彗星の棲む山で
谷 亜里砂
彗星の棲む山で
テンが去ってからもう何度目かの乾季のこと。雨の降らない時期だ。
夜明け前、洞窟の入り口に座って、あたりが明るくなるのを待つ。ひんやりと湿った空気が、わたしの裸足の足首をなでていく。
このあたりに住む鳥たちは早起きで、「おはよう」と高い声で鳴き合っている。それを合図に、山は目を覚ます。熟した果実の香り、せせらぎの音、ふかふかの苔、洞窟の中にはわたしが集めてきた木の実たち。
喉が渇いてくると、トゲだらけの低い木を思い出す。ツンと鼻をつく、それでいて爽やかな匂いを追っていくと、ゴツゴツした濃い緑色の実が見つかる。固い皮を剥いて、果肉を水に入れて飲むと、すごく美味しいんだ。あとでまた一つ、とってこよう。
ここには、全てがある。楽しみも安らぎも、思いのままだ。
わたしは握れるほどの大きさの『彗星の石』を懐から取り出した。これは傾けるたびに色を変える、不思議な石だ。テンがいなくなった後、しばらくして見つけた。月より綺麗な彼の心そのままを表しているようで、気付けば時々話しかけてしまう。
「会いたいよ。毎日、楽しいよ。でも、独りぼっちだよ」
『お前なら大丈夫さ。立派にやっていけるよ』
わたしは少し微笑んだ。
『メリカ、この匂いがしたら天気が変わる。雨が近い』
いつだったか、テンは青空にまだら模様の鼻を向けて、ヒクヒクと動かして言った。あのごわごわした毛皮の温もりと、低いしゃがれ声が蘇る。
久しぶりに降るらしい。わたしは、この雨の前触れが好きだ。空が白み始めると、深い緑の谷間を、霧がゆっくりと流れていく。遠くで鳥が鳴き始めた。
『実を三つ見つけても、取るのは一つだけ。理由は何だったか、覚えているかい?』
記憶の中のテンが、まるでそこにいるみたいに呼びかけてくる。わたしは答えた。
「残りの二つは、色鮮やかな鳥のぶんと、次の季節に残すため」
テンはもういない。でも彼の存在は、わたしの毎日となって、この山のあちこちに残っている。
雨粒が、葉をバンバンと好き勝手に鳴らす。シダの陰から、ネズミに似た動物がわたしをじっと見ていることに気が付いた。たまに見かける子だ。目が合っても、もう慌てて逃げたりはしなくなった。
「おはよう。こっちに来る?」
呟くように話しかけても、小さな命はただ、困ったような顔で鼻をひくつかせるだけ。わたしが洞窟の入り口の隅に寄ると、こちらへ走り寄ってきて毛をぶるっと震わせ、毛繕いし始めた。
距離を取り、特に話しかけてくることもない。まだ、わたしには潮の香りが染み付いたままなのだろう。元人魚だから山の動物たちの言葉が分かるのに、未だに、テン以外の生き物と話せたことはない。
それでも、同じ空間で雨宿りをしてくれるなんて。
長いしっぽ、細かくてびっしり生えた毛、黒くて丸い目のその子は、雨が上がると同時に、さっと茂みに飛び込んでいなくなった。あの子はネズミの暮らしに、わたしはわたしの暮らしに戻る。この山では、誰も彼もそうだ。
洞窟から一歩踏み出すと、久々の雨に洗われた葉が、雲の切れ間から差し込んできた強い光を浴びて、眩しいくらいにキラキラと輝いている。
頭上を、情報通の鳥たちが口々に叫び散らしながら飛んで行ったのは、そんなときだった。
「逃げろ、逃げろ、遠くへ行くんだ」
「ついにあいつら、おかしくなったぞ」
耳を澄ますと、動物たちの悲鳴に混じって、木々が折られる乾いた音や男たちの怒声が、こちらへじりじりと迫ってくるのが分かった。こんな山奥まで、人間がやってくるのはおかしい。
頭の中に、いつかの町の人がわたしに向けて放った、怒り混じりの低い声が響く。
『やる気がないなら辞めろ』
足元を、ネズミのあの子が大急ぎで駆けていく。わたしの足も、自然にその方向を追った。何があったかは分からない。傷付けられる前に、とにかく離れなければならない。
夜になると、わたしは忍び足で隠れ家から出た。日が暮れたらいなくなると思ったのに、人間たちはまだ帰らない。彼らは、わたしが山にやってきて以来、ずっと住んでいた洞窟に居座ってしまったらしい。食べられるものを置いてあったのに。
明日の朝ご飯がなくなっちゃった。へなへなと座り込むと、会話が聞こえてきた。
「暴動が収まるまで、待つしかないな」
「いつになったら戻れるのかしら」
こうしていても、仕方がない。食べるものを探しながら、隠れ家に帰ろう。わたしは立ち上がり、音を立てないように注意しながら歩き始めた。
