第14話 道化師のアジト

ルーメンの南に広がる鬱蒼とした森は、朝の光をさえぎり、ギンたちを深い闇の中に飲み込むかのように感じられた。木々の根元には、湿気と腐葉土の匂いに混じって、腐敗したような臭いが漂っている。


​ギンとゴウは、新人冒険者の旅装のまま、身を低くして森の奥深くへと進んでいた。二人の動きは、周囲の音を一切立てない。完全に気配を消していた。


​「この匂い…間違いないっすね。あのガキの言った通りだ」


​ゴウが低い声でギンに耳打ちした。さすがのゴウも、上手く隠した顔の傷跡のように緊張感は隠せないようだ。


​「ええ。酷い匂い。パンの香りが恋しくなるわ」


​ギンは仮面の下で顔をしかめた。彼女の腰には、麻痺毒を塗った細身の剣が、まるで体の一部のように収まっている。


​二人は、岩山に掘られた道化師のアジトと思われる入り口を発見した。入り口は蔦に覆われており、知識のない者から見ればただの岩の裂け目にしか見えない。


​中に入ると、肌を刺すような冷たい空気が漂っていた。


天然の岩盤をくり抜いた通路には、両側に一定の間隔で設置されたオイルランプの燃える臭いがしている。


​「ゴウ、気を抜かないで。道化師はどこに隠れているかわからないわ」

​「わかってますよ、お嬢。だけど妙だな」


​通路を進むうちに、ゴウは違和感を覚えた。


​「人の気配が、ほとんどない。護衛を無力化した時に、衛兵に追われたわけじゃないだろうに…」


​ギンも頷いた。


かつて四代目から受けた修業で、彼女はかすかな物音や敵の息づかいも聞き逃さないように鍛えられていた。


これは盗賊にとって必要な、基本中の基本であるスキル『気配察知』の第一段階である。


四代目からギンは「回避と防御、そして気配察知と気配隠蔽に関してはお前の右に出る者はいない」とお墨付きをもらったほどなのだ。


​「ええ。まるで、もぬけの殻ね」


​しばらく通路を進むと、そこは岩盤をくり抜いて作られた広い部屋になっていた。まさに道化師たちが使っていたであろうアジトの中心部だ。しかし、部屋は散らかっているものの、人の姿はない。


​ゴウは、腰に手を当てて周囲を見渡した。


テーブルの上には、食べかけの食事と、化学実験に使われるようなガラス器具が雑然と置かれている。


​「本当に誰もいねえ。こりゃあ、お嬢と対峙してビビッて夜逃げでもしたか…」

​「いいえ、違うわ」


​ギンは静かに言った。


​「慌てて逃げだしたのとは違う。何も隠蔽しようとしていないのよ。もし逃げたのであれば、彼らならエデンや自分たちに繋がる証拠隠滅のためにアジトごと爆破するくらいやるでしょうしね」


​ギンは、彼らのバックに大きな組織があるのではないかと考えていた。あの道化師が一人でやっているとはとても思えない。


エデンがこれだけ世に出回っていることを考慮すると、バックにいるのは貴族か巨大な犯罪組織といったところだろうか。


テーブルに置かれたカビ一つないパンを見つめ、彼女の鋭い観察眼が逃走の状況を分析する。


​「とにかく、ここに道化師たちがエデンを製造した痕跡があるはずよ。手がかりを探しましょう」


​二人は分かれて部屋の物色を始めた。


​ゴウは、部屋の隅にある武器庫や物資のチェックをする。しかし、高級な武器や金目のものはほとんど見当たらない。


​ギンは、実験器具やたくさんの本が並べられた本棚、そして床に散乱した紙類の中から、エデンに関する手がかりを探した。


​「あったわ、ゴウ!」


​ギンが声を上げた。


彼女が立っていたのは、部屋の奥にある、粗末な木造りの本棚の前だ。一見すると、普通の書物や地図が並んでいるように見える。しかし、その本棚が置かれていた岩壁に、不自然な継ぎ目を見つけたのだ。


​ギンは本棚を横に押し退けると、巧妙に隠された扉が現れた。扉は分厚い金属製で、押しても引いても叩いても開かない。


​扉の中央には、古びたダイヤル式の錠と、その下に小さな文字が刻まれている。



『実験モルモットの数』


その文字を見た瞬間、ギンは背筋に冷たいものを感じた。


​「これは…隠し扉ね。しかも、鍵は暗証番号式。この扉の先には、道化師たちの最も隠したい秘密があるはずよ」


​「実験モルモットの数だと?暗証番号は、実験に使われた動物の合計数ってことか」


​ゴウは顔をしかめた。『実験モルモット』、その文字を見た瞬間、非道な行為が浮かぶ。


​「モルモット…ただの動物実験じゃないわね。エデンの効果や、副作用でも確かめるために、様々な動物を使ったのかしら?」


​ギンはすぐに本棚に戻り、目を凝らして本や書類を調べ始めた。


​「ゴウ、こっちを手伝って!何でもいい、動物や実験に関する記録を探すのよ!」


​二人は本棚に並んだ大量の本を手分けして調べ始めた。本の内容を全て理解することはできなかったが、どうやら彼らはエデンの他にも生物兵器を作り出そうとしていたようだ。


