第三章 ―現と虚の境界―

夜が怖くなった。

それは、子どもの頃に感じていたような漠然とした恐怖ではない。

今は“確信”がある――闇の中には“何か”がいるのだと。


勇人はベッドの上で目を閉じても、眠ることができなかった。

閉じればまた、あの黒い霧の世界へ落ちる気がした。

夢を見るたびに、“異形”は近づいてくる。

その呼吸、その匂い、その気配。

夢のはずなのに、すべてが現実のように五感へ染み込む。


――そして、澪の声がいつも響く。

「勇人……逃げないで。あなたは、鍵なの」


(鍵? 俺が……?)


気がつけば、目の前の時計は午前二時を指していた。

外では風が唸り、窓ガラスが震える。

その瞬間、部屋の空気が変わった。


――カタ……カタ……。


本棚が揺れる。電気が一瞬消え、闇が満ちた。

勇人の心臓が跳ねる。

そして、視界の端に“それ”が立っていた。


黒い霧に包まれた影。

人の形をしているが、顔がなかった。

無数の口が蠢き、声にならない声を漏らす。

現実の部屋に、夢の“異形”が――。


「やめろっ!」


勇人が叫んだ瞬間、視界が白く染まった。

気づけば、そこは見覚えのある“夢の世界”。

足元には黒い水が広がり、空には裂け目のような月が浮かんでいる。


「……来てしまったのね」


背後から聞こえた声に振り向くと、澪が立っていた。

夢の中で見る彼女は、どこか神秘的で現実よりも輪郭が淡い。

「ここは“夢界(むかい)”。現実と夢の狭間。人の意識の底にある“形のない世界”。」


「じゃあ、あれは夢じゃなくて――」

「ええ。異形たちはこの“夢界”で生まれた。人の負の記憶や感情が、形を持ってしまったもの。放っておけば、現実をも侵食してしまう」


勇人は唇を噛んだ。

「じゃあ、なんで俺なんだ? なんで、俺が見える?」

「あなたの中に、“門”があるから」

「門……?」

「夢界と現実を繋ぐ境界。あなたがそれを開いてしまった。本来なら、閉ざされたままでいるはずの扉を――」


その時、地鳴りのような低音が響いた。

空が裂け、闇が渦巻く。

そこから巨大な影が現れる。

異形の中でも、最も古く、最も強い存在。

澪が顔を強張らせた。


「“喰らうもの”……! まだ目覚めていないはずなのに!」


“それ”は空間を歪ませながら、澪を見下ろした。

声にならない声で、笑うように、泣くように、語るように囁いた。

――「おまえらが 夢を忘れるから 喰らってやる」


勇人の耳が割れそうだった。

膝が震え、呼吸が乱れる。

けれど澪は、一歩前に出た。

「勇人、下がって。……ここは私が」


「待て、無理だろ! あんなの相手に――」

「私には“力”がある。でもそれは、“代償”つきの力。現実に戻るたび、少しずつ“記憶”が消えていく」

「記憶……?」

「ええ。私は、自分が誰だったのかもう思い出せない。でも、あなたのことだけは……なぜか、覚えている」


澪の掌から光が放たれ、闇を裂いた。

異形が悲鳴のような声をあげ、空間が崩れていく。

勇人はその光景の中で、ひとつの幻視を見た。


――澪が泣いている。

幼い勇人に手を伸ばしながら、何かを叫んでいる。

その声は、遠い記憶の奥から響いていた。


(……あれは、俺の、記憶?)


「勇人!」

澪の声が現実へ引き戻す。

目を開けると、自分の部屋のベッドにいた。

全身が汗に濡れ、息が荒い。

窓の外では、朝の光が差していた。


――夢では、なかった。


胸の奥に、鈍い痛みが残っている。

その痛みと共に、勇人は確信した。


“現”と“虚”の境界は、もう壊れかけている。

そして、あの少女――澪は、

夢から現実を守るために生きる「最後の防人」だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る