腹痛を治す葉っぱがたくさん生えていたところは、根こそぎ踏み荒らされていた。人間たちは薬が欲しいのではない。食べられそうなものを探して、ただ地面をかきむしっただけだ。水場にも寄ったけれど、汚物で使い物にならなくなっていた。
折られた枝からミルクみたいな色のドロドロした液が、涙のように染み出ている。向こうでは、白い煙が上がっている。胸がドキドキする。こんなのはダメだ。
わたしは姿を見られるのもかまわず、草木をかきわけて彼らの居場所へ近付いた。
「えっ」
「誰だお前!」
火を囲んでいた老若男女の人間たちの言葉が、矢みたいに耳に飛び込んできて、痛い。小さな女の子が怯えて、「ヒッ、ヒッ、ヒッ……」と叫びながら母親にしがみついている。
頭が真っ白になった。言いたいことがあったのに、今はもう、なんだか分からなくなっちゃった。何をしに来たんだっけ。そうだ、あの枝だ。
わたしはたき火のそばに積まれた枝を抱えた。丸ごと持ち上げ、ウサギみたいにすばやく逃げ出した。
「なんだあいつ!」
「クソ女」
「薪を返せ!」
石を投げられた。怖い! 捕まる! 怒った人間たちの声が追いかけてくる。でも木々のあいだに入ってしまえば、もうわたしは安全だ。息を大きく吐いて、枝を全部、流れの早い川へ捨てた。薪はぶつかりながら沈んで、見えなくなった。これでいい。
どうすればいいのか分からないまま、わたしは人間たちを見張ることにした。
彼らには山の知識がない。そして、何でも焼いて食べようとする。薪を奪ったとき、不思議な声で泣いていた女の子は、お腹が空いてイライラしているらしい大人たちに叱られてばかりだ。
「あの『ガイジュウ』が薪を強奪したとき、お前は何もしなかったな」
「いつも石ころばかり集めて……何の役に立つの?」
「伯父さんも伯母さんも、みんな腹が減っているのに、お前だけろくに働きもしないで、食べることだけしっかりして……」
大人の身長の半分もない、その女の子には左足のくるぶしから下がなかった。わたしみたいな、みんなとちょっと違う子だ。自分がテンに助けられたときのことを思い出す。足、痛いのかな。この山には、甘いバナナがなる木がある。教えてあげたいけど、バナナは好きかな。
怒られどおしのその子は、泣いているうちにだんだんぐったりしてきて、三日も経つと寝てばかりいるようになった。母親は横たわる彼女に触れては、首を振って言う。
「しっかりして、アメリ。熱が下がらないわ……寒い? 寒いのね、ごめんね」
テンがここにいたら、たぶん上手に助けてあげただろう。山で倒れたわたしを、助けてくれたときみたいに。
意を決して、山中の木々から枝を少しずつもらい、まとめて、目につくところに置いておくことにした。わたしが熱を出したとき、テンが置いてくれたのと同じ葉っぱを集めるのも忘れなかった。アメリの熱も、きっとこれでおさまって、平気になるはず。
濁った水場の近く、わたしが積んだ薪を見つけた人間の声は、葉の生い茂る木の上にいたわたしの耳にも届いた。
「気を付けろ! 『ガイジュウ』がまだ近くにいる!」
そして、人間たちが持っていったのは薪だけ。熱を下げることができる葉っぱのことは、よく分からなかったみたい。踏まれて、泥にまみれて、アメリの元へは届かなかった。
獣道を歩いていると、落ち葉の中に足がずぶりと沈んだ。刺すような痛みを感じても、初めは何が起きたのか分からなかった。掘り起こしてみると、穴の中には斜めに切った竹があって、どれもこちらを向いて尖っていた。落とし穴だ。
罠は簡単な造りだった。でも左足が痛い。手で押さえて、ぬるぬるする血を止める。痛い、痛い、痛い。
「いたぞ! 『ガイジュウ』だ」
野太い声が飛んできても、わたしは動けなかった。懐から彗星の石を取り出して、ぎゅっと握りしめる。テン、助けて。わたし、失敗しちゃった。
「お前、何を持ってる? 宝石か?」
やめて、と言いたくても、喉が詰まってしまって声が出ない。
「なんだ、石ころじゃねえか」
わたしがテンだと思って大切にしていた彗星の石は、なんでもない物みたいにぽとりと岩の上に落とされた。そしてブーツを履いた足にゆっくりと、力を込めて踏みつけにされて、粉々に砕け散った。
テンが壊れちゃった。壊されちゃった。
痛い。足が痛い。怖い。
人間は怖い。酷いことを平気でやる。もう嫌い。関わりたくない。
彼らは毒の木を薪にして、燃やそうとしていた。その煙でみんなの息が止まるとしても、ただ知らんふりをしておけばよかった。熱を下げる葉っぱが目の前にあっても、試しもしないし、わたしが大事にしているものだってわざと壊して、『ガイジュウ』だと笑っている。