   ───数分後。


ゴウが分厚い革表紙の帳簿を見つけ、ギンに差し出した。


​「お嬢、これだ。なんだか気味が悪いものが出てきた。見てくれ」


​帳簿のタイトルは、煤と油でほとんど汚れていたが、


「 経過報告 【アイギス・ プロジェクト】 」


とだけ読み取れた。


​ギンは手を震わせながら帳簿を開いた。その内容は、実験計画や倫理観とは無縁の、ただの「命の記録」だった。ページをめくるごとに、得体の知れない動物のイラストや、意味不明な符号が並んでいる。


​そして、最後のページに到達したとき、ギンは息を呑んだ。そこには、インクで丁寧に記された、わずか三行の記述があった。


『投入モルモット総数』

オス:2745

メス:1573


その下に、何やら液体の飛沫で汚された小さな注釈がある。


​『最終観察: 薬の投与後、オスは狂暴化し、メスは急速な疲弊と自壊傾向を示した』


​ギンは嫌な予感がした。


何の動物がこれほど大量に、この薬の犠牲になったのか。そして、「自壊」とは一体何を意味するのか。彼女の心は、バルカス一派の悲惨な末路と、クルトの姉ユリアの狂気を重ね合わせた。


​「…ひどい。こんな、こんなことを…」


​ゴウは、震えるギンの背中をさすりながら、静かに言った。


​「お嬢、これがエデンの正体ですよ。この薬は、ただの金儲けじゃねえ。何かのイカレた研究の一部だったんだ」


​ギンは顔を上げた。その目は、吐き気と怒り、そして悲しみが混ざり合っていたが、そこに一点の迷いもなかった。


​「とにかく、この数字よ。合計すれば、暗証番号がわかるはずだわ」


​彼女はすぐに計算に取り掛かった。


2745+1573=4318


「4318。この数字が、この扉を開くための鍵だわ」


​ギンは金属製の扉のダイヤル錠に手をかけた。


彼女は、丁寧に、そして慎重に、「4」「3」「1」「8」と数字を合わせていく。


​カチリ、カチリ、カチリ、カチリ……。


​最後の「8」にダイヤルが合った瞬間、古びたガチャンという音とともに、金属が軋む音が鳴り響き、扉はあっけなく開いた。


​「開いた!」


​扉の先には、冷たい地下へと続く石造りの階段が伸びている。地下からは、空気に乗って薬品の臭いと、微かに水が滴る音、そして何かの駆動音のようなものが聞こえてくる。


​「ゴウ、いくわよ。ここが、道化師の隠したい核心のはずだわ」

​「御意。俺が先行します」


​ゴウは、ギンの前に立ち、細心の注意を払いながら階段を降り始めた。


​階段は長く、降りるにつれて冷たさと湿気が増していく。二人の足音は湿った岩盤のせいか、ほとんど響かない。


​地下の最下層に到達すると、冷たい岩盤の広大なホールが現れた。そして、その光景は、ギンの想像を遥かに超えるものだった。


​ホールの中心には、複雑に組み合わされたガラス製のパイプと金属製の巨大な装置が並び、不気味な青白い光を放っている。まるで錬金術師の工房と、魔術師の実験室が合体したような異様な光景だ。


​そして、その装置の周りには、見たこともない液体で満たされた巨大なカプセルが数十個並んでいる。


​カプセルの中には、異形な姿をした見たこともない魔物が保存されているようだ。


​一つ目のカプセルには、通常の犬よりも遥かに大きく、皮膚が剥がれ落ちたような、異様に筋肉質な犬が、体を丸めて浮かんでいた。その表情は苦痛に歪んでいる。


​二つ目のカプセルには、毒々しい紫色の液体の中で、人間の形を保ちながらも、皮膚が溶け、内側から骨が飛び出しかけたような、悍ましい人型の魔物が、静かに沈んでいる。


​ゴウは想像を絶する光景に言葉を失った。拳を握りしめ、吐き気を抑えるように喉を鳴らす。


​「道化師は、ただ薬を売っていたんじゃない。彼は、人と、獣や動物を組み合わせて、何か別のものを生み出そうとしていたんだわ…」


​ギンは、一歩も動けなかった。手が震え、剣を持つ指先が冷たくなるのを感じた。


血が流れているわけではない。だが、命を踏みにじるこの行為は、彼女がこれまで見てきたどんな暴力よりも汚らわしく、許せないものだった。


目の前にあるのは、血を流すという行為よりも、遥かに陰湿で狂気じみている。


​カプセルの一つに、見覚えのあるものが保存されているのを見て、ギンの心臓は凍りついた。


​そのカプセルには、獣人族の女性が液体に浸けられ保存されていた。肌は青白く、まるで死んでいるように見えるが、微かに胸が上下している。そして、その首元には、クルトが持っていたものと同じ、小さな銀のペンダントが揺れていた。


​「あれは…クルトの姉、ユリアよ!」


​ユリアの体は、ところどころに鱗のような硬い皮膚が浮かび上がり、指先は鋭い鉤爪へと変わりかけている。彼女の体は、薬の投与によって人間でも獣でもない、何かの不確かな存在へと変異している途中だったのだ。


​「お嬢、これは…まずい。すぐに逃げましょう」


​ゴウは、本能的に危険を察知し、ギンを連れ出そうとした。しかし、ギンは動かない。

彼女の目の奥では、揺るぎない決意の炎が燃え上がっていた。


​「逃げないわ。こんな場所、すぐに壊さなければならない。こんな恐ろしいものを、世に出してはいけない!」


​ギンは剣を握りしめた。 ───目の前の闇は、ここで完全に断つ。 決意を固め、彼女は前を向き、仮面の下で静かに息を吐いた。

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