第3話 小山邸とPixy(ピクシー)

第二章



彼女が3年生に進級した4月初め、いつもの放課後の図書館で2人並んで勉強を始めると、さちさんは少し深刻な顔で話し始めた。「うちのお父さんが最近成績が上がってきたのを勘違いしちゃって、今が伸び盛りだから塾へ行けと言ってしつこいの」「私は先輩に教えてもらって成績が伸びているんだから、塾なんて行きたくないってはっきり言ってるのに」少し頬を赤くふくらまして、さちさんは言う。


たしか彼女の父は公務員だったなと、僕は少し考えてから「そう言ってもらえるのはうれしいけど、最近は教えててもすごく伸びてるのが僕にもわかる。今、塾へ行ってちゃんと受験対策などを教えてもらったほうがいいと思う」と伝えた。本心ではこのまま伸び続ければ僕が教えてあげられることはすぐになくなるだろうから、という思いもあった。


さちさんはますます頬を真っ赤にして「もう!先輩までお父さんの味方ですか!塾なんかに行ったら先輩といっしょにいられる時間もなくなっちゃう」と涙目で訴える。僕は「受験が終われば、同じ学校だしたくさん会えるよ。そうなったらたくさん遊ぼう!それまでの辛抱だよ」と励ました。

「それ絶対、約束ですよ…そして塾がない日は教えて下さいね…」まだ納得いかない表情をしながら、さちさんはしぶしぶ了承した。


さちさんはお父さんの薦めでバリバリの進学塾『北大学力増進会』へ通うことになった。平日は隔日で夜遅くまで講義があり、日曜日にも受験生コースの講義が組まれていたため、いままでよりも格段にいっしょにいる時間が減ったが、受験までの辛抱と自分にもさちさんにも言い聞かせていた。塾に行ってから図書館の勉強会でみた彼女が使う、新たな参考書は、いままで僕が教えてきた参考書とはレベルが違っていた。


夏休み前のある土曜日、午前中の学校の授業が終わり、いつものように市立図書館に向かうと入口の前にさちさんが立っていた。「今、見てきたんですが、今日は図書館が満員で席が空いてませんでした」「それでなんですが、今日は私の部屋で教えてくれませんか?」少し恥ずかしそうな顔をしてさちさんが言う。「ボ、僕は大丈夫だけど親御さんとか、へ、平気なの?」僕は彼女の家に行くという一大イベントの突然の発生に動揺を隠しきれない。「今日は土曜日なので、17時くらいまでなら大丈夫だとおもいます」さちさんが目一杯まじめな顔で僕の目をみてくる。僕は真っ先に頭に浮かんだ邪な考えを、その目に見抜かれそうな気がして意識の深い深い谷底に押し込みフタをした。



小山邸は小高い丘の上の造成地にあり、地元でも裕福な家庭が多いと有名な地区にあった。彼女と並んで坂を登る間、僕は無意識に土埃のついた自分のスニーカーの汚れを気にした。彼女の家の前で立ち止まる。庭には手入れの行き届いた芝生が広がり、白い塗り壁のエントランスには、『小山』と立派な表札がかかっていた。


「さあ、先輩。どうぞ」


さちさんは屈託のない笑顔で、鍵を開けた。「今日、お父さんは市役所の仕事で出かけてるから。お母さんもまだ帰ってきてないと思うけど…」


玄関に足を踏み入れると、広々とした吹き抜けのホールには、静かで清潔な空気が満ちていた。そして、正面のリビングの奥には、大きく採光にこだわった窓が配置されているのが見えた。

「かっこいい家だね。日当たりがいいな…」窓から差し込む光は部屋全体を明るくしている。


「ふふ。お父さんが市役所でお仕事をがんばって、建ててくれたんですよ。行きましょう。私の部屋」


彼女はそのまま階段を上がり始めた。圧倒的な場違い感と居心地の悪さを感じながら、その背中を追った。二階の廊下はさらに静寂に包まれていた。


いくつかドアが並ぶ中、 廊下の突き当たりにある部屋のドアが開き、白いフリルのついたワンピースを着た二人の少女が、顔を揃えて出てきた。さちさんにそっくりな、すらりとした体型。小学6年生くらいだろうが、すでに大人びた空気をまとっている。

