第18話 冥府の守人──黒き門番との誓い
深淵をゆく道は、
すでに道と呼べる代物ではなかった。
足下は黒い霧が凝固し形を成しただけの仮初め。
一歩踏み外せば、底の知れぬ闇へ吸い込まれる。
蓮はエレナの手を握りしめ、注意深く進む。
「息、苦しくねえか」
『……大丈夫。
れんが……隣にいるから』
か細い声。
けれどその手は、震えながらも確かに蓮を掴んでいる。
──光が、ひどく弱い。
魂返しの力を使った代償は、そこかしこに残っていた。
エレナの肌は透き通るほど白く、
血の気が薄くなっている。
(やっぱり削れてる……
あいつの言う通り……)
銀仮面の言葉が脳裏をかすめる。
だが蓮は静かに振り払った。
(俺が守る。
何があっても)
エレナの歩みは遅く、
ときどき立ち止まっては息を整える。
進むごとに背筋をなぞるような寒気が強くなる。
気配──
何かが近づいている。
「……止まれ」
蓮が手を広げてエレナの前に立つ。
霧が蠢き、形を成し始める。
その姿は、
巨大な狼──
いや、狼の形をした何か。
骨のような肢、黒い体毛、
片目に宿る深紅の光。
咆哮──
それは獣の声でありながら、
人の嘆きのようでもあった。
『お母さん……
どこ……?』
エレナが苦しげに耳を塞ぐ。
蓮は剣を構えた。
「来るぞ──!」
黒い狼が疾駆。
その速度は相変わらず目視できない。
一瞬で間合いに入り、
鋭い爪が蓮の喉を狙う。
──受ける!
蓮は反射で刃を横に走らせ、
爪と衝突。
金属を削るような轟音。
衝撃が骨の内側を叩きつける。
(重っ──!?)
受け流し、後退。
着地と同時に霧が刃となって襲う。
蓮は転がり、かわす。
動いた場所すべてが霧に侵食され、
黒ずんだまま残る。
この深淵の影は、
痕跡を残し、
魂を喰う。
『やめて……こないで……』
エレナが震え出す。
狼がその声に反応した。
咆哮。
影が膨張し、
霧がエレナへ伸びる。
蓮はその前に飛び込み、霧を斬り払う。
霧は悲鳴を上げるように退いた。
「エレナ──しっかりしろ!」
『……うん……っ』
エレナは蓮の背中を掴み、
必死に立とうとする。
呼吸は荒く、
魂が擦り切れている。
(時間がねぇ……
けど──)
蓮は歯を食いしばる。
逃げ道はない。
進むしかない。
「行くぞ、レグルス!」
右腕の紋章が蒼光を放つ。
黒い狼が距離を詰めた瞬間、蓮は踏み込み、
蒼い火花を散らしながら斬り結ぶ。
斬撃は重く、鋭い。
だが狼は霧のように吹き散り、
別の場所で形を取り戻す。
(物理は通りにくい……
魂への干渉が必要だ)
『れん……わたし……
できること……ある……』
「でも──!」
『わたしなら、大丈夫……
れんがいる……から』
エレナは胸に手を当て、息を整える。
薄い光が彼女の手から漏れた。
それは弱々しいが、
確かな“生命”の色だった。
『──魂よ
ゆりかえれ──』
祈り。
光がエレナから溢れ、狼へ触れた。
狼の動きが止まる。
光に触れた部分が白く染まり、
爪が震えた。
『まま……まま……どこ……?』
幼い声。
エレナの表情が歪む。
『帰りたい……
寒い……こわい……』
狼はその場で身を縮め、
黒い霧が剥がれていく。
だが──
その裏で、
新たな影が生まれた。
巨大な黒い腕。
狼を引き千切るように掴み、
奥の闇へと引きずり込む。
『いや──っ!!』
エレナが叫び、
光を強めようとする。
だが──
その光は阻まれた。
黒い腕は狼を飲み込み、
闇へ戻っていく。
光は消え、
二人の前には静寂だけが残った。
「……何だ、今のは」
蓮の囁きに、
闇の奥から、声が応えた。
「──不要な慈悲だ」
現れたのは
背の高い影。
黒い鎧をまとい、
片目に赤い炎を宿す男。
「冥府の門を護る者。
《黒き門番(ガルズ)》」
門番──
この階の試練。
黒き鎧の男はゆっくり歩み寄りながら、
エレナを見つめた。
「魂返し。
貴様の行いは、無用の情けに過ぎぬ」
『……助けたかった……
苦しんでたから……』
「愚か。
魂とは巡るもの。
回廊の先へ進むための“力”だ」
ガルズは蓮に視線を移す。
「契約者よ。
貴様の強さは認めよう。
だが──
背負う者を間違えば、道を誤る」
「何だと?」
「その少女は、いずれ死ぬ。
魂返しは、代償を払う。
その代償とは、“己の魂”」
蓮は怒りを露わにする。
「それがどうした。
俺は──俺たちは、生きたいように生きる」
「ならば──力で示せ」
ガルズが一歩踏み込み──
地が砕けた。
巨大な黒槍が霧から生まれる。
次の瞬間には、蓮の喉元へ突き出されていた。
反応できない──!
