第6話:比叡山の鬼

 比叡山・延暦寺――。


 多くの名僧が排出されたこの場所は三大霊山としても有名だ。


 そのため、毎年多くの修行僧がここを訪れる。


 秋になれば美しい紅葉で彩られ、わざわざ遠方より観光へやってくる者も少なくはない。


「これは、どういうことだ?」


 京志郎は周囲を怪訝な眼差しで見やった。


 美しかった景観も今は影も形もない。


 至る所にあるは仏像だが、形相は人のそれではない。


 異形。おどろおどろしい造形に神々しさは皆無である。


「以前来た時は、こんな感じじゃなかったのに……」


「これも、海燕……いや、魔人とやらの仕業によるものだろう」


 山全体を包む異様な静けさは不気味そのもの。


 頬を撫でる風は真冬のごとく、骨の芯にまで突き刺さる。


 山が哭いている。京志郎はそんなことを、ふと思った。


「とにかくまずは海燕を探すとしよう」


「あーちょっと待ってくれるか京志郎」


 何故か愛華が制止した。


「いきなりどうした?」


「ここから先は多分、妨害するためにあれこれ策を用意してくると思う。だから、はいこれ」


「これは?」と、京志郎はそれをまじまじと見やった。


 大刀だった。刃長はおよそ二尺四寸七分約74cmといったところ。


 愛刀よりも一回り長く、そして羽のようにふわりと軽い。


 すらりと抜けば、細身で薄く赤みを帯びた刀身が露わとなる。


 見たこともない輝きに京志郎はつい見惚れてしまった。


「これは、見事な刀だな。これほどの名刀を見たことがない」


「今回に限り特別に貴様に貸してやるぞ。その刀は獄卒の魂を強制的に地獄へと送ることができる」


「なるほど――」


 と、そこまで口にして――


「しかし、源八の時は勝手に消えたぞ」


 疑問を口にした。


「京志郎の刀は、金剛杵のせいか問答無用で魂を消滅させる力がある。それだと余としても困る」


「つまり、数が揃っていないとその時点で発覚してしまうということか」


「……お父様はすごく細かいし、些細な変化も見逃さないから」


「了解した。では、獄卒共を相手にする時に限りこの刀を使うとしよう」


「名前は冥刀・門という。大切に扱うように」


「言われなくとも」


 新たな刀――冥刀・門を腰に京志郎は延暦寺を目指した。


 荒れた道が歩行を著しく妨げる。


 由緒ある造形物の大半が、憐れにも破壊されていた。


 生存者はなし。夥しい数の死体だけが至るところで視界に入る。


 奇妙なのは、死体の首が一つとしてないということ。


 付け加えて彼らの死に様は、一様に美しくすらあった。


 座禅を組み拝む。なにかに祈りを捧げる姿に京志郎もはて、と小首をひねる他ない。


「ここにある死体は全部、手を合わせているな」


「首がないから判別のしようがないけど、でも私的に彼らは自らの意志で死を受け入れている……そんな気がするわね」


「……進むぞ」


 ぽつり、ぽつり――。


 冷たい雨が頬を打つ。


 いつしか空は鉛色の雲に覆われていた。


 次第に勢いが増し、さぁさぁと雨が降りしきる。


「これも、魔人とやらの力の影響か?」


 京志郎はふっと嘲笑した。


「気を引き締めていけ。ここから先は余もどうなるかわからないからな」


「……魔人とか閻魔大王の娘とか。まるで御伽噺の中にでもいるかのような気分だわ」


「同感だ」と、京志郎も小さく首肯した。


 雨はさらに勢いを増す。


 びゅうと冷たい颶風が吹き、雷鳴が激しく轟く。


 一行の視線の先に延暦寺がその姿を晒した。


 これまで数多くの僧を招いた神聖なる場所は、今やその面影もない。


 ひしひしと禍々しい雰囲気が、何人も寄せ付けない。


「ここにいるようだな」


「京志郎さん。一応、私の役目はあなたの監視。だけど手助けもするつもりでいるから」


 霞が背負っていたそれをすっと布から解いた。


 火縄銃こそ、霞がもっとも得意とする獲物だ。


 全身を漆黒で染め、黄金の装飾が特徴的だ。ヤタガラスの彫刻が美しい。


「霞の腕前は確かだ。信頼している」


「じゃあ、私は一度離れるわね」


「人間でも、修練次第であぁも動けるものなのだな」


 屋根へとひょうと軽々と上がる身のこなしに、愛華が関心した。


「ヤタガラスの一員……中でも特に秀でた連中は、神話になぞらえて八握剣と呼ばれる。俺や霞がそうだ」


「へえ」


「……俺たちもそろそろいくぞ」


 京志郎は根本中堂へと足を踏み入れた。


 入ってすぐに、京志郎はその後姿を静かに見据えた。


 一人の僧が座禅を組み、念仏をひたすら唱えている。


