第4話 アパートとパンの耳

なんとか落ち着こうと紅茶を飲みながらクッキーを食べる。自然と目はPixyを見てしまう。オプションのビデオセレクター機能付のDSPユニットをつければテレビやビデオもこのスピーカーで聞けるようになり、音質が飛躍的に上がるんだよなーなどと考えていると曲はPRINCESS PRINCESSの『M』になった。


僕は「ああ、この曲いいよね DIAMONDSのカップリングだけどこっちの曲もかなりいいし、僕もイニシャルがMだから余計に感情移入しちゃうよ」と言うと、さちさんが「M、いい曲ですけど、好きな人がいなくなっちゃう切ない歌ですよね。先輩、私の前からいなくなるなんて考えないでくださいね」


本当にいなくなるんじゃないかと思っているような目で、僕を見ながら懇願するさちさんを見ていると、たまらなく愛おしく、抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。


「あのね、先輩」 さちさんは、僕の顔を覗き込むようにして、少し真剣な顔をした。 「次、お願いがあるんですけど。今度、先輩のお部屋で勉強しませんか? 私、先輩の部屋で、先輩の使っているラジカセで、好きな音楽を聴きながら勉強したら捗ると思うんです。」


突然の提案に、僕は動揺を隠せない。僕の家は、工場がある路地裏の賃貸物件だ。一応、僕の部屋はあるがアパートの小さな一室だ。胸がきゅっと締まる。「いや、ぼ、僕の家は、その、狭いし、家族もいるし…」


「だめ、ですか?」さちさんは少し寂しそうな顔をした。 「…だめ、じゃないよ。いつがいい?」 僕は、逃げたい気持ちを必死で抑え込み、答える。さちさんは、一瞬で顔を輝かせた。


数日後、塾のない土曜日の午後。僕たちは僕の家に向かっていた。 家に着く。土埃の舞う路地に建つ、僕の家は、さちさんの小山邸とは対照的で、隣家との間隔が非常に狭い、古いアパートの一室だった。


「さちさん、中に入ると、生活感丸出しで、恥ずかしいけど…」 「いいんですよ、先輩。早く!」さちさんは、もう家のドアの前に立っていた。中へ入る直前、一瞬だけ立ち止まり、背負っていた茶色の革製リュックを、そっと背中から下ろした。そして、そのリュックを抱きかかえるように持ち直すと、僕の目をまっすぐに見つめ、にこりと微笑んだ。


玄関を開けると、にぎやかな声が聞こえてくる。奥のリビングでは、弟と妹が、僕のおさがりのおもちゃで遊んでいた。 「あ、にいちゃんおかえり!誰、このきれいな人?」 「おねえさん、こんにちはー!」 弟と妹は、さちさんに無邪気に駆け寄った。さちさんは屈託のない笑顔で、しゃがみ込み、二人に目線を合わせた。 「こんにちは。お兄ちゃんの、先輩の、お友達だよ。お邪魔しますね。」優しく言う。


僕は妹の頭を撫でながら、「こっちが妹のほのか、ほら何歳になった?」妹は恥ずかしそうに右手を開く「5さい・・」

「弟は陸(りく)、まだ4歳だよ」突然紹介されて、弟が恥ずかしそうに上目づかいでさちさんを見上げる。


「あら、いらっしゃい!」 母は、台所から手を拭く間もなく僕たちの前へ来た。 「こんな汚いところでごめんなさいね。歳(トシ)はね、口下手だけど、根はいい子なのよ。仲良くしてやってね。座って座って。はいこれ!」 母は、さちさんに、冷蔵庫から取り出したリポビタンDを差し出した。キョトンとするさちさん。僕は「ふつうお茶だろ!どこにいきなりリポD出てくる家あんだよ!」恥ずかしすぎていなくなりたくなった。


