幕間Ⅱ ―記憶の湖―
――波紋が、広がっていく。
透明な湖のほとりで、澪はひとり立っていた。
空は深い青に沈み、地平線もない。
すべてが鏡のように静まり返り、音という音を飲み込んでいる。
ここは、夢界の中心。
“記憶の湖”と呼ばれる場所だった。
彼女がこの場所を訪れるのは、もう何度目だろう。
数えようとしても、指が震えて止まってしまう。
なぜなら――数を重ねるたびに、“自分が誰だったのか”を思い出せなくなっていくから。
湖の水面に映る自分の顔を見ても、それが“私”なのか確信できない。
時折、笑っているようにも、泣いているようにも見える。
名前を口にしても、空気に溶けて消えていく。
この世界に在るのは、もうただの“輪郭”だけ。
けれど、その中で――ひとつだけ、確かなものがあった。
それは、あの少年の名前。
「……勇人」
声に出した瞬間、胸の奥があたたかくなった。
その感触を失わないように、澪は手を胸に当てる。
それが彼女に残された、最後の“現実”だった。
風が吹く。
湖の面が揺れ、そこに映る過去が滲む。
――まだ子どもだった頃。
夜、泣いていた少年の前で、彼女は笑っていた。
「大丈夫。怖い夢なんて、私が追い払ってあげる」
そう言って差し伸べた手を、少年は強く握り返してくれた。
その瞬間、澪は知ったのだ。
自分の“力”が、誰かの痛みを癒せることを。
同時に、それが“呪い”であることも。
夢を喰う異形が現れたのは、それからだった。
人々の悪夢を糧に、世界の“形”を侵食し始める影。
澪は生まれながらにその存在を知り、“守る者”として夢界に縛られていた。
だが、その代償として、現実の記憶を少しずつ失っていった。
家族の顔、友の声、自分の笑い方――
全てが、この湖の底に沈んでいく。
そして今、残っているのは“勇人”だけ。
(……どうして、彼のことだけは消えないんだろう)
理由は分からなかった。
ただ、その名前を呼ぶたびに、涙が溢れた。
寂しさではない。恐怖でもない。
それは、失われるはずの“人間の心”が、まだこの胸に残っている証拠だった。
「勇人……あなたは、まだ“門”を閉じていない」
湖面に映る彼の姿に、澪は手を伸ばした。
指先が水をすくい、波紋が生まれる。
そこに映った彼の表情は、苦しげだった。
眠りの中で、現実と夢の狭間に立たされている。
このままでは、彼も夢界に引きずり込まれてしまう。
「……あなたは、本当は優しい人」
「誰かの痛みを見過ごせない」
「だからこそ、あなたが“門”を開けてしまったの」
澪の声が、湖の底に吸い込まれていく。
彼女の言葉は届かない。
それでも伝えたかった。
いつか彼が完全に夢界に堕ちる前に――
彼の心に、ひとひらの光を残しておきたかった。
湖面の波紋が止むと、空が反転した。
視界が一瞬で白に染まり、澪の身体が透けていく。
――記憶が、またひとつ消える。
「……やだ……まだ……」
声が震えた。
けれど、それでも微笑んだ。
「勇人……あなたが、この世界を閉じるとき。私の名前を呼んで。たとえ、私のことを覚えていなくてもいい。その声だけが、私の最後の記憶になるから」
風が静かに止む。
湖の水が凍り始める。
澪はゆっくりと目を閉じ、薄れていく意識の中で祈った。
(どうか、彼が――現実の光を失わずにいられますように)
波の音が遠ざかる。
やがて澪の姿は、湖に溶けて消えた。
ただその胸の奥で、“勇人”という名だけが、最後まで温かく灯っていた。
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