「あ、さちお姉ちゃん。やっと帰ってきた。ねえ、そっちの人、誰?」

一人が僕をチラッと見て、すぐに視線を逸らした。

「みずき!ひかり!失礼でしょ。村山先輩よ。勉強を教えてもらっているの」さちさんは少し焦った顔で双子を嗜めた。

「ふーん。私たちが『村山先輩』に会うのって初めてだもんね、ひかり」

「そーだね、みずき。お姉ちゃんの勉強、教えてくれるんだ?」

二人は顔を寄せ合い、ヒソヒソと何かを話すと、また僕の方をチラ見した。ひかりが僕に向かって言った。

「ねえ、先輩って、私たちの学校のテストとかも解けるの?」

その問いかけは少し挑戦的だったが、目に好奇心が宿っているのが見えた。

さちさんが「馬鹿なこと言ってないで、早く部屋に戻りなさい!」と双子を追い立てた。二人は僕を一瞥し、フン、と鼻を鳴らしてから、部屋へと戻っていった。

「ほんと、なまいきなんだから」

彼女は迷いなく一つ手前のドアを開ける。


「どうぞ、先輩」


ドアをくぐり部屋に入るとまず目を引くのは、整然と並べられた本棚だ。参考書や問題集はもちろんのこと、国内外の文学作品が並んでいる。彼女が読書家であることは知っていたが、かなりの量と質に圧倒される。

「おお、赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズ。全部あるの?」僕は思わず声を上げた。「あ、先輩も好きだったんですか?私も好きです!全部ありますよ!」目を輝かせてさちさんが笑う。


窓際には、手入れの行き届いた観葉植物が柔らかな緑を添え、白いレースのカーテン越しに、午後の柔らかな光が差し込んでいる。その光は、床に敷かれた淡いピンク色のラグの上に、優しい光の輪を作っていた。


勉強机も驚くほど綺麗に整理されている。使い込まれた参考書とノート、そして僕が教えた数学の公式を走り書きしたメモが貼られているペン立てには、あのとき交換した僕の黒い製図用シャープペンシルがささっていた。その傍らには、何枚かのCDケースがさりげなく置かれている。しかし、僕の視線はすぐに、部屋の奥、棚の上を占拠して鎮座するSONYのミニコンポ、「Pixy(ピクシー)」に釘付けになった。今年発売されたばかりのミニコンポで、艶やかな黒い本体に、独立した3ウェイスピーカー、既存のミニコンポの中では群を抜いて高級なステータスを放っていた。中高生でも音がいいと噂になっていて、象徴的な5バンドのグラフィックイコライザー、標準装備されているCDプレイヤーは僕たちの憧れの的だった。


「あ、これ、お父さんが誕生日に買ってくれたんです。私、音楽が聞きたいって言ったら、一番良いやつを選んでくれたみたいで...なにか聞いてみますか?」


さちさんは少し照れながら説明し、CDプレイヤーの再生ボタンを押すとPRINCESS PRINCESSの「DIAMONDS」の軽やかな前奏が流れ出す。僕の頭は追いつかない。僕はお年玉を貯めて買ったサンヨーのダブルカセットのラジカセを愛用しており、CDプレイヤーは付いてない。あまりにもかけ離れた、圧倒的な存在感と音の迫力。裕福な家庭の匂い、そして彼女の内に秘めた、僕が知らなかった一面が、その高級な機械から放射されているようだった。


「これで、いつも勉強しながら音楽聴いてるんですよ。音、いいですよね」


屈託のない笑顔でそう話す彼女を見ながら、音質の良さに圧倒されていた。「す、すごい・・・ね。本当に音を浴びるっていう感覚」と感嘆の声を上げながら、絶えず湧き続ける卑屈な感情、肥大する劣等感を胸の奥にぎゅうぎゅうに押し込めた。


