさんは顔を伏せる。無理やり笑顔を作りながら顔を上げ、か細い声を震わせて言う。
「あーあ、こんなことなら先輩に勉強、教えてもらうんじゃなかったなー」
言いながら舌をペロっと出して微笑むが、目からは大粒の涙が零れ落ちる。
僕はそっとその涙を拭う。
「私、志望校を変えます。南高校に行きます。だから、先輩は、夢を叶えて建築士になってください。そして誰にも文句を言わせない、あなたの力で、私を迎えに来て」
「あ、私がいないからって他の女の子と仲良くしちゃダメですよ」まだ震える声で、いつものように軽口を言う。
僕は、手を強く握り返し、震える声で、初めて彼女の名前を呼び捨てにした。
「ああ、さち」
しんしんと雪が降る夜は、雪が音を吸い込むかのように静寂だった。はるか遠い夜空の向こうに、上弦の月が静かに光を放っていた。それは、二人が見る未来の光と、同じ輝きだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます