第13話 穏やかな朝
───ルーメンの安宿、二階の狭い部屋。
朝の陽光が、古びた木の窓枠から細く差し込み、埃の舞う空気を金色に染めていた。 ベッドに横たわるクルトの腹が、グゥゥゥ……と大きな音を立てた。
少年はゆっくりと目を開けた。獣人族の犬耳がピクピクと動き、短い尾がブランケットの下で小さく揺れる。昨夜ギンが塗った魔女特製の回復薬のおかげで、傷の痛みはほとんど残っていない。
だが、代わりに猛烈な空腹が襲ってきた。 クルトは体を起こそうとして──自分の姿に気づき、凍りついた。上半身は完全に裸。下半身も、パンツ一枚だけ。
「あっ、気がついたね! おはよう」
「姉さん!?」
「だから違うってば⋯⋯」
部屋の隅の椅子に座って本を読んでいたギンが、穏やかな笑顔で声をかけた。彼女は昨夜のうちに宿に頼んで朝食を用意させ、テーブルに並べ終えたところだった。
焼きたてのパン、チーズ、燻製ハム、温かいスープ──匂いだけでクルトの腹が再び鳴り響く。
だが、クルトの顔はみるみるうちに真っ赤になっていく。
「へ、変態だ! お前は変態女だ!!」
少年は慌ててブランケットを引き上げ、体を隠しながら叫んだ。耳は倒れ、尾はビクビクと震えている。復讐のためにルーメンの町に来たはずなのに、気がついたら見知らぬ部屋で知らない女性に裸にされた(と思い込んでいる)衝撃は、純真な獣人族の少年には計り知れないものだった。
ギンは目を丸くした。
(え? 変態?)
影の牙のアジトでは、男ばかりの荒くれ者たちが風呂あがりや訓練後に半裸でウロウロしているのが日常だ。ギンにとって、男の子の裸なんて見ても何とも思わない。
そんなものより血を見る方がよっぽど苦手だ。
だが、顔を真っ赤にしてブランケットを握りしめ、耳を伏せて抗議するクルトの姿が──なんだかとても可愛かった。
(……もし、私に弟がいたら、こんな感じなのかな)
ギンは、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。まどろみベーカリーで見習いとして働いている時や、一人パン屋の夢を思い描いている時と同じ、ふわっとした温かい感覚だ。
「違うわよ! ちゃんと傷の手当てしただけで、変なことなんてしてないんだから! ほら、服はあそこに干してあるし」
ギンは少し頰を膨らませて言い返したが、クルトはまだ信じられないという顔でブランケットを頭まで被った。
「と、とにかく……朝ごはん食べましょう。空腹で頭回らないと何もできないわよ。腹が減っては何とやらよ」
ギンは朝食が用意されたテーブルを指さし、クルトの警戒心を解こうと優しく微笑んだ。
クルトは最初、ギンを警戒した目で見ていた。だが、焼きたてのパンやスープの香ばしい匂いがクルトの空腹を刺激すると、朝食から顔を背け意地を張るが、尻尾はブンブンと勢いよく振られていた。
もう一押しと感じたギンが、「せっかく用意してもらったんだから食べないと宿の人に悪いよ」と優しい口調でクルトに言うと、ついにクルトはブランケットから出てきた。
服を着替え(クルトに「見るなよ」と言われたので、ギンはクルトが着替えてる最中、ちゃんと顔を背けてあげた)、テーブルに向かう。
「……いただきます」
小声で呟き、パンを一口サイズに千切って口に入れると、クルトは決壊したダムのように夢中で食べ始めた。
相当腹が減っていたのだろう。
パンをかじり、スープをすすり、ハムを頰張る姿は、まるで子犬のようだ。 ギンは向かいに座って、自分のチーズパンをゆっくりかじりながら、クルトを観察した。
(可愛いなぁ……。でも、こんな子が復讐なんて⋯⋯)
朝食を終える頃、部屋のドアがノックされた。
「コハクさん。お連れ様がお見えです」
宿の下働きの声に、ギンはピクリと眉を上げた。
(まさか……)
ドアを開けると、そこに立っていたのは──顔の傷跡を隠し、旅装に身を包んだ大柄の男。ゴウだ。
「お嬢、無事で何よりです」
ゴウは部屋に入るなり、ギンを見てホッと息を吐いた。だが、すぐにクルトの存在に気づくと目を細めた。
ゴウは町に入るなり、冒険者ギルドへ『コハク』の捜索依頼を出したようだ。すると、ギルドの職員から『新人冒険者コハク』の話を聞き、ギルドと提携しているこの宿に来たらしい。
または、ギンが登録時に宿を指定した設定を活かして「ギルド紹介の宿だから、すぐにわかったんだろう」
「そのガキは?」
「クルト。昨夜、いろいろあって助けた子よ。姉さんがエデンで壊されたって……」
ギンが説明を始めると、ゴウは黙って聞き、時折クルトを鋭い目で見つめた。クルトはゴウの威圧感にビクビクしながらも、負けじと睨み返している。
「で、お嬢。一人でこんな危ねえとこまで来て、何やってんだって話ですよ」
ゴウの声には、呆れと心配が混じっていた。
「エデンの元凶を片付けるつもりよ。影の牙のためにも、パン屋の夢のためにもね」
ギンは『なぜここにいるのがバレたんだろう?』と思いながら、少し頰を膨らませて答えた。
「道化師たちは、いつもルーメンの南にある森からやって来る。きっと、あそこにアジトがあるんだよ」
クルトが大きな声でギンとゴウの会話に割って入る。
ギンとゴウは顔を見合わせた。
「南の森か……。よし、行ってみるか」
ゴウが即座に決断を下す。 それを聞いて、クルトが立ち上がった。
「ボクも行く!」
「ダメ」
今度はギンは即答した。
「危険すぎるわ。あなたはここで待ってて」 「嫌だ! 姉さんの仇だぞ! ボクが……」
「ダメよ!」 「行く!」 「ダメ!」 「行く!!」 ギンとクルトの押し問答が続く。
クルトは耳をピンと立て、尾をブンブンと振り、譲る気はないようだ。ギンは必死に説得するが、少年の目は復讐の炎で燃えていた。
二人を見ていたゴウが、ため息を吐いてクルトの後ろに回る。
ゴスッ。
手刀の一撃。
クルトは「あっ……」と小さく声を漏らして、その場に崩れ落ちた。
「やり過ぎだよ、ゴウ!」
ギンが慌てて怒鳴る。
「いや、お嬢に任せてたら日が暮れちまいますよ」
ゴウは呆れた顔で肩をすくめた。
「ガキは宿に寝かせておけばいい。足手まといだ」 ギンはクルトの寝顔を見て、少し胸が痛んだがすぐに頷いた。
(ごめんね、クルト。でも、あなたに復讐なんて真似はさせないわ。きっとあなたのお姉さんだって復讐なんて望んでないもの)
こうして、ギンとゴウは二人だけでルーメンの南の森へと向かった。
森は深く、朝の霧がまだ残っている。木々の間から、かすかな獣の匂いと、何か甘く腐ったような薬の香りが漂っていた。
道化師のアジトは森の奥深くにあった。ギンは仮面を被り、ゴウと並んで道化師のアジトへと滑り込んだ。
「ゴウ、ありがとう。来てくれて」
「当たり前です。お嬢は無茶が過ぎる」
二人の背中を、朝日が優しく照らしていた。不本意ながら、今日も血腥い一日になりそうだ。
(パン生地の甘い香りが恋しいなあ……)
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