第五章:光の「強奪」と、影の「掃除」

(寛永二年・江戸城 西ノ丸)


「影の軍団」に最初の密命を下してから、三日。


家光は、将軍として「表」の顔を被り、西ノ丸の書院にいた。 目の前には、乳母にして大奥の絶対権力者、春日局が控えている。


家光は、溜息混じりに、わざと憂鬱な顔で口を開いた。


「……局。近頃、父上(秀忠公)と母上(江様)の仲が、かんばしゅうないと聞く」


「……と、申されますと?」 春日局は、家光の(計算され尽くした)憂慮の表情を、訝いぶかしげに見つめた。


「父上は、いまだ大御所として壮健であられる。だが、夜伽の相手が固定化され、新たな世継ぎの気配もない。 何より、父上と母上の仲が冷えれば、それはそのまま『幕府』と『大奥』の不和となる。 ……弟の忠長も、母上の派閥として、あらぬ野心を抱くやもしれん」


家光は、あえて「忠長」の名を出し、春日局の忠誠心を刺激した。


「……上様。ご懸念、ごもっともにございます」 春日局は、即座に低頭した。 「本丸大奥(=江の領域)の風紀の乱れ。それは、この春日局の不行き届き。 ……大御所様(秀忠公)のお心に、新しい『風』をお入れし、御台所様(江様)との仲を取り持つ、清廉にして聡明な『新しい女中』を、わたくしの権限で西ノ丸から送り込みましょう」


「うむ。任せる」


家光は、無感動に頷いた。 これで、『蜜』と『蝉』が江戸城本丸に潜入するための「表」の道ができた。


数日後の夜。


家光が寝所に入ると、その部屋の天井裏から、音もなく蔵人が降り立った。


「……蔵人。春日局は、表の『道』を作った。 お前たちの『裏』の道は、どうだ」


蔵人は、乾いた声で答えた。


「『蜜』と『蝉』の身分工作は、完了いたしました。 『越後高田藩・松平家(家光の叔父・忠輝の元領地)の、没落した旗本の遠縁の娘』として、戸籍も証人も揃えております」


「……だが」と蔵人は続けた。 「障害が、一つ」


「申せ」


「春日局様が用意された『女中の枠』。その一つに、別の者が割り込もうとしております」


「……誰だ」


「大御所様(秀忠公)の側近、板倉周防守にございます」


家光の目が、細められた。 板倉周防守。 (……知っている。父・秀忠に媚び、母・江に取り入り、弟・忠長に内通する、『忠長派』の筆頭格) (……最初の『悪』が、自ら名乗り出てくれたか)


「板倉は、自分の息のかかった『遠縁の娘』を、同じ枠でねじ込もうとしている、と」


蔵人は、さらに報告を続けた。


「娘の名は、お絹。年は十五。 板倉とは、血縁上、確かに『遠縁』にあたります。 調べた限り、本人は板倉の政略の道具にされることには気づいておらず、ただ大奥に上がれると喜んでいるだけの、無垢な娘にございます」


「…………十五、か」 家光は、その言葉に、一瞬、目を閉じた。


(……前世の俺か) (システムの都合で、何も知らぬまま理不尽に切り捨てられていく、かつての同僚たちの顔が浮かぶ)


蔵人は、主君の沈黙を肯定と受け取り、冷徹に進言した。


「上様。この『お絹』、邪魔にございます。 ……今宵、板倉もろとも、この娘も『掃除』いたしましょうか? 最も合理的、かつ確実な手にございます」


「……待て」 家光は、蔵人を制した。


(そうだ。蔵人の言う通り、殺すのが一番早い) (前世の俺を踏みつけた「システム」なら、そうするだろう) (だが、俺は「合理的」に犠牲者を切り捨てるために転生したのではない。「犠牲者」ごと、理不尽な「システム」そのものを支配するために、ここに来たのだ)


家光は、決断した。 それは「合理性」と「共感」を両立させる、冷徹な「ハイブリッド型」の決断だった。


「蔵人。命令を変更する」


「……と、仰せられますと?」


「標的を、分ける。 『悪意ある者』と、『有用なる道具』だ」


家光は、まず「影」に命じた。


「『牙』『霞』『杭』に伝えよ。 ……今宵の『掃除』の対象は、板倉周防守、および、その護衛(=悪意ある実行者)のみとする」


「娘(お絹)には、指一本触れるな。彼女は『被害者』であり、俺の『道具』だ」


「しかし、上様。生かせば、いずれ禍根に……」 蔵人は、その「非合理な」温情に、初めて反論しようとした。


「案ずるな」


家光は、蔵人の言葉を遮った。 「娘の『始末』は、お前たち『影』の仕事ではない。 ……それは『光』の仕事だ」


(同日・深夜)


家光は、春日局を自室に召し出していた。


「局。急な呼び出し、すまぬ」


「めっそうもございません。……して、いかなる御用に……」


家光は、深刻な顔で切り出した。


「女中の『枠』の話だ。 ……板倉周防守が送り込もうとしている『娘(お絹)』。あれは、忠長派の道具として送り込まれるようだ」


「なんと……!」 春日局の顔色が変わる。


「だが」と家光は、ここで初めて(蔵人から得た)情報を出す。 「……こうも聞いている。娘自身は無垢。ただの『素材』に過ぎぬ、と」


家光は、そこで春日局の目を見据え、冷徹な「君主」の顔で告げた。


「俺はな、局。この徳川のために有用な人材は利用すべきだと考えている。無論不要な人材は論外だ」


春日局は、家光のその言葉に、深く頷いた。


「板倉は、その『有用な人材』を、徳川宗家のためではなく、忠長という『私』のために使おうとしている。 ……これは、俺への『裏切り』だ」


「……っ。断じて許せませぬ」


「そこで、そなたに頼みがある」


家光は、ここで春日局に「役割」と「餌」を与える。


「そうだ」 家光は、冷ややかに笑った。 「板倉は、もしかすると、今夜あたり『急な病』で倒れるやもしれん」


春日局の背筋が、凍った。 目の前の若き将軍が、今、何を言ったのかを正確に理解した。


「……後ろ盾を失い、路頭に迷うであろう娘を、そなたが『保護』するのだ。 そなたの『公儀』の力で、その娘をな」


家光は、続けた。


「板倉のような者に使わせるには惜しい素材だ。 ……外様の側室として役に立つ存在に、そなたならば育てられるであろう」


春日局の目が、カッと見開かれた。


それは、恐怖や驚愕ではない。 自らの「能力(女を育てる力)」を主君に絶対的に信頼され、同時に「政敵(忠長派)」の駒を奪い取るという、完璧な「大義名分」を与えられたことへの「歓喜」だった。


(この御方(家光)は、わたくしの力を、ここまで見抜いておられる……!)


「……なんと、先を見据えたお考え……」 春日局は、深く、深く平伏した。


「承知いたしました。その『お絹』なる娘、わたくしが『保護』し、上様のお役に立つ『道具』として、責任をもって育て上げましょう」


「御意。この春日局、柳生やぎゅうの手を借りてでも、必ずやその娘御を『保護』いたしまする」

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