第15話 狂気の揺り籠

「逃げないわ。こんな場所、すぐに壊さなければならない。それに、こんな恐ろしいものも世に出すわけにはいかないじゃない」


​ ギンの放った言葉は、冷たく湿った地下ホールに鋭く、重く響き渡った。


​ゴウは一瞬、お嬢の背中に先代——四代目の苛烈なまでの威圧感を幻視した。だが、今のギンが纏っているのは支配のための恐怖ではない。拳を固く握りしめ、仮面の下で唇を噛み締める彼女の指先は、数多の命を蹂躙した道化師たちへの激しい怒りで微かに震えていた。


​「……御意。お嬢⋯⋯いや、お頭がそう仰るなら、俺はこの命、ここに捨て置く覚悟です」


​ゴウが重厚な大剣を鞘から引き抜いて、そう告げたその時だった。


​「ヒャハハハ! 素晴らしい! 実に見事な正義感だ! 五代目、君のその清廉潔白な魂、我が芸術の隠し味にぜひとも欲しいところだよ!」


​狂った笑い声が、天井の岩盤に反響して降り注ぐ。


ホールの奥、一段高くなった監視台に、あのストライプ衣装の道化師が姿を現した。彼は両手を広げ、足元の惨状を愛でるように見せつける。


​「道化師……! ユリアさんを、どうするつもり!」


​ギンの叫びに、道化師は芝居がかった動作で首を傾げた。


​「どうする?  聡明な君のことだ、そんなこと聞かずとも彼女がどうなるかなんてわかっているだろう?  彼女は『エデン』の過剰投与に耐え抜いた、希有な適合体なんだ。精神が崩壊する瞬間に訪れる『魂の空白』。そこに、太古の魔獣の因子を流し込む……。人間でも獣人でもない、痛みも疲れも知らぬ永遠の戦闘兵器。それが彼女の新しい名前だよ」


​道化師が指を鳴らす。


カプセル内の液体がボコボコと泡立ち、ユリアの真っ赤になった瞳がカッと見開かれた。そこには理性も、ましてや弟を想う優しさなどない。ただ、濁った狂光が宿っていた。


​「目覚めの時間だよ、実験体1573号!」


​耳を劈く破砕音と共に、強化ガラスが内側から弾け飛んだ。


溢れ出した液体が床を濡らし、中から現れた「それ」は、もはや美しい娘ではなかった。背中を突き破る不気味な骨の突起。異様に引き伸ばされた四肢。指先には岩をも切り裂く鉤爪。


​「グガァァァァァァッ!!」


​ 咆哮と共に、かつてユリアという名でクルトの優しい姉であった怪物が、弾丸のような速度でギンへと襲いかかった。


​「お嬢!!」


​ゴウが踏み出すより早く、怪物の爪が横薙ぎに迫る。


ギンは一歩後退し、上体を反らせて紙一重で躱した。爪が空を切り、床の石畳がまるでバターのように深く抉られる。飛び散った石の破片がギンの頬を掠め、風圧が髪をなびかせた。


​(速い! だけど⋯⋯)


​ギンは、怪物の動きの端々に、過剰な負荷で悲鳴を上げる筋肉の震えを見て取れた。エデンは使用者の疲れや痛みを誤魔化す薬であって決してダメージを受け付けなくする薬ではない。


彼女の肉体は今、数年分もの疲労や痛みといったダメージが蓄積されている状態だ。


​「ユリアさん、しっかりして!」


​ギンは細身の剣を構え直し、ユリアから繰り出された当たれば確実に即死するレベルの拳に対し、正面から鋭く踏み込み、『刃渡り』という、本来、相手の刀の「刃」に自分の「刃」を触れさせたまま、滑らせるように移動して相手の懐に入る技を応用し、巨体となったユリアの死角(懐)へと滑り込み、剣を振るう。


斬るのではない。重い剣腹で、太腿の特定の神経節を正確に叩いた。


​「ガァッ!?」


​ギンの強烈な一撃にバランスを崩すユリア。


そこへギンは、腰のポーチからずっしりと重い袋を取り出し、迷わず中身をぶちまけた。


​「小麦粉!? 」


​道化師が声を上げる。


室内を白く染めたのは、単なる粉ではない。


強力な鎮静成分を含んだ香草と、ギンがよく利用する道具屋の魔女特製麻痺毒を、粒子の細かい小麦粉に均一に混ぜ込んだものだった。


​「本当はこんなことに使いたくなかったんだけど⋯⋯」


​ギンは粉塵の中を、まるでダンスでも踊るかのように舞う。

彼女が袖を振るたびに、麻痺毒入りの粉がユリアの周囲に美しく、残酷に滞留する。暴れる怪物が激しく呼吸するたび、微細な粉末は肺の奥深くまで吸い込まれていった。


​ギンの特製粉末の麻痺毒によって、動きは目に見えて鈍くなり、怪物となったユリアの顔には苦悶の色が混じった。


​一方、ゴウは大剣を振るい、迫りくるイカレた道化師が生み出した他の実験体たちを圧倒していた。


「おらぁぁ! お頭の邪魔をすんじゃねえ!」


ゴウの剣は、魔物たちの急所を外しつつも、身動きとれない戦闘不能状態にしていく。それは主人の「殺さない」という意志を汲み取った、極限の手加減だった。


「クッ……計算外だ。これほどまでの技量、ただの盗賊団の娘であるはずがない……!」


​ 道化師の顔から余裕が消え、血管が浮き出た手で黒い小瓶を取り出した。エデンの濃縮液。


  それを自ら服用しようとした時——。


​「逃がさないって言ったでしょ」


​背後から、氷のような声。


いつの間にか、白い粉塵を纏ったギンが監視台で、文字通り『高みの見物』をしていた道化師の真後ろに立っていた。


気配を消し、粉に紛れて移動する——それは、まどろみベーカリーにコハクとして出勤する早朝、盗賊団の誰にも気づかれずに店へと向かい、更には、まだ眠っている町の人たちの迷惑にならないようにとの思いで習得した「近所迷惑防止歩行(コハク命名)」の完成形だった。


