第六章:最初の鉤(フック)

(寛永二年・江戸城 本丸大奥)


『蜜』と『蝉』が、"御台所・江様が自ら選んだ、最高の側仕え"として本丸大奥に登城してから、三日が経過した。


二人は、その身分(=新人)にふさわしく、奥の雑事に追いやられていた。


だが、その全ての所作は、春日局の「目利き」を裏切らない完璧なものであり、本丸の古参の女中たちも「(江様の)お目にかなっただけあって、見事な働きだ」と、その警戒を解きつつあった。


しかし、三日間、『蜜』と『蝉』は、標的である大御所・徳川秀忠の姿を、一度も間近で拝んではいなかった。


(……三日目の夜。新月の、闇が最も濃い夜)


二人に与えられた、長屋の狭い一室。


『蜜』が静かに寝具の用意をしていると、まるで壁のシミが動いたかのように、闇から『蝉』が姿を現した。彼女は、この三日間、ほぼ姿を見せていなかった。


「……蜜」


『蝉』の声は、虫の音のようにか細く、しかし正確な「情報」だけを伝えた。


「掴んだ。 大御所様(秀忠公)は、毎夕、亥の刻(午後十時)、必ず『松の廊下』を一人でお渡りになる。 御台所様(江様)の御殿から、ご自身の寝所へ戻る、唯一の『安息』の刻だ」


『蜜』は、手を止めず、次の情報を待つ。


「御台所様は、毎夜、この刻に『忠長卿(ただながきょう)の将来』について、大御所様に嘆願なさっておられる。 ……大御所様は、その『嘆願ねだり』に、ひどくお疲れだ」


「……」


「『松の廊下』。 そこは、忠長卿からも、御台所(江)からも、そして上様(家光)からも解放される、大御所様の、唯一の『無防備』な場所」


『蝉』は、そこで初めて、かすかな「感情」を声に乗せた。


「……狙うなら、そこだ。 警護の者は、廊下の両端に二人。だが、大御所様はいつも『来るな』と手で制し、中央を一人で歩かれる。 ……私が、その警護の者の『足止め』をする。 お前が動けるのは、大御所様の足音が聞こえ始めてから、三十を数える間だけだ」


「……三十。……十分すぎる」


『蜜』は、初めて口を開いた。


彼女は、一年前の自分(非人)を救った主君・家光の顔と、自分に「毒」の全てを叩き込んだ師・薄雲の顔を、同時に思い出していた。


『……いいかい、蜜。男を釣