第二章:琵琶湖血戦

第7話:襲来

 いつものように三井寺へと赴いた。


 人気のない境内に、その日は珍しく人の姿があった。


「京志郎さん」


「霞か」


「毎日こうやってお参りにくるなんて見た目によらず信心深いわね」


「別に深い意味はない」


 他愛もない会話もそこそこに、京志郎は手早く日課を済ませた。


 それが済めば、いつものようにさっさと三井寺を後にする。


 その後ろでは、霞が三歩離れてついて歩く。


「それでどうなった?」


「上の判断はこの一件はすべて京志郎さんに任せると」


「それだけか」


「えぇ。最初は上も懐疑的でしたが信じたわよ。国が危機に瀕しているなら全力で守護せよ、と」


「了解した――ところでいつまでついてくるつもりだ?」


 もう役目は終わったであろう。霞は未だ傍を離れようとしない。


「あら。私がいては邪魔かしら?」


「技は人に見られたくない」


 京志郎はちらりと霞のほうを見て腰の刀に手を伸ばす――が、すぐに引っ込めた。


 霞の存在がどうしても修練を阻んでしまう。


「それじゃあ私と少し歩かない?」


「お前と?」と、京志郎ははて、と小首をひねった。


 言うや否や、霞は軽やかな足取りで歩み寄ると右腕に密着した。


 しっかりと腕を絡める霞に、恥ずかしがる様子は微塵もない。


「突然なにを……」


「こうやって歩くのだって悪くないとは思わないかしら」


「傍から見れば変に思われるのがオチだな」


 京志郎は小さな溜息を一つして、心中にて眉をひそめた。


 外見だけなら女同士がくっついているのだ。


 奇妙という他ない光景に、怪訝な顔をされるのは一目瞭然である。


 さしもの京志郎もそれは望まない。


「離れてくれ。勘違いされる」


「あら、恥ずかしがり屋なのね」


「本気で言っているのなら失笑ものだぞ霞」


「冗談よ」


 からからと笑って霞はぱっと離れた。


「それじゃあ私はそろそろ行くわ」


「あぁ。お前も気を付けろよ」


「あんな怪物と対峙しようだなんて思わないから安心して」


 小さくなる霞の背中を、京志郎は静かに見送った。


 ――大津宿は相変わらず騒がしい。


 しかしその日、騒がしさの質がいつもと異なっていることに京志郎ははたと気付いた。


 町全体がひどくどよめいている。


 皆なにかに恐れていた。視線の先にあるのは――まんぷく亭。


 まずくても賑わっていた店が、今は嘘のようにとても静かだ。


「とうとう愛想でも尽かされたか?」


 ふっと鼻で一笑する。


 京志郎はそっと格子窓から中を窺った。


「……あの大男は誰だ?」


 しんとして物寂しい店内。


 中央に見上げるほどの大男が鎮座している。


 そして大男の前に愛華の姿があった。深々と土下座をして、よくよく見やれば肩が小刻みに震えている。


「愛華?」


 京志郎はいぶかし気な目を向けた。


「――、そこから覗いている貴様は佐瀬京志郎だな」


 不意に大男から声を掛けられた。


 全身の肌がぞくりと粟立つ。この大男はなにか危険だ。


 京志郎は咄嗟にその場から大きく飛び退き――跪いていた己にひどく困惑した。


(何故俺は土下座なんかをしようとした……!?)


