第17話 魂返し──少女の秘めた力

砕け散った檻の光が霧散していく。

 目を細めた蓮は、腕の中で震える少女──エレナをそっと抱きしめた。

 その身体は、まるで氷の中に閉じ込められていたように冷たく、薄く、壊れそうだった。


「もう……大丈夫だ」


 蓮が囁くと、エレナはかすかに頷く。

 けれど瞳の奥にはまだ影が揺れていた。

 過去が癒えたわけじゃない。

 ただ向き合えるようになっただけ──

 その痛みは、確かに今も息づいている。


 保管者は静かに二人を見つめていた。

 その瞳は氷のように冷たく、しかし、どこか哀しげでもある。


「……彼女は一歩踏み出した。

 だが、魂の回廊はまだ始まりにすぎない」


「次があるってことか?」


「当然だ。

 魂を“返す”力を持つ者など──

 この世にそう多くはない」


 保管者の言葉に、エレナが顔を上げる。

 その頬には涙の跡が残り、震える唇から言葉が零れた。


『魂を……返す……?

 わたしが……?』


「ああ。

 魂喰らいは魂を奪い、刃に、力に変える。

 しかしお前は逆だ。

 失われた魂を繋ぎ、その力を“本来あるべき場所”へ戻す……

 《魂返し(ソウル・リバース)》の力」


 保管者はゆっくりと近づく。

 エレナは一瞬後ずさり、蓮の服を掴んだ。


「安心しろ。

 私は奪わない。

 ただ、その力が必要になる──

 この先の戦いには」


「戦い……?」


 蓮が眉をひそめると、保管者は首を垂れた。


「魂喰らいは三柱。

 “銀仮面”──“保管者”──そして最後が“王”。

 その王は、魂を喰らうことで冥府の門を開き、この世界を死で染め上げようとしている」


「……なんでそんなことを」


「魂の終焉こそが、真なる救いだと信じている。

 苦しみも、悲しみも、憎しみも──

 魂を喰らい合うことで終わると」


 蓮は拳を握り締めた。


「ふざけるな……!

 そんなもの許せるわけがねえ!」


「ならば進め。

 この階の奥に、次の門がある。

 そこには彼女が“返すべき魂”が眠っている」


『……返すべき……魂……』


 エレナは胸に手を当てた。

 その指先が、微かな光を帯びる。

 まるで彼女の内から、誰かが呼ぶように。


 蓮はエレナの肩に手を置き、ゆっくりと頷いた。


「行こう。

 俺たちなら、できる」


 エレナは小さく息を吸い、蓮の手を握る。


『……うん……』


 二人は歩き出した。

 深淵の闇はさらに濃く、足元はときおり光の粒が漂っている。

 それはまるで──さまよい続ける魂が道標のように揺らめいているかのようだった。


 進むほどに、氷のような冷気が肌を裂く。

 視界は徐々に霞み、耳鳴りが強くなる。

 蓮は歯を食いしばって前を向いた。


「ここ……何だか……苦しい……」


 エレナが胸元を押さえ、呼吸を乱す。

 蓮は咄嗟に抱き寄せた。


「無理すんな。

 少し休──」


 その瞬間だ。


 空気が裂け、黒い影が現れた。

 形は曖昧で、赤い眼だけがギラリと光る。

 人の形にも、獣の形にも見えるそれは──

 意志を持った“魂喰らいの残滓”。


「来やがったなッ!」


 蓮が構えると同時に、影が襲いかかる。

 その速度は人の目で追えぬほど速く、重い気配を巻き起こす。


 ギィンッ!!


 蓮は刃を迎え撃つ。

 衝撃が腕を痺れさせた。

 影は呻くように蠢き、何度も叩きつけてくる。


『れんっ……!』


「大丈夫だッ!」


 蓮は踏み込み、影を切り裂く。

 だが──

 黒い霧が裂け目から溢れ出し、再び形を成した。


「しつこい奴だな……!」


『あれ……魂……が……』


 エレナが震えながら囁く。

 彼女の瞳には、憂いが映っていた。


『痛い……苦しい……って……聞こえる……』


「……声が聞こえるのか?」


『うん……

 あの影……

 本当は……助けを求めてる……』


 蓮は影と対峙したまま、息を呑んだ。

 怒りでも、憎しみでもない。

 悲鳴──

 そんな声が確かに、この闇の奥から伝わってくる。


「じゃあ……」


 振り返った蓮の目は、迷いを捨てていた。


「エレナ。

 お前の力を──使えるか」


 エレナは震える手を胸に当て、深く息を吸う。

 その身体から淡い光が零れた。


『……魂よ……

 還るべき場所へ……』


 静かな祈り。

 温かな風が闇を揺らし、黒い影へと触れた。


 ジジジ──ッ!


 影が苦しげに身をよじり、赤い眼が揺らぐ。

 その眼には怒りではなく、痛みと哀しみが映っていた。


 エレナは歩を進める。

 蓮はすぐそばで寄り添った。

 影は牙のような腕を振り上げたが──

 その動きは、迷いに満ちていた。


『もう……大丈夫……

 帰ろう……』


 エレナが手を伸ばす。


 影はその手に触れ──

 崩れ落ちた。


 まるで霜が溶けるように形を失い、

 白い光に変わる。

 その光は揺れ、空へ昇り──

 消えた。


 静寂。

 エレナはその場に崩れ落ち、胸を押さえた。


「大丈夫か!?」


『……うん……

 少し、疲れた……だけ……』


 蓮はエレナの身体を抱き起こし、片膝をつく。


 ──そのとき。


 背後で、ゆっくりと拍手が鳴った。


「素晴らしい。

 まさかここまでとはね」


 振り返ると──

 銀仮面が立っていた。


「貴様ッ!」


 蓮が立ち上がる瞬間、銀仮面は指先を上げる。


「無駄だよ。

 今の君では、まだ戦えない」


 銀仮面はエレナを真っ直ぐに見つめた。


「少女よ。

 その力は“魂返し”。

 だが、使えば使うほど──

 あなた自身の魂が削れていく。

 その代償、理解できているか?」


 エレナは唇を噛んだ。

 蓮は彼女を守るように前へ立つ。


「代償だろうが関係ねえ。

 俺が──守る」


 銀仮面はくつくつと笑う。


「その言葉、いつまで持つかな」


 次の瞬間──

 銀仮面の足元が黒い霧に包まれ、姿が消えた。


 深淵には再び静寂が戻る。


 蓮は拳を握りしめ、エレナを抱き寄せる。


「代償なんざ、俺が全部背負ってやる。

 だから……

 無理だけはすんな」


 エレナは蓮の胸元を握り、震えながら頷いた。


『わたし……れんと一緒に……

 強くなる……』


 蓮は微笑み、彼女の手を取った。


「行こう。

 まだ終わってない」


 二人は深淵の先へ進む。

 その道の向こうには、

 さらに強大な闇が待ち構えている──


 だが、

 エレナの魂はもう檻に閉じ込められてはいない。


 光は小さくとも、

 確かにそこに灯っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る