だが、身体が先に動いた。
レグルスの声が魂へ響く。
『──殺させん!』
蒼光が爆発し、
蓮の身体が槍を弾いた。
衝撃で後方へ吹き飛ぶが、
直撃は免れる。
「……っぐ!」
蓮は血を吐きながら剣を構え直す。
(速い……
見えねえ……
けど──)
「やるしかねえだろ!」
『そうだ、主よ!
我が力、解き放て!』
蒼い紋章が燃える。
蓮の身体が蒼光に包まれ、
筋肉が軋み、
魂が震える。
視界が開けた──
ガルズの動きが見える。
「行くぞ!!」
蓮が突撃。
刃が黒い鎧を斬り裂く。
だが──
火花が散り、
傷は浅い。
「悪くない」
ガルズの槍が振り下ろされる。
蓮は受け止め、
靴底を削りながら踏み込み、
槍の柄で距離を詰める。
近い──!
蓮が剣を突き立てる。
黒い血が弾け飛ぶ。
だがガルズは痛みもなく、
蓮の腕を掴み、
壁へ叩きつけた。
「ぐっ……!!」
視界が揺れる。
肋骨が悲鳴を上げる。
ガルズがゆっくり歩み寄る。
「貴様は強い。
だが……
守る者が“弱い”」
黒槍がエレナへ向けられる。
『──っ!!』
エレナの身体が硬直。
動けない。
「やめろ!!」
蓮が叫ぶが、
身体がいうことを聞かない。
(動け……動けよ……!
俺は守るって……
誓っただろ!!)
蒼光が脈打つ。
『契約者よ。
魂を燃やせ。
望むなら──力を与えよう』
レグルスの声が魂へ響く。
「全部くれてやる……!
俺の魂だって、使え!!」
蓮の叫びに呼応し、
蒼光が爆ぜた。
脳が焼ける。
血が蒸発するような熱。
それでも蓮は前へ進む。
黒槍の前に立つ。
『れん──!!』
蓮は身体を盾にし、
槍を受けた。
黒い刃が肉を裂き、
骨を貫く。
だが、止めた。
ガルズの目が僅かに見開かれる。
「……なぜだ」
「決まってんだろ……
守るって、俺が決めた……!」
血を吐きながら、
蓮はガルズの腕を掴む。
全身が蒼光に包まれ、
傷口から光が逆流する。
蒼炎がガルズへ燃え移った。
「な──!」
ガルズの黒鎧が焼け、
赤い光が弾け飛ぶ。
蓮は叫ぶ。
魂が震える。
「お前が何だろうと関係ねえ!
この手は──
必ず守るために使う!!」
蒼炎が爆発。
ガルズの身体が吹き飛び、
黒い霧へ散った。
深淵が静かになる。
霧が晴れ、
黒い門が姿を現した。
門の前に膝をつく蓮。
エレナが駆け寄る。
『れん……っ!
血……たくさん……!!』
「はは……大丈夫だって……
お前が無事なら……それでいい……」
エレナは泣きながら蓮を抱きしめた。
その涙が蒼光へ溶け、
蓮の傷口を癒していく。
温かい。
光が包む。
『わたしも……守る……
れんが守ってくれたから……
今度はわたしの番……!』
その言葉に、
蓮は微笑んだ。
「一緒に行こう……
どこまでも」
エレナは強く頷く。
黒い門が、
静かに開いた。
その先──
魂喰らいの“王”が待つ。
蓮とエレナは歩き出す。
その手は固く結ばれ、
決して離れることはなかった。
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