弟と妹は、母がテーブルに出した皿に乗ったお菓子に夢中だった。それは、パンの耳を油で揚げ、砂糖をまぶした素朴な揚げ菓子だった。 「ねえ、これ何?」 さちさんは興味津々で、陸が持つ皿を覗き込んで聞いた。 「これ、お母さんが作った、パンの耳のお菓子。すごーく美味しいよ!ボク大好き」 さちさんは陸から一つもらい、「美味しい!初めて食べました。手作りのお菓子なんて、お母さん、すごいですね」と、目を輝かせた。母は照れくさそうに笑った。


そのお菓子はパン屋からただ同然でもらえるパンの耳を使った、ものすごく安上がりなお菓子でうちの家では定番の貧乏菓子。子供の頃からよく食べていた。リポビタンDもオヤジが建築現場で差し入れでもらったもの。せっかく来てくれたさちさんに、こんなものしか出せなくて恥ずかしい気持ちになったが、さちさんは気にもとめずに興味津々といった顔で笑っている。


その直後、ほのかがさちさんの膝の上にちょこんと座り、自分の髪を指差した。 「ねえ、おねえちゃん。髪、結って。あの、かわいいやつ」 さちさんは少し驚いた後、すぐに笑顔になり、「いいよ」と妹の髪を丁寧に結い始めた。


母が夕飯の支度をしながら言う「ごめんねー。私も働いてるからこの子の髪を結ってあげる時間もあまりなくてね」

「私も妹がいるので慣れてますから大丈夫ですよ」さちさんが笑顔で答える。その手つきは優しく、彼女自身の温かさが伝わってくるようだった。ほのかは鏡を抱えて、きれいに結われていく髪をみながら、満足そうに微笑む。


それを見た陸が、頬を膨らませてふてくされた。 「えー、ねーちゃんだけずるい!」 僕は思わず、弟の頭を叩きながらツッコんだ。 「陸、おまえ、坊主じゃねーか。結う髪がどこにあるんだ?」 さちさんと母とほのかは、それを見て、楽しそうに笑った。 僕の家が、一瞬で、さちさんのいる場所になった気がした。


「ほら、いつまでもここで騒いでないで、勉強するんだろ?」 母は、パンパンと手を叩きながら、僕たちを促した。ほのかと陸が抗議の声をあげる。「えー。もっと遊びたいー」

さちさんは「また今度あそびにくるからね」となだめる。


「うるさくてごめんね、じゃあ、そろそろ部屋にいこうか」 僕は、さちさんと共に廊下へ向かった。

母が台所から、少し抑えた、しかしよく通る声で言った。 「あんた、こんなかわいいお嬢さんにへんなことするんじゃないよ」

瞬間、僕の顔が真っ赤になるのを感じた。 「す、するわけねーだろ!」 僕は思わず大声で否定したが、さちさんは耳まで赤くしながらも、楽しそうにクスクスと笑っている。 母はフフッとだけ笑って、それ以上は何も言わなかった。


僕の部屋は、六畳一間。さちさんの整頓された部屋とは異なり、教科書やら雑誌やら雑多なものが積まれていた。 「わあ、ここが先輩のお部屋…」さちさんは、すぐに僕の机の上の、サンヨーのラジカセに目を留めた。 「これ、これですね。先輩が、いつもテープを作ってるラジカセ」 さちさんは、Pixyのような豪華さはないそのラジカセを、まるで宝物のように優しく撫でた。


「…うん。あんまり、音は良くないんだけど…」さちさんが自分が持ってきた『DIAMONDS』のテープをセットした。 テンポのよい曲がかかる。さちさんは僕のベッドに腰掛けてリズムをとりながら「先輩、このラジカセで、この曲を聴くと、なんだか、すごく特別な感じがしますね。」 僕の部屋で流れるPRINCESS PRINCESSの音楽は、彼女の家で聴いた時とは違う音色を奏でていた。


「あ、今月号の『B-PASS』、ブルーハーツの特集だ!」さちさんは僕のベッドの上にあった雑誌をとり寝転びながらページをめくる。僕は半ばあきれながら「もう。勉強はいいの?」と問う。「先輩の家、楽しすぎて勉強は無理です」きっぱりと言う彼女に唖然として声も出なかった。

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