 その土下座に京志郎の意思はないが、本能がそうさせていた。


「ふむ――佐瀬京志郎。見た目はまさに女子のように美しいが、内に秘めたる魂は氷のように冷たく雷のように猛々しい刃そのもの。伊達に百の命を奪っただけのことはある」


 更なる驚愕が京志郎を襲う。


 いつの間にか目の前に大男がいる。


 厳密には外にいたはずが、まんぷく亭の中にいた。


「……何者、ですか?」


 京志郎はおずおずと尋ねた。


「ワシは閻魔大王である。すなわち、この愚かな娘の父親だ」


「閻魔大王……!」


 絵巻ではなく本物の閻魔大王が眼前にいる。


 ひしひしと放たれる威圧感はずしりとしてとても重苦しい。


 呼吸さえも億劫になるほどの重圧に、しかし京志郎は真っ向から見据えた。


「ほぉ……人間でありながらいい眼をしている」


「……閻魔大王様が何故ここへ?」


「それは、言うまでもなかろう」


 愛華の身体がびくりと大きく震えた。普段の小生意気さはすっかり鳴りを潜め、借りてきた猫のようにすっかり大人しい。


「愛華の管理不足により数多の獄卒が役目を放棄し現世へと逃げた。あまつさえ魔人となり再びこの人の世を混乱と破滅を招こうとしている」


「…………」


「そして、京志郎よ。貴様が娘と契約し魔人狩りを行っていることもワシは知っている」


「さすがは閻魔大王様。すでにご存知でしたか」


「娘がこの店を開いていた時からすでに」


 閻魔大王の口から盛大な溜息がもれた。


 元より赤い顔にも呆れと疲労が色濃く滲む。


「愛華よ。家事も満足にできないのに何故このようなことをした? 人の世に隠れるならばもっと他にも方法はあっただろうに」


「余のご飯はまずくないもん!」


 愛華の言葉に嘘偽りがない。


 本音であるだけにより質が悪い。


 まずいという自覚がこれっぽっちもない。


 改善は絶望的だろう。ふと目にした親はさめざめと嘆く始末である。


「……いつかよくなると思います」と、京志郎はふとそう口走っていた。


 大した慰めにはならない。だが何か言わなければ。そんな使命感が走った。


「――、話を戻そう。京志郎よ、まずは貴様の働き大儀である。まだ一体とは言えたしかに、獄卒の一人が地獄へと戻された」


「いえ大したことはしておりません」


「貴様は引き続き、この愛華と共に獄卒どもの討伐に当たるのだ。さすれば貴様がこれまで犯した罪、帳消しにすることをこの閻魔大王が約束しよう」


「ありがとうございます」


 京志郎は深く頭を下げた。


 閻魔大王じきじきの言葉は、愛華よりもずっと信頼と説得力があった。


「余のおかげだな」と、我がことのように威張る愛華。


 ずしん、と重々しい音が一つ。巨大なしゃくが愛華の頭に乗っている。


「いたぁぁぁぁぁぁ! な、なにするのおとうさま!」


「当たり前だこの大馬鹿者が! どれだけの混乱を招いているか貴様はわかっているのか!」


「ひぅぅ……」と、情けない声をもらす愛華。


 目頭に大粒の涙が浮かべ、しかし抗議しようとすらしない。


 閻魔大王の言い分は至極真っ当だ。反論する余地は欠片ほどもない。


 それを理解はしていて、それでも納得できない愛華は悔しそうに睨んでいた。


 閻魔大王に効いている様子はなし。これも当然だと言えよう。


「はぁ……とにかく愛華よ。この一件が片付くまで地獄へ戻ることを禁ずる。必ず残り九十八の獄卒を連れ戻すのだ」


「ん?」と、京志郎は眉をひそめた。


 愛華の言葉と明らかに数が異なる。


 何気なく愛華を見やった。さっと顔をそらされる。


 まさか、と京志郎は歩み寄った。


「嘘を吐いたのか?」


「だ、だって……百なんていったら断られると思ったんだもん!」


「お前という奴は……」


 あろうことか閻魔大王の娘が嘘を吐いた。


 これには京志郎もほとほと呆れるしかない。


「なんとも情けない」と、閻魔大王も頭を抱える始末であった。


「……京志郎よ。これも試練だと思い愚娘と共に獄卒を地獄へ連れ戻してくれ」


「……はい」と、力なく項垂れた。


 ――閻魔大王が煙のようにすっと消える。


 それと同時に愛華がふうと息を吐いた。


 目元は赤く腫れぼったいが、表情はいつもの愛華だ。


「というわけだから京志郎よ。これからも余のために尽くせよ」


「よくそんなにも偉そうな振る舞いができるな」


「なんのことか余わかんなーい。ほらさっさと京志郎も魔人の行方を探れ!」


「…………」


 閻魔大王が去ってから瞬く間に、まんぷく亭にいつもの活気が戻った。


 まずい、と表情でそう主張しながらも愛華のために尽くす。


 やはり愚かだ。遠目から京志郎はすこぶる本気でそう思った。

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