第6話 落ちる影 こぼれる希望

第四章


完成した翌日、アルバイトが少し長引き19時で終わった。一刻も早くさちさんに完成したテープを渡したくて夏期講習が行われている塾の前で待つことにした。塾は20時までと聞いていた。遊ぶには遅い時間だがテープを渡すだけなら構わないだろうと思っていた。


時間がなかったため作業着のまま、塾の出入口近くの電柱の影で音楽を聴いて待つ。20時になると塾の玄関から受験生たちが出てきていた。なかなかさちさんは出てこない。人波が薄れぽつりぽつりとなったところで玄関から出てくるさちさんをみつけた。


久しぶりにみた彼女は少し疲れて見えた。ぶわっと嬉しい気持ちが広がり駆け寄ろうとした刹那、さちさんの後ろから同級生らしき男子生徒が親し気に話しかける声が聞こえる。


「さち、いっしょに帰ろう」


その声が聞こえた瞬間、僕の全身の血が一気に引くのを感じた。嬉しさで駆け寄りそうになっていた足が、アスファルトに縫い付けられたように動かなくなる。


男子生徒は、白い襟のポロシャツを着た、背が高くすらりとした体型で、さちさんと同じ塾のテキストを抱えていた。同級生というより、年上にも見える大人びた雰囲気をまとっている。


さちさんは僕の存在にはまだ気づいていない。彼女は男子生徒に笑顔を向けた。


「あ、うん。いいよ。って、健太郎は今日、友達とご飯食べる約束してたんじゃないの?」


「約束はドタキャン。さちと帰る方がマシだろ。今日さ、講習の後の模試の解説、あそこ全然わかんなかったんだよ。ちょっと教えてくれよ」


彼は当たり前のように親しげな口調で話し、さちさんの持っていたテキストの束に自分のテキストを重ねた。その距離の近さに、僕の胸に絞めつけられるような痛みが広がった。二人が話している光景は、あまりにも自然で、あまりにも日常的だった。


僕が視線に熱を込めすぎたのか、さちさんがふいに目を上げ、僕が立っている電柱の影に気づいた。


彼女の顔に浮かんだのは、驚き。しかし、次の瞬間、その驚きは一瞬で安堵と、抑えきれない喜びへと変わった。彼女の眼鏡の奥の瞳の瞳孔が、広がったように感じた。


「ごめん、健太郎。私、急用思い出しちゃった。先に帰ってて!」


さちさんは急いで男子生徒から距離を取り、僕に向かってテキストの束を胸に抱えながら、小走りに駆けてきた。


男子生徒は「え、さち!?」と戸惑いの声を上げ、さちさんが走り寄る先にいる僕に不穏な視線を投げた。僕の作業着を一瞥し、「じゃあな」と不機嫌そうに声をあげた。


僕は、『渾身のUDⅡ』の入ったポケットに手を当てたまま、彼女のほうへは一歩も動けずにいた。


「はあ、はあ、先輩、どうしたんですか?」満面の笑みを湛えたまま小走りにかけてきたさちさんは息を切らしていた。

「あ、や、仕事帰りにたまたま通りかかって」僕は曖昧に返事をする。

「あ、なんか隠してるでしょ」さちさんは誤魔化されない。

「いや、ほんとにほんとで、ところでさっきの彼、こっち見てるけどほっといていいの?」僕はまだ立ち直れていない。


「健太郎のこと? いいんです。彼、頭良くて塾でわからないところを教えてもらったりしていたら、話しかけてくるようになっただけです。大きな会社、矢沢工務店の社長の息子で自信過剰で、強引なところがあってちょっと浮いてるけど、一部の人には人気があって、生徒会長をやってたりしますけど。みんなほんとはうんざりしてるんですよね。さっきも約束あるのに私と帰ろうとして」といって冷めた目をした。


その名を聞いて、僕の頭にアンモニアの匂いと、青焼き図面の鮮やかな青色がフラッシュバックした。矢沢工務店。僕が今日も、汗と埃にまみれて働いた場所だ。社長の息子、矢沢 健太郎。


「で、先輩こそ。そんな偶然あるわけないでしょ?何か隠してるんでしょ」


さちさんは、僕の曖昧な態度を許さない。彼女は、僕の目を真っ直ぐに見つめながら、眼鏡のフレームをそっと人差し指で押し上げた。その仕草が、まるで嘘を許さない小さな教師のようだった。


「わ、わかったよ」


さちさんの笑顔をみてようやく立ち直ってきた僕は、作業着のポケットから、カセットテープを取り出した。僕の熱で、プラスチックのケースが少し湿っぽく感じられた。

「これ。約束してた、ミックステープ。夏期講習頑張ってる、さちさんへのお守り。いや、応援の気持ち、かな」


我ながら言葉がひどく不器用だ。せっかくインレタでクールに仕上げたテープも、この言葉では台無しだと思った。

さちさんは、テキストの束を脇に抱え、両手で丁寧にテープを受け取った。


「……ありがとうございます」


彼女はケースを開け、トラックリストが記されたインデックスカードをじっと見つめた。そして、テープ本体のレーベルに完璧に転写された『SACHI'S MIX VOL. 1』の文字を指でそっと撫でた。


「これ、先輩が全部作ったんですか? この文字、すごく綺麗……先輩って、本当に何でもできちゃうんですね」


彼女の瞳がきらきらと輝き、感嘆の息を漏らした。僕は、彼女に送った冷たい手紙を「真摯だ」と評した時の、あの純粋な賛辞を思い出していた。僕の努力は、再び彼女の中で、理想的な価値へと昇華された。


「……あの。これ、先輩からの、私へのラブレターだと思って、大事に聴きます」

さちさんは顔を真っ赤にしながら、しかし、曇りのない決意を込めて言った。


夜の塾の前、街灯の薄暗い光の中で、僕の胸は、初めてラブレターをもらった時よりも遥かに強く、確かな熱を帯びていた。


「さち、なにしてる!」鋭い声が塾の入口のほうから聞こえた。シルバーのトヨタクラウンから男の人が降りてこちらに向かってくる。

「あ、パパ 迎えに」と言い終わらないうちに、男は振り返ったさちさんの腕を引っ張り、僕とさちさんの間に身体を入れた。

「君はなんだ!うちの娘になにしてる!」作業着の胸ぐらを掴まれ僕は面をくらってなにも言い返せない。


「パパやめてよ!勉強教えてくれてた村山先輩だよ!」その言葉でようやく作業着から手を離したが、懐疑的な目はそのまま僕に向けられていた。

「その先輩とやらが、こんな時間に汚い作業着で、さちを待ち伏せして、なにしてるんだ?さちにつきまとうストーカーじゃないのか?」


「ち、違います。たまたま近くにきたもので」また苦しい言い訳しか言えない。

「ホントにやめて!」さちさんの懇願を無視し、「こっちにきなさい」といいながら腕を引っ張る。その拍子にさちさんの手からカセットテープが落ちる。


「あ!待って!」さちさんの悲痛な叫び声も空しく、強引にひっぱられ連れて行かれてしまう。さちさんと父親が乗り込んだシルバーのクラウンの中にはすでに矢沢健太郎が乗っていた。クラウンのテールランプが、夜の闇に消えていくのを、僕はしばらく見送った。


胸ぐらを掴まれた場所が、まだ熱い。『ストーカーじゃないのか?』。あの言葉が、頭を巡る。僕は星ひとつない真っ暗な夜の中で街灯に、照らされて冷たく光るアスファルトを眺める。暗闇の中、足元に落ちた『渾身のUDⅡ』が光を反射してかすかに光っていた。

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