私は生きる為に飛び降りた。

ねここ

拉致未遂事件




「家に帰るからタクシー探してもらっていい?」


 仕事を終えた私は現地のスタッフにタクシーを頼んだ。


 私の職場はチャイナタウンにあり、職場から自宅のサービスアパートメントまで徒歩十五分ほど。歩くことも多々あったが、その日はブーツだったこともありインフラが整わないボロボロの歩道は歩きたくなくタクシーで帰ることにした。


 東南アジアの貧国、時間帯によって、タクシーはなかなかつかまらない。十五分ほどし、スタッフがタクシーをつかまえ呼びにきた。


 この国ではタクシーに行先を告げ、値段の交渉をする。この時外国人だとぼったくられる事もあるのでスタッフが率先して交渉してくれる。


 国民性の違う人間同士、最初はスタッフ達とも分かり合えるまでは大変だった。けれど今は違う。一年一緒に過ごしたスタッフ達を心から信頼し、任せられる関係を築き上げた。


 私はスタッフに礼を言いタクシーを見た。白タクだ。あまり乗ったことがない。


(うーん、白タクか、ま、仕方がない)


 正規のタクシーではない事を気にしつつも中々つかまらないタクシーを待つのも面倒だったため乗り込んだ。スタッフが笑顔で手を振り私もそれに応える。

 普段はこの国に長年住んでいる妹と行動するが生憎帰国中だった為、ここ一ヶ月は一人で行動している。こんな時に白タクか、と、私は警戒レベルを引き上げた。


 運転手をみる。恐らく四十代後半の男。体はゆらゆらとゆれており、呂律が回っていない。目が血走っている。見た目から明らかにおかしい。


(おいおい、この人危ないんじゃない?薬物?)


 人生の中で何度も危険な目に遭ってきた私の勘が危険信号を発した。これはあかんやつ。だが今更遅い。車は走り出している。


 警戒度マックスに引き上げ神経を尖らせた。


 最初の角を曲がるところからこの運転手は最悪だった。全く逆に曲がる。


「運転手さん、ここは左でしょ?なぜ右に曲がる?あそこに見えるアパートメントに行ってよ」


 カタコトながらに運転手に話しかける。運転手は、


「わかってるよぅ」


 と噛みタバコで真っ赤になった唇でニヤリと笑う。


 この国の噛みタバコは口の中が真っ赤になる。私も一度試しに噛んでみたが清涼感ある葉っぱ。石灰が入っている。特に思う事はなかったが普通のタバコの方が良い。(その頃は喫煙者だった)


「ここ真っ直ぐ進んでよ」


「問題ない」


「はぁ!?ちょっと!!」


 私はどんどんと離れてゆく我が家を見て顔を顰めた。


「ちょっと!!どんどん離れてってる。次のコーナーで右に曲がって降ろして!」


 運転手は「わかったぁ」と言いながら真っ直ぐに進む。


全く話を聞いていない。ニヤニヤと笑うその顔に危険を感じた。これは危ない案件だ。


「ちょっと、止めて!!」


 私は語気を強め運転手に命令口調で言う。

しかし運転手は私の声を無視し、車を走らせる。


 はぁー、最悪。これはまずいことになった。このままどこかに連れて行かれるかもしれない。


 すぐに、ここから逃げる方法を考える。


 携帯で友人に連絡する?


 この国の通信手段は携帯電話のみ。しかも外国人は政府から盗聴されていると言われるような国。もちろん音声は最悪。通じないことも多い。それに連絡している間に知らない場所に連れ込まれたら終わりだ。


 連絡はダメだ。時間がなさすぎる。どうする?どうしよう、と気持ちも焦る。

住んでいるアパートメントはもう見えない。すぐに行動しなければならない状況だ。


 このまま金目の物を奪われるか、乱暴され捨てられるか、最悪殺されるか。


 冗談じゃない!

 こんな国でこんな怪しいメンズに!?


 絶対に嫌だ!


 私は即座に逃げることにした。


 私が座っているのは運転手の真後ろの後部座席、日本とは逆の左側走行のおかげでドアを開ければ歩道があり対向車に轢かれる事はない。


 時速大凡四十キロ。幸いな事に、その頃のこの国の車は日本で払い下げられた昭和の中古車だ。足元に穴が空いている車もザラにある。もちろんスピードは出ない。死ぬ気で飛び降りれば誰か拾ってくれるだろう!!


 こんなやつに何かされるよりよっぽどマシだ!


