第5話 ハイポジ UDⅡ
うだるような暑い、そして受験生にとっては勝負の夏がやってくる。夏休みに入るとさちさんは夏期講習に毎日通うことになっていた。僕は自分が支えてもらったようになにかお守りになるようなものをプレゼントしたくて、アルバイトをすることにした。
父は近所の工務店の下請けで働く多能工だった。図面通りに鉄筋を組み上げる力仕事もすれば、寸分の狂いもないように型枠を組む緻密な作業もこなす。その父に紹介してもらい、この辺りでは比較的大きめの会社、矢沢工務店でアルバイトを始めた。
ほぼ雑用全般の仕事で、現場で石膏ボードや材木、木板の運搬、モルタルの攪拌、端材の片づけ、事務所での掃除、図面の整理など言われた仕事をこなしていく。1日8時間働き日給4,500円を日払いでもらう。夏休み20日を捧げて9万円をゲットする計画だ。仕事は体力勝負でキツかったがさちさんの笑顔がみたいのと、やり遂げることで自分も変われるきっかけになるのではないか、という思いでがむしゃらに働いた。
事務所で働いているとき、社員さんに「村山くん。この設計図、クライアントに見せるやつだから、汚さないように青焼きして、丁寧に折ってくれる?先によーく手を洗ってからな」とできあがったばかりの一軒家の図面を渡され、思わずその日当たりや間取りを覗き見る。社員が描いた線の正確さ、間取りの合理性、計算された美しさに息を呑む。
丁寧に運び、青焼き機に流す。アンモニアのツンとした匂いに耐えながら、複写されたばかりの紙を専用の現像槽に滑り込ませる。数秒の静寂の後、まだ濡れたような白い紙に青い線がじんわりと浮かび上がってくるのを待った。
すっかり乾いた頃合いをみて、図面を取り出し丁寧に折り込んでいく。「お、村山君、仕事、丁寧でいいね」社員さんに褒められて少しいい気分になった。
10日ほど働いた夏休みの中頃、その日、さちさんは模試の日で午前中で講習が終わるとのことだった。
僕は現場で石膏ボードの取付作業をする日だったが、その日はその作業が終われば帰れる予定だったため、久しぶりに17:00に市立図書館で待ち合わせをしていた。「現場の作業は丁寧に行わなければ、後から必ず失敗に繋がる。」アルバイトに入る前に教わったおやじの教訓を守り、焦る心を戒めた。
「おおい、おまえらー」現場責任者の親方の檄が飛ぶ。「歳三が今日、彼女とデートらしいぞー」えっ!唖然とする僕に親方が続ける「早く終わらせてさっさと送り出すぞ 気合入れていけよ おまえらー」「おおお!」みんなの笑い声と冷やかし、相槌が飛ぶ。僕は真っ赤になりながら感謝を伝えた。
工務店でのアルバイトは早めに終わり、午後4時、ちょっと早いが僕は待ち合わせの市立図書館へ急いだ。夏休みとはいえ、公立の図書館は冷房が効いていて涼しい。入口の自動ドアをくぐると、独特の紙と埃と静寂の匂いが鼻を突いた。
待ち合わせ場所の自習室に近いテーブル席の一番奥に腰を下ろし、埃まみれの作業着のポケットからアイワの『カセットボーイ』を取り出した。先週の休みの日に自分で稼いだお金でやっと手に入れた、SONYのウォークマンよりは、少しばかり性能は落ちるが、その分値段が安い、僕の新しい相棒だ。周囲に迷惑をかけないようボリュームを最小限にし、イヤホンを耳に突っ込む。流れてきたのは、さちさんが貸してくれた河村かおりの「zoo」だった。孤独な魂が救いを求めるような、愛を求める歌詞が胸を打つ。
ノイズ混じりの音が、僕を静かに包み込む。やっぱりケチらずにHFではなく、ハイポジを使うんだったなと思う。汗とアンモニアの匂いが染みついた身体は疲労の色が濃く現れ、頭の中に、彼女の言葉が鮮明に響く。彼女が憧れる高校、僕が設計したい未来の図面――。
ふいに、横に立つ人影を感じてハッと顔を上げた。
「先輩、アルバイトお疲れ様です。ごめんなさい、待った?」
夏らしい水色の薄いブラウスに白い花柄のフレアスカート、茶色の革製カバン型の2wayリュックを背負って、講習帰りの少し汗ばんだ顔に笑顔を浮かべていた。変わらない可愛らしさだが、その柔らかな微笑みの奥には、真剣な光を宿していた。
僕が慌ててイヤホンを耳から外し、カセットボーイをカバンに入れようとしたその瞬間、さちさんが首を傾げて尋ねた。
「先輩、ウォークマン買ったんですか?いいなあ。いつでも音楽が聴けるってイケてますよね。何聴いてたんですか?」
「え、あ、いや、まずウォークマンじゃないし...」
いつもの通り言葉に詰まる僕に、さちさんは屈託のない笑顔でさらに一歩踏み込んで近づく。作業着に染み込んだ汗の匂いがしないかと僕は焦って離れようとしたが、さちさんが近づくほうが早かった。イヤホンから音が漏れ聞こえる。