 一瞬、大岩がそこにあるものと錯覚した。とても大きな背中だ。


 分厚い筋肉が、法衣の下から突き破りそうだった。


 京志郎はちらりと屋根を見やった。


 霞の銃口はしっかりと件の僧をとらえている。


「よし」と、京志郎はゆっくりと口火を切った。


「お前が破戒僧の海燕とやらだな?」


 念仏がぴたりと止む。


 僧がゆっくりと立ち上がり――


「……予想していたよりもずっと大きいな。源八よりも大きくないか?」


 と、京志郎は思わず苦笑いを浮かべてしまう。


 背丈はゆうに八尺約240cmは越えよう。


 破れた袖から伸びる両腕は丸太のように太い。


 鬼のような形相に赤い目をらんらんと輝かせ、もはや人ではなかった。


「海燕とやらは魔人だったようだな」


 京志郎もここで冥刀・門をすらりと抜き放つ。


「この神域に何用で参った? 貴様も我が御仏をあがめに来たか」


「お前のいう御仏とやらは、果たして本当に神仏の類か?」


「我が御仏を愚弄するか!」


 海燕が憤怒の表情で吼えた。


 獣のごとき咆哮が大地を震わせる。


「京志郎よ。こうなってしまってはもう手遅れだ。この男の魂がすでに獄卒が喰らっている。発する言葉も、生前を模倣しているだけにすぎん」


「すでに死していたか。なら、ここで払うがせめても救いだな」


 京志郎は霞の構えを取った。


 海燕が地をどんと強く蹴った。


 巨体が迫る。手にした大数珠は、一つが一尺を軽く超える。


 鈍器として十分な殺傷能力を有した一撃は、石灯籠を難なく破砕するほど。


 人体であれば骨ごと砕け散るのは容易に想像がつく。


 ずどん――。


 耳をつんざく炸裂音が反響した。


 一瞬の静寂――真っ赤な花弁が雨の中に散った。


 霞の狙撃の腕前は、肉眼で蟻の顔をも鮮明に捉えるほど高い視力によって成り立つ。


 そのため狙った獲物は必ず仕留める。


 海燕の頭部からはどろりと赤黒い血が滴る。


 即死だ。彼が普通の人間だったならば、の話に限るが。


「なっ……!」


 屋根の上で霞が驚愕する。


 対照的に京志郎は至って平然としていた。


(魔人相手に通常の武器は通用しないか)


 効果がまったくなかったわけではない。


 ほんの一瞬、海燕の意識が霞へと向いた。


 刹那にも満たない刻さえも、京志郎は決して見逃さない。


 勝機はここにある。京志郎は冥刀・門を上段に構えた。


 ――京志郎の技は簡潔に言えば極めて単純である。


 ただ渾身の一太刀を敵手にぶつけるだけ。


 そこに虚は一切なく、あるのは実のみ。


 雷のように強く、疾風よりも更に迅く。


 たったこれだけの術理でありながら京志郎は数多くの敵を斬った。


 魔剣・武御雷――いかに堅牢な城壁であろうと、雷の前では紙切れ同然だ。


 雷鳴が轟き、稲光が地上を白く照らす。


「さすがは地獄の太刀。本気で振るっても壊れなかった」


 満足そうに京志郎はにっと口角を釣りあげた。


 それを愛華が呆然とした様子で見つめている。


「今の……全然見えなかったんだけど」


「本気で振るったからな」


「……貴様は本当に人間なのか?」


「失礼な奴だな。れっきとした人間だ」


「どこが」と、愛華はすこぶる本気でそう呟いた。


 海燕だったものが跡形もなく消失し、代わりに青々と燃える火の珠がゆらりと出現する。


「これが獄卒か?」


「そう。現世だと形を保てないからみんなこんな風になる――さてと、地獄で貴様の行く末を改めて決めようか」


 愛華が冷淡に告げる。


 心臓を鷲掴みされるかのような迫力には、京志郎も思わず息を呑んだ。


 火の玉が消える時、断末魔にも似た悲鳴が雨音をかき消した。


 だがそれもすぐに収まる。冷たい雨もぴたりと止み、雲の隙間からは眩い陽光が地上へともれる。


「一件落着、といったところか……」


「そうね――私からもこの一件は報告しておくわ。まさか、あんな怪物が世の中にいるなんて……」


「……こんなのが後九人もいると考えるとゾッとするな」


「そ、そうだな」


 何故か愛華の歯切れが悪い。


 表情もぎこちなく、目線も右往左往して落ち着きがない。


「どうかしたのか?」


「な、なんでもない! そ、それじゃあ早く帰ろう! あ、余はまたあの茶屋で団子が食べたいぞ」


「お前……その金を出すのは誰だと思っているんだ?」


「そんなの京志郎しかいないだろう」


 さも平然と言う愛華。


 遠慮の欠片もない言動に、京志郎はもう何も言い返す気力はなかった。

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