流れの早い水辺は色々なものを押し流して、まだ綺麗なままでいる。左足の傷口についた泥を洗い、竹のささくれを取り、すり潰したグアバの葉っぱで湿布をした。その上から分厚いバナナの葉を巻いて、ツタで縛って固定する。
これも、テンが教えてくれたこと。こんなに大きな傷は初めてだけれど、わたしは怪我をするたびに、こうして手当てしてきた。でも彗星の石は、テンは、踏み潰されて粉々にされちゃった。
あの光景が目の前に浮かぶたび、わたしは平気でいられない。変な声が出る。最低だ。
もう人間なんか大っ嫌い。絶対に助けたりしない。
わたしは山の高台を目指して、落ちていた枝を杖がわりに歩いた。そこにはテンがねぐらの一つにしていた大きな洞窟がある。水場からは少し遠くて、わたしにとっては広すぎるけれど、しばらくそこで休むことにした。
そして人間たちは、いつになっても町に戻る様子がない。昼も夜も、白い煙が木々のあいだから空に伸びて、彼らの存在を伝えてくる。空気はもうパサパサに乾いて、川の水の量もぐんと減ってきた。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ……」
ある日の夕方、不意に木の上から、アメリの泣き声が聞こえた。ぎょっとしてそちらを見ると黒い鳥が二羽、枝に止まっている。そのうちの一羽が、呆れたように言う。
「やめなよ、そんなの真似するの」
「なんか頭に染み付いちゃってさ、ほら、ヒッ、ヒッ、ヒッ……」
「もう、やめなってば……気味が悪いったら……」
アメリはどうしているんだろう。毒の木のたき火で、息が止まったりしてないよね。熱は下がったのかな。たぶん今日も、みんなに怒られているよね。
怒って三角になった人間たちの目を思い出して、ぶるっと身震いした。
いや、人間なんかに近付かない方がいいに決まってる。怖いし、意地悪だし。勝手に山に入ってきて、住みついて、それで……。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ……」
「もう、やめなってば……」
アメリが住んでいる方に目をやった。相変わらず、白い煙がオレンジ色の空を目指して登っている。でも、山の何かがおかしい。じっと目を凝らしていると、真っ赤な炎がずるりと木を飲み込み、火柱になるのが見えた。
「火事だあ」
黒い鳥が二羽、翼を広げて飛んで行く。テンの山が、燃える。火は隣の木々に、そしてそのまた隣へと燃え移っていく。なんで。
足が痛い。もう人間なんか大っ嫌い。
『ヒッ、ヒッ、ヒッ……』
頭の中で、アメリの泣き声がする。やめて、その声、やめて。
わたしは煙が上がる方、炎が迫っているはずの人間たちのいる場所へ、足を引きずりながら走り出していた。自分が何を考えているのか分からない。ただ、あの『音』を止めなきゃいけない。だってつらくて、とても悲しい声だもの。それが、この山で響いているのが耐えられない。テンがくれたこの場所で、あんなふうに誰かが泣いているのが、嫌でたまらない。
火は、わたしが思っていたよりずっと早かった。煙が目にしみる。吸い込むと「ゴホッ」と咳が出る。人間たちの居場所に着くと、そこはもう炎の壁に挟まれていた。叫ぶ人たちは右にも左にも行けず、石を投げたり、泣き出したり。男たちがナタを振り回して、道を探している。
「水はどこなの!」
「こっちも火だ!」
「もうダメ、もうダメよ!」
わたしは彼らを知っている。わたしを『ガイジュウ』と呼んで、『狂った女』と罵って、怪我をさせる人たちだ。そして彗星の石を、テンをわたしの手から奪い取り、ゆっくりとブーツで踏んで砕く。それが彼ら、人間だ。
炎にまかれて死んだって、別にわたしのせいじゃない。
「アメリ、お願い立って、お願い!」
「ヒッ、ヒッ……」
細い泣き声が、火と煙の向こうから聞こえる。だから飛び込んで行く。
泣いたような、怒ったような顔の母親は、「いやっ、来ないで!」とアメリをかばう。わたしは彼女を突き飛ばすようにして、アメリをひったくった。軽い。熱い。ぐったりして腕におさまりながら、アメリは目を見開いてわたしを見ている。
「おい、『ガイジュウ』がアメリをさらうぞ!」
「追え、追え!」
ぎらっとした太い声が、方々から刺さってくる。それを後目に、わたしは炎の壁に飛び込んだ。今は見えなくても、そこに岩場の切れ目があるのを知っていたから。たった少しの風のゆらぎを読んで、水をたっぷり含んだ草が生えている場所を選んで、逃げ続けた。