「あ、ZOOですか? 私が貸したやつですよね。いいな、ちょっと聞かせてください」
彼女は遠慮なく、僕の首からぶら下がる外した片側のイヤホンに、そっと手を伸ばした。
僕は反射的にのけぞるが避けきれない。代わりに、絡まらないようにコードを解いた。
さちさんは当たり前のようにイヤホンを、自分の右耳に優しく当てた。
そして、僕たちは図書館の静かなテーブル席に並んで腰かけ、たった一つのノイズ混じりの音をいっしょに聞いた。彼女の右耳と僕の左耳。肩と肩が触れ合うほどの近さと、一つの音を分かち合っている秘密めいた一体感が、僕の疲れた心を一瞬で満たしていく。彼女の横顔が笑っているのが見えた。
「――ね、いい曲ですよね」
さちさんは囁く。その声が、イヤホンからの音に混ざって、静かに僕の心臓に響いた。
曲目が変わる。流れ出したのは、レベッカの『フレンズ』。軽やかなリズムに、僕たちの心も少しずつ揺れる。さちさんは口元に笑みを浮かべ、視線は少し遠くを見るようにしている。中学生の彼女にとって、レベッカのNOKKOが歌う少し大人の音楽は背伸びの世界だ。
次に流れ出したのは中村あゆみの『翼の折れたエンジェル』。曲が切ないメロディを奏でると、さちさんは息を小さく吐き、指先で机を軽く叩く。「…このテープ、いいですね。私も欲しいなぁ」
小さくつぶやいた言葉に、僕は胸がじんわり温かくなる。
「今度、さちさんの好きそうな曲、録音して持ってくるよ」と答える。
「ほんとですか!やった!」飛び上がらんばかりに喜ぶ彼女に引っ張られイヤホンが抜け落ちた。
片耳ずつ分けた音楽の中で、僕たちは言葉以上の時間を共有した。小さなカセットボーイの向こうで、少し大人びたさちさんの姿が、静かに僕の心に刻まれていった。
図書館での待ち合わせから数日後。約束通り、僕はさちさんのためのミックステープ作りに取り掛かった。
近所の電気屋で一番安いSONYのHFではなく、奮発してMaxellのUDⅡ46分を買った。メタルポジションまでは手が出ないけど、ハイポジション特有の、高い音をきれいに拾うクリアな音質が欲しかった。自分の部屋の机に向かい、借りたCDやラジオのエアチェックで録音した音源を、ダブルデッキのラジカセで編集していく。
テープのA面に選んだのは、さちさんが好きだと言っていた『翼の折れたエンジェル』『フレンズ』を始めとする、少し背伸びしたロックやポップス。B面は、僕が彼女に知ってほしい、僕の好きな曲、ザ・ブルーハーツ「情熱の薔薇」、ユニコーン「働く男」、JUN SKY WALKER(S)「すべてを」を入れていく。尾崎豊の「I LOVE YOU」は迷った挙げ句、気恥ずかしくて入れられなかった。代わりに「卒業」を入れる。曲と曲の間の空白(無音)を、ぴったり一秒(たぶん)に調整するのにひどく集中した。
テープが完成すると、次に待っていたのはラベル(レーベル)とインデックスカードの作成だった。
MaxellのUDⅡには、黒とオレンジを基調としたシンプルだがクールなデザインの台紙が付いていた。
インデックスカードのトラックリスト欄に、さちさんの好きな曲名を極力正確無比に、かつ丁寧に書き込む。失敗したら台無しだ。息を詰めて一文字ずつ書き進めた。
そして、テープ本体のレーベル(カセットのシール)だ。僕は付属のインレタ(インスタントレタリング)シートを引っ張り出した。インレタとは、文字をこすって転写するシール。文字を置く角度や、擦る力加減など、難易度が高いが、これを使うと、まるで印刷したかのように美しい仕上がりになる。
文字が曲がらないよう、慎重に定規を当て、カッターの背で擦り「SACHI'S MIX VOL. 1」と転写していく。一度失敗するとやり直しがきかない。汗をかいた指先が触れないよう気をつけながら、そっと台紙を剥がす。1文字だけ右上がりに曲がってしまったが、ほぼクールで完璧な仕上がりに、思わず息を吐いた。
「よし、いままで作ってきた中で一番うまくいった!」
これは、僕が言葉では伝えられない気持ちを、できる限りの時間と労力と、わずかなお金を注ぎ込んで作り上げた、気持ちを込めたテープ『渾身のUDⅡ』。僕が彼女のためにできる一番大切なものだった。
完成したミックステープは、カセットケースの中で、金色のUDⅡの文字が光を反射してキラキラと輝いていた。このテープを渡すのが、今から楽しみで仕方なかった。
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