​「な、いつの間に……!」

「終わりよ、道化師。あなたのイカレた『芸術』とやらも、エデンの商いととも閉店」


​ギンが繰り出す何発もの高速の拳が、道化師に打ち込まれると、道化師が持っていた小瓶が床に落ち、粉々に砕けた。


続けざま、彼女はトドメとばかりに、道化師の腹部に渾身の掌打を叩き込んだ。ドォッという鈍い衝撃。道化師は床に這いつくばった。


​「あぐっ……が、は……っ!」


​道化師の目から、初めて本物の恐怖が滲み出た。それは、「所詮は盗賊」と見下していた者の技量に自慢の実験体は圧倒され、誇っていた狂気がただの妄執へと成り果てた瞬間だった。

​ギンは冷徹に、麻痺毒が混ぜ込まれた小麦粉を道化師に浴びせた。


「これでもう、指一本動かせないわ。……さあ、装置の止め方を吐きなさい」

​「ヒ……ヒヒ。止め方だと? いいのか? この装置が止まればエデンの薬液は一気に研究所の外に排出され、ルーメンの町まで毒の雲に包まれるぞ……!」


​道化師は絶望の中にいながらも、不敵に笑い気を失った。


だが、道化師と対峙した瞬間から「コイツはまだ何か仕掛けてくる」と警戒していたギンの瞳は、彼の一挙手一投足を見逃すまいと、鋭く細められていた。


これは、影の牙の歴代頭領たちの誰もが持ち得なかったギンだけの特技『観察眼』だ。


道化師は気を失う寸前、ギンの問いに対し視線が微かに泳ぎ、一瞬、装置中央の青い魔石に目をやるとすぐに視線を逸らしたのを、彼女は見逃さなかった。


​「……ゴウ! 中央の石、青い魔石よ!」

「承知!」


​ゴウが渾身の力で大剣を振り下ろす。鋼と魔石が激突し、火花が視界を白く染めた。

バリィィィィン!!


魔石が砕け散り、装置の光が明滅し、やがて消えていく。供給源を絶たれた魔物たちが、深い眠りへと落ちていった。


​ギンは急いでユリアの元へ駆け寄


ユリアは床に横たわり、浅い呼吸を繰り返している。ギンがユリアを抱き起こすと、ユリアの体温はとても人間のものとは思えない熱さだった。


道化師の作った薬の供給が切れると、変異していた肉体は、潮が引くように元の姿へ戻っていく。


​「……あな、たが……あの子を……」


​ユリアがゆっくりと目を開けた。そこには、先ほどの狂光はない。


「ありがとう……」


彼女は震える手で、首のペンダントを握りしめ、そのまま深い休息の眠りへと落ちた。


 ルーメンの町外れ、朝日が完全に昇りきった街道沿い。

ギンは宿に預けていたクルトを連れ出し、馬車の影で待っていた。


​「姉さん!!」


​駆け寄るクルト。ギンは、彼に姉の銀のペンダントを預けた。


「大丈夫よ。ユリアさんは、ただすごく疲れているだけ。しばらく休めば、またあなたの知っている優しいお姉さんに戻るわ」

​「…… また、会える!?」


​馬車に乗り込むギンの背中に、クルトの声が飛ぶ。

ギンは振り返り、最高の笑顔を見せた。それは「影の牙五代目」でもなく「冒険者コハク」でもない、ただの少女の顔だった。


​「ええ、いつかパックスヴェイルに来るといいわ。世界で一番美味しいパンを食べさせてあげるから!」


​馬車が走り出す。クルトは馬車が見えなくなるまで手を振り、ギンもそんなクルトに応じるように手を振った。


クルトの姿が見えなくなり、荷台に座り込んだギンは、大きく伸びをする。全身の筋肉が悲鳴を上げている。さすがに疲れた。


「……ゴウ、帰ったら何が食べたい?」

​「そうっすね……お嬢の焼いた、あの玉ねぎたっぷりのフォカッチャがいいっすね。目に染みるやつ」

「ふふ、それなら帰ったらすぐに窯に火を入れなきゃ……でも、その前にまずはお風呂ね」


​そう言うとギンは荷台の隅で、泥のように深い眠りに落ちた。


その手には戦いによる微かな鉄の匂いが残っている。だが、彼女の夢の中では血の雨も毒薬も流れてはいない。


あるのは、パックスヴェイルの穏やかな朝の光と、まどろみベーカリーの香ばしい焼きたてパンの香りだけ。


​馬車はガタゴトと音を立てて、愛すべき荒くれ者たちが待つアジトへと向かう。


だがこの時、ユリアの異変に気づく者は誰もいなかった。

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