でもついに、追ってくる人間たち、火柱、目にしみる煙に挟まれてしまった。どっちに行けばいいか分からない。うまくできると思ったのに、どうしていつもこうなるんだろう。
「ヒッ、ヒッ……」
アメリの声も、どうしても止めてあげられない。ごめんね、ごめん。下を向いたとき、ネズミが一匹、大急ぎで走っていくのが目に入った。わたしは慌てて後を追う。
煙の臭いがしないところ、高台の洞窟に転がり込むと、わたしはアメリを抱えたまま、その場でバタリと倒れた。息ができない。頭がくらくらする。走り過ぎたのかな。
「アメリ、アメリ!」
追いかけてきた母親に、やっとの思いでアメリを渡した。彼女に抱きしめられたアメリはびっくりしたような顔で、だけどもう、泣いていなかった。良かった。
不意に、横っ腹に痛みが走った。固いブーツを履いた足が見えて、蹴られたのだと分かる。その男は痩せた腕にナタを握って、振り上げる。
「この『ガイジュウ』が……!」
やばい、殺される。わたしは這いつくばって、洞窟の外を目指そうとする。男に左足を掴まれた。でも、傷口からまた血が出ていたらしい。ぬるりと滑ったおかげで、逃げることができた。
ところが洞窟のすぐ外には、幾人もの人間たちがいた。追われるかと思って心臓が縮み上がったけれど、みんなはるか下の火の海を見つめている。煤だらけの顔をして、座り込んでいる人もいて、わたしには反応しない。
バチン、バチンと遠くで音が鳴っている。きっと、炎に食べられた木の悲鳴だ。胸がぎゅっとなる。いや、悲しんでいる場合じゃない。逃げなくちゃ。
我に返って振り返ると、男は何度もわたしと燃える山とを見比べていた。そしてナタがするりと落ちて、岩にぶつかり、カツンと乾いた音を立てた。
男の目から、涙がぼろぼろと溢れて落ちる。どうして泣いているんだろう。湿った匂いがする。
『メリカ、この匂いがしたら天気が変わる。雨が近い』
テンがまだら模様の鼻を空に向けて、低いしゃがれ声で言うのが聞こえる。
ザーッという雨の音が、炎の音を包んで、かき消していく。空の底が抜けたような雨だ。火はあっという間に勢いを失い、白い湯気になり、やがてそれさえも見えなくなる。
誰かがぽつりと言った。
「ありがとう、あなたは『ヤマノコ』だ……」
雨季のあいだじゅう、山火事の跡は、しばらく黒いシミみたいに山肌に残っていた。だけどもうその下から、力強い青い芽が生えてきている。わたしの左足の傷跡も、元の皮膚より少し黒っぽく残った。
水をたっぷりたたえた川で顔を洗っていると、向こう岸の茂みがガサガサと音を立てた。イノシシかもしれない。身構えるわたしに、藪からぴょこんと頭を出したアメリが、少し微笑んだ。
こちらに小さく手を振って、岩の上に何かを置く。水を少し飲んで、それからまた手を振って、杖をつきながら茂みの中へ消えていった。背中には籠を背負っている。
アメリ、すっかり元気になったんだ。
雨季になるとわたしを『ヤマノコ』と呼ぶようになった人間たちに、熱が下がる葉っぱとバナナを押し付けた。これまではあまり行ったことがなかった山の反対側を探して、見つけたものだった。それから少しして、アメリが座って食事ができるようになったのを見た。
もう安心だと思って放っておいたら、彼らはいつの間にかいなくなっていた。空っぽの洞窟ではネズミのあの子が、人間たちが置き忘れたらしいナッツをかじっていた。
「誰もいない……」
わたしが呟いても、返ってくる声はなかった。
川を泳いで、アメリが置いていった何かを拾い上げる。小さな巾着袋だ。開けてみると、光を吸い込んで彗星みたいに輝く、大粒の石が入っていた。
「テンだ……」
笑みがこぼれて、思わずしゃがみこんだ。暖かい涙が、地上に顔を出した木の芽に水をやった。風はいつも通りに吹いて、わたしの髪を優しく撫でていった。
(了)
読了ありがとうございました!
こちらの短編小説『彗星の棲む山で』は執筆イベント、NovelJam2025にて制作した『メリカの居場所探し』の続編にあたります。
正編のご購入、タチヨミはBCCKSより『メリカの居場所探し』で検索してくださいね!(ここではリンクが貼れず、すみません。)
彗星の棲む山で 谷 亜里砂 @Arisa_Tani
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