第45話 影の胎動──魂を喰む囁き
――どこだ、ここは。
蓮の視界が揺らぎ、靄が滲む。
音も匂いも希薄。
ただ、冷たい闇が、脈打つように広がっている。
足元があるのかもわからない。
だが、落ちてはいない。
沈んでもいない。
ただそこに“ある”——そんな矛盾めいた場所。
やがて、囁きが滲んだ。
『……あぁ……みつけた……』
男でも女でもない。
年齢すら想像もつかない。
ただ、耳元へと滑り込むような、湿った声。
『おまえは……儚い……薄い……だけど……』
『おいしそうだ……』
ぞわり、と背筋が硬直する。
声は近づいたり、離れたり。
空間すらはっきりしないのに、
皮膚の裏側から触れてくるような錯覚を伴って。
蓮は手を伸ばした。
そこにあるのは、自分の手。
しかし、影が染みていく。
「……やめろ……俺は……」
『ひとつになれば……痛くない……』
『あげる……すべて……あずけて……』
「黙れ……!」
叫ぼうとして、喉が震えるだけ。
声にならない。
言葉は空虚に沈み、飲み込まれる。
影が膨れ、形を得る。
人のようで、人ではない。
目の位置に黒い穴が二つ。
口の位置には、裂けた空洞。
――喰われる。
そう確信したとき。
光が差し込んだ。
白く、まっすぐな光。
そのただ中から、細い影が走り抜ける。
影を裂くように駆け寄る少女。
銀糸の髪が宙に舞う。
幼い輪郭に刻まれた、強い意志。
ミリアだ。
「……蓮っ! こっちへ!」
その声だけが、現実へと繋ぎ止める。
蓮は無意識のまま、手を伸ばした。
ミリアの手が、闇の縁を切り裂くように掴んだ。
触れた瞬間、
影は焼かれるように弾けた。
『……こども……忌むべし……』
影はひび割れるように分断され、
深い闇の底へと消えた。
蓮は息を取り戻し、膝をついた。
周囲は、硬い石畳が敷かれた地下室へと変わっていた。
――精神世界から、現実へと引き戻されたのだ。
「……ミリア……今のは……」
ミリアが震える声で答えた。
「あなたの魂が……食われそうだった。
あの“虚無”はまだ蓮の中に残ってる……
だから……」
少女は蓮の胸へ、そっと額を触れさせる。
短い祈りの言葉が零れ、温かな光が広がる。
だが、それでも完全には払えない。
ミリアは歯を噛み、目を伏せた。
「……これ以上侵食されたら……
蓮を…… わたしが……」
彼女の声は震えながらも、確かな覚悟で満ちていた。
――殺すかもしれない。
その続きは、言わなくても理解できた。
蓮は、ミリアの手を握り下ろす。
力は弱く、けれど拒まぬ確かさを伴って。
「大丈夫だ。
俺は、まだここにいる。
消えたりしない」
ミリアの肩がわずかに揺れる。
だが、その瞳はまっすぐ蓮を見ていた。
そのとき——
轟音が響いた。
地鳴りが地下室を揺らし、
天井から石片が落ちる。
ミリアが顔をあげ、険しい声を絞り出した。
「王国軍……!
王都から、討伐隊が来てる!」
王城を脱出したはずの蓮たちを追う、
王国の新たな意志。
その中には——
仮面の男に連なる黒衣の兵も混じっている。
逃げ場はない。
蓮は立ち上がり、ミリアの前へ躍り出る。
「行くぞミリア。
俺たちの世界は、まだ終わらない」
影の囁きが、耳の奥で微笑む。
『……あぁ……終わらない……
終わらせない……』
ミリアが蓮の手を強く握る。
その瞳は、
闇を断つ者のように静かに燃えていた。
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