さちさんが出してきたテーブルに向かい合い、勉強を始める。ボリュームを絞ったPixyの奏でる音楽だけが部屋に響いている。さちさんは「先輩、私が勉強するときにかけているオリジナルテープ聞いてみて」といい、自分で選曲したテープをセットした。曲は徳永英明の「夢を信じて」。徳永英明の繊細な声とやさしいメロディが沁みる。しばらくするとさちさんが「先輩、この放物線の上に置かれた三角形の面積を二等分する直線の式を求める問題、いつも悩むんですよ」と質問があり、「ん。どれどれ」と僕はさちさんの横へ移動する。


一瞬だけ彼女の髪の匂いがした。それは柑橘系のように爽やかで、ほんの一瞬で消えてしまう。「さちさん、これは対辺の中点を導き出してここに補助線を引くとわかりやすく解けるんだよ」図形の横に公式と中点を求める式を書き、補助線を引く。

「ああ、なるほどー」と感心しながら式の続きを書いていく、さちさんのシャープペンを持つ手がわずかに僕の手に触れ、ドキっとするが、必死に顔に出さないようにする。「あ、解けました」と満面の笑顔で、こちらに顔を向けたさちさんと目が合いふいに見つめ合ってしまう。僕がたまらずうつむいたその瞬間、Pixyからリンドバーグの「今すぐ Kiss me」が弾けるように流れ出し、 Kissという言葉に二人とも真っ赤に赤面してしまう。


「さちー、誰か来ているの?」


部屋の外から声が聞こえ、僕は慌ててテーブルの向いのクッションに飛びのいた。瞬間、ドアが開く。

「先輩に勉強みてもらってるの 前から話してたでしょ こちらが村山先輩」

「ああ、あなたが・・・」上品なスーツを着たさちさんの母親が僕を見る。その目がなにを物語るか固唾をのんで覗いていたが、目の色に本音は最後まで浮かんでこなかった。


「ご挨拶がおそくなりました。初めまして村山です さちさんとは中学生のころから友人です」


やや堅苦しかったかなと思った。向かいにいるさちさんが文句を言いたそうな顔をしてこっちを睨む。さちさんが付け足すように言った。

「ママ、先輩とはホントに仲良しなんだよ!」僕は赤くなる。

「ああ、いつも勉強みてもらってありがとう。今日はゆっくりしていってね」さちさんの母親は優しい笑みを浮かべて部屋の外に出て行った。僕は緊張が解けてデーブルに突っ伏した。

「びっくりしたー 心臓に悪いよ・・・」

間髪を入れずさちさんが言う。

「先輩、「友人」はひどくないですか?」まだふくれている。

「いやいや、ああ言うしかないでしょ?」

「他にも言い方があったでしょ・・・」ぶつぶつ文句が止まらないさちさんに

「今度、また今度こういうことがあったらちゃんと言うから」と必死に言い訳をする。

さちさんは「じゃあ、なんて言うんですか?」と上目遣いでニヤニヤしながら聞いてくる。

完全に追い詰められた僕は

「うう、け、けっこんを前提に、お、お付き合いさせてもらってます???」蚊の鳴くような小さな声で答えると「・・・け、けっこん」と今度はさちさんが悶絶する。


「あ、あ、間違った、いや間違ったもおかしいか、い、いや、結婚とか、そ、そんなつもりじゃな、いや、そんなつもりじゃないもおかしいか・・」完全にしどろもどろになった僕をみて、さちさんは大笑いしている。


「あらあら、ほんとに仲良しね」と目を細めながらお母さんが紅茶とクッキーを持って部屋に入ってくる。

「ママ、いつからそこにいたの?なんにも聞こえてないよね?」とさちさんが焦る。

「うーん、ついさっきよ。何も聞こえてないわ。結婚とかなんて ウフフ」

僕とさちさんは顔を見合わせて下を向いて赤くなる。

「いや、それもう全部聞いてるじゃん」とさちさんはうるんだ目を向ける。

「パパには言わないで 心配性でどうなっちゃうか、わからないから」

「フフ、若いっていいわね」笑いながらお母さんは、紅茶とクッキーをテーブルに置いて、部屋を出て行った。


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