 私は深呼吸し、意を決し、後ろから思いっきり運転席をドゴン!!と蹴り、走っている車のドアをバーンと開けた。

 

 運転手は背後からの突然の衝撃に驚きブレーキをかける。


 止まりきったら危ない、止まる前に飛び降りないと距離が稼げない。


 スピードが落ちた瞬間私は後部座席から飛び降りた。


 まるで映画のようなワンシーン。ボコボコの歩道の上に転がった。衝撃が体を貫く。ズサーンと転がりがりジーンズは破れブラウスも破れブーツも傷だらけ、擦り傷も沢山できた。だが痛さなど感じない。痛みや恐怖よりも兎に角その時の私は腹が立っていた。


 振り返ると十五メートルほど先でその車は停止し運転手が出てきた。


 瞬時に周りの状況を確認し、立ち上がり応戦する事にした。

応戦を選んだ理由は簡単だ。走っている車から突然人が転がり出てきて、それも外国人だったため人が集まり出し、安全が確保されたからだ。それに私はものすごく怒っている。このままでは終われない。


「一体どういうつもりだ!」


 運転手が怒り狂って近づいてくる。真っ直ぐに歩けない運転手はヨタヨタとしながらも、蹴られたことを怒り追いかけてくる。


 しかし、その姿を見てこちらも益々怒りが湧き上がる。そもそも、怒りたいのはこっちだ。ヤク中か何かしらないが、被害者はこっちなのだ!

 

 距離も十分保てている。それに運転手が何かをしようとしてもギャラリーがいる。

大丈夫だ。私は仁王立ちになり運転手を睨んだ。


「はぁ?何度も道が違うと言ったのにあなたが聞かないからでしょ!?そもそもどういうつもり!?日本人だからって舐めんな!!!冗談じゃない!!怒りたいのはこっちだ!!ふざけるなこのヤク中ヤロウ!!」


と、日本語で捲し立て、怒り、スッキリし、そのまま踵を返し我が家に向かって歩き出した。心中、あの運転手はどうするかな?と神経を研ぎ澄ませ歩いたが追いかけてくる気配がないとわかり、ギャラリーを横目に堂々とした態度でその場を去った。


 こんな時は背筋を伸ばし堂々とするに限る。絶対に負けないというオーラが必要なのだ。ブラウスは破れジーンズはボロボロ、だがボロボロだからこそ威厳を保つのだ。

 これも数々の経験から学んだ。


 海外で酷い目にあった時、私は必ず母国語で怒りを爆発させる。相手の国の言葉だと迫力にかけるからだ。

 それに、感情を言葉として爆発させるほど現地語に長けていない。カタコトで怒るなど相手からしてみたらお子様の言葉に等しい。


 大切なのは『私は真剣に怒っている』と伝えることだ。本当の怒りは言葉など関係なく相手の心に届くのだ。


 だから、一番得意な言語が最適である。国は違えど人間の喜怒哀楽の感情は同じだ。


 中途半端な語学力の私は常にこうして生きてきた。



 その後、四十分ほどの道のりを歩き家にたどり着いた。打ち身と擦り傷だらけの体は痛んだが、生きていて良かったと胸を撫で下ろした。散々な日だった。



 翌朝、打ち身に擦り傷、とても徒歩でゆけないと、真っ当なタクシーに乗り出勤した私の顔を見て、スタッフが開口一番に言った言葉を今でも忘れない。


「ああ!!何もなくて良かった!」


 !?


 は?


 どういう意味?


 私は目を丸くしスタッフに聞いた。


「昨日のタクシー怪しかったからみんなで心配していたんです。一応ナンバー控えていたんですけど」


そう言って黒板に書かれた車のナンバーを指差すスタッフ。


「……」


 唖然とし言葉が出なかった。


 いや、普通、現地の人も怪しいと思う人の車に外国人乗せんだろ!?

 こっちは打ち身と擦り傷でめっちゃ痛いんですけど!?

 心配するくらいなら乗せるなよ!!


 しかしお気楽なスタッフたちは和気藹々、無事でよかった良かったと喜んでいる。


……おいおい、全然よくない!君達、私は大変だったんだぞ!!


私は心の中で叫びながら、この感覚の違いにひたすら打ちひしがれた。



「あ、次からは普通のタクシーでお願いね……心配してくれてありがと。モヒンガー(ナマズの麺)でも食べよっか。奢るよ」


 モヒンガーを喜ぶスタッフに呆れつつも、本当に心配していたのか、していないのかわからない彼らの思考を理解するなど不可能だと悟った。


 自分の身は自分で守らなければならない。それが現実なのだ。


 ただ、スタッフへの信用度は下がった、いやそもそも信頼関係が築けていたのかさえ不明だ。それに、ナンバーを控えてくれたことが親切なのか親切じゃないのかさえ、彼らといるとわからなくなった。


 だけど、やはり、危機管理能力だけは信じまい。


 そう心に誓った経験だったが、一年後、私は衝撃的な事件に巻き込まれた。


 その時、このお気楽スタッフの危機管理能力が私を救った。


 名誉挽回編。それはまた後日。

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