幕間Ⅲ ―光と闇のあわい―

――光が落ちていた。


夜と昼の境目、時間の流れが止まったような空。

勇人は、見知らぬ場所に立っていた。

足元には白い花が咲き乱れ、風が通るたびに光の粒が舞い上がる。

空は割れたガラスのようにひび割れ、

その隙間から覗く闇が、ゆっくりと世界を飲み込もうとしていた。


(ここは……どこだ?)


問いに答える声はない。

ただ遠くで、水のような音が響いていた。

滴る水ではなく――“記憶”が流れている音。

それは誰かの心臓の鼓動のようにも聞こえた。


勇人は歩き出した。

光と闇の境界を進むと、目の前にひとりの少女が現れた。

白いワンピース、黒髪が風に揺れる。

その姿を見た瞬間、胸が強く締めつけられた。


「……澪?」


少女は微笑んだ。

けれど、その表情の奥には、どこか痛みが宿っていた。

「覚えてる? 勇人。あなたがはじめて“夢”を恐れた夜のこと」

「夢を……恐れた夜……?」


その言葉と同時に、勇人の頭の奥で記憶が弾けた。


――あの日、幼い勇人は泣いていた。

両親が口論する声を聞いて、布団をかぶっても眠れなかった。

夢の中で、黒い影が笑っていた。

「怖い……怖い……」と泣きじゃくる彼の前に、少女が現れた。


白い光に包まれた少女。

年齢は勇人と同じくらい。

「泣かないで。大丈夫、夢は怖くないよ」

そう言って、彼女は手を差し伸べた。

その手に触れた瞬間、影は霧のように消えていった。


――それが、澪との最初の出会いだった。


「……あれは、現実じゃなかったのか」

「ええ。あの時のあなたは、夢界の“境界”に触れていた。あなたの中には、生まれながらに“門”があったの」

「門……」


澪は頷いた。

「あなたは、夢と現を行き来できる“渡り手”。でも、その力を持つ人は、例外なく“異形”に狙われる」

「じゃあ、あの時から……俺はずっと――」


言葉が途切れた。

勇人の胸に、痛みが走る。

澪の姿が少しずつ霞みはじめていた。

風が吹き、花びらのように光が散る。


「もう、時間がないの」

「時間……?」

「夢界と現実の境界が、完全に溶け始めている。あなたがこのまま夢に囚われれば、二つの世界は融合して壊れる」

「なら、どうすればいい」

「“門”を閉じるしかない。でも……それはあなた自身を消すことになる」


勇人は拳を握った。

「そんなこと、できるかよ。俺はまだ――お前に、伝えてないことがある」

澪の瞳が揺れる。

勇人は一歩踏み出し、彼女の手を取った。

その瞬間、世界が光で満たされた。


白い世界の中、記憶が溢れ出す。

ふたりが過ごした断片的な景色――

夕暮れの坂道、風に揺れる傘、消えていった笑い声。

全てがひとつの夢のように繋がっていく。


「……勇人」

「なに?」

「あなたに会えて、嬉しかった」

「俺も。きっと……ずっと、探してた」


ふたりの指先が触れた瞬間、

湖の底から黒い霧が噴き上がった。

光と闇が交錯し、世界が裂ける。

“喰らうもの”の影が、空を覆っていく。


「行かなきゃ」

「待て、ひとりで行く気か!」

「これは、私の役目。あなたは――現実に戻って」

「そんなの、できるわけないだろ!」


勇人が叫ぶ。

澪は振り向き、涙をこらえて微笑んだ。

「……あなたがこの世界を閉じるとき、どうか私の名前を呼んで。それが、私の“最後の記憶”になるから」


勇人は叫ぼうとした。

だが、声が出ない。

光の粒が彼の喉を塞ぎ、夢界の風が身体を引き裂く。

その最後の瞬間、澪の唇が確かに動いた。

“ありがとう”――と。


視界が反転し、勇人は現実へと弾き出された。

目を開けると、見慣れた自分の部屋。

胸の奥に、まだ澪の手の温もりが残っている。


「……光と闇のあわいで、俺たちは……」


勇人は呟き、目を閉じた。

その瞼の裏に、澪の微笑みが静かに浮かんでいた。


それは――この世界で、たったひとつ消えない“夢”だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る