第四章 ―喰われる世界―

朝、目を覚ました勇人は、世界の異変をすぐに悟った。

窓の外――空の色が、おかしい。

青ではなく、灰でもなく、まるで墨を溶かしたような濁った色。

通学路の街灯は明滅を繰り返し、見慣れた景色がどこか歪んでいる。


通りを歩く人々の顔が、時折“ノイズ”のように乱れた。

まるで夢の断片を現実に貼りつけたかのように、境界が曖昧だ。

勇人は息を呑む。

(……夢界が、現実を侵食してる)


昨日、澪が言っていた言葉が頭をよぎる。

――このままじゃ、世界が喰われる。


その予感は、もはや確信だった。


学校に着くと、校舎の中もおかしかった。

誰もいない教室。開けたロッカーの奥が、真っ黒な穴のように見える。

そして、その闇の中から微かな囁き声が聞こえる。


「……はや……と……」


勇人は凍りついた。

その声を知っている。澪の声だった。


次の瞬間、視界が反転する。

床が割れ、黒い霧が溢れ出した。

勇人は落下するように、再び“夢界”へと引きずり込まれた。


暗闇の底。

そこに立つ澪の姿は、かつての彼女ではなかった。

瞳は光を失い、髪は霧と混じり合っている。

その背後には、“喰らうもの”が鎮座していた。


巨大な影。

無数の口と腕を持ち、人の形を模した“悪夢そのもの”。

それが、澪の肩に触れて囁く。

――「おまえは もう わたしの一部だ」


「やめろッ!!」

勇人が叫ぶ。

その声に、澪の瞳がわずかに揺れた。

「……勇人……来ちゃ、ダメ……」

「お前を置いていけるかよ!」

「私は……もう、限界なの。私の“記憶”が、ほとんど喰われた。あなたの名前を覚えていられるのも、もう……」


澪の頬に涙が伝う。

異形の囁き声が響くたびに、世界の地平が崩れていく。

街のビルが歪み、空の裂け目から“夢”が零れ落ちる。

それはまるで――現実の崩壊。


勇人は立ち上がり、拳を握った。

「俺に……できることは、あるのか」

澪は微笑んだ。

「あなたの中に“門”がある。閉じれば、夢界と現実の繋がりは断てる。でも、その代わり――あなたは、“夢”の中に残ることになる」

「つまり……俺が、消えるってことか」

「ええ。けれど、それで世界は助かる」


勇人は静かに笑った。

「バカ言うなよ。そんな終わり方、納得できるわけないだろ」

「勇人……」

「俺は――お前を助けたい。世界とか、そんなのよりも先に」


澪の瞳が震えた。

その一瞬、澪の胸の奥で何かが灯る。

失われかけていた“記憶”が、光の粒となって蘇る。


――幼い日。泣いていた勇人の手を握り、

「大丈夫。怖い夢なんて、わたしが追い払ってあげる」と笑った少女。

それが、澪だった。


(そうか……昔から、俺はこの子に守られていたんだ)


勇人は手を伸ばした。

その手のひらに、澪の涙が落ちる。

「一緒に、終わらせよう」


勇人の身体が光に包まれる。

白と黒が渦巻き、世界の中心へと吸い込まれていく。

澪がその背中に手を重ねた。


「ありがとう、勇人。あなたの“夢”が、私の最後の記憶になる」


“喰らうもの”が叫び、世界が砕け散る。

光がすべてを包み――そして、静寂が訪れた。


――白い朝。


鳥の声が聞こえる。

教室の窓から風が吹き込み、カーテンが揺れている。

勇人は机に突っ伏していた。

目を覚ますと、隣の席の陽斗が覗き込んでいた。


「おい、寝落ちしてたぞ。大丈夫か?」

「……ああ。ちょっと、夢を見てた」

「珍しいな。どんな夢?」

「……誰かと、約束してた気がする」


勇人はそう呟いて、窓の外を見た。

青空が戻っていた。

けれど、その中に一瞬だけ、白い傘が揺れるのが見えた気がした。


(――澪……)


呼びかけた声は、風に溶けて消えた。

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