第54話 この世界

黒い大地を踏みしめ、ルシアンは歪んだ冥界を見下ろしていた。

蓮が冥王として目覚めた瞬間、世界の回路は壊れ、死と生の境は消えた。

王国が数百年かけて築いた秩序は、ただ一人の感情によって塗り替えられてしまった。


風が吹き、魂が揺れる。

その奥に、ミリアの気配があった。

蓮と重なった魂は、冥界の中心で安らぎ、しかし熱を帯びている。


「ここからが始まりだ……蓮」


呟きは誰に届くこともない。

それでも彼は進む。

蓮が蓮であり続けるために。

それだけが、彼の願いだった。


地上では、生存者たちが小さな焚き火を囲んでいた。

天から降るのは、星でも雪でもない。

魂の欠片が静かに降り、人々の肌に触れて消えていく。


誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが冥界へ吸い寄せられてゆく。

善も悪もなく、ただ流れのまま。


子どもが問いかける。

冥王は味方なのかと。


大人は答えられない。

救いであり、恐怖でもある。

ただ一つ確かなのは、あの存在がもう“人”ではないということ。


祈りは、ミリアの名を呼んでいた。

冥王を隣で静かに見つめる少女――

世界を変える鍵として生まれながら、自らの意志で蓮の隣に立った存在。


だが、人々は知らない。

ミリアが世界によって造られた器であり、本来は“世界意志”の端末であることなど。


世界の中心には玉座はない。

ただ、回路が回るだけ。

命を生み、死へ送り、魂を洗い、また命へと還す。

その循環は、美しく、残酷だ。


意思を持つ肉体はない。

姿も声も名もない。

ただ維持だけを望む装置。


世界は語る。

愛も怒りも希望も、回路にとっては異物。

変化は破壊。

感情は毒。

だから蓮を拒み、ミリアを“鍵”として造り、世界に繋ぎ止めていた。


その真相を知った蓮は、静かに笑った。


――なら、壊せばいい。


冥王と巫女が指先を重ねた瞬間、冥界が震えた。

破壊ではなく、誕生の震え。


死者は死のままでなく、生者は生のままでもなく、

その境は消え、魂は自由を選べるようになった。


眠りたければ眠ればいい。

戦いたければ戦えばいい。

望めば肉体が与えられ、生き直せる。


ミリアが目を開く。

どこまでも澄んだ黒い湖面が揺れ、冥王の姿を映す。


「ここは……」


「お前が望んだ世界だ。

 誰も泣かず、誰も奪われない。

 ただ、生きていい世界」


ミリアは微笑む。

しかしその奥には、鋭い痛みがあった。


「それでも、否定する誰かがいる」


「だから戦う」


蓮は、冥王の威容を持ちながら、どこか少年めいた笑みを浮かべていた。


冥界の奥、世界の底へ向かう二人。

ルシアンもまた、その背を追う。

まだ刃を交えるつもりはない。

ただ、蓮が蓮であるために。


世界の深層は白だった。

光も闇も、昼も夜もない。

ただ、始まりの場所だけが存在する。


そこに立つ存在は、幼い姿をしていた。

性別も年齢も曖昧。

笑わぬ目と閉じた口だけが静止している。


滅びを拒み、変化を拒み、愛を拒む。

ただ安定を望み、動きを否定する。


蓮が一歩踏み出す。

ミリアの手を握ったまま。


「愛こそが、生だ」


世界が揺れ、白が裂ける。

魂が悲鳴を上げ、世界の叫びが冥界へ流れ込む。


冥界の軍勢が続き、魂の獣が吠えた。

ルシアンが背中を支え、黙って剣を構える。


白が飛び、黒が噛みつき、

存在と存在の衝突が続く。

言葉も理も必要ない。

ただ、生きたいという願いだけがぶつかり合う。


ミリアが叫び、蓮が応える。

ルシアンが支える。


行け、とルシアンは言う。

選んだ未来を貫けと。


蓮は世界へ手を伸ばし、ただ一言囁いた。


――愛せ。


白が泣き、割れ、溶けた。

光は黒へ、黒は光へ、

互いに飲み合い、溶け合い、やがて一つの鼓動を打つ。


冥界と世界は混ざり合い、新しい生命となる。


ミリアが笑い、蓮が応じた。

これは終わりではなく、始まりだと。


新しい世界が静かに息をつき、

すべては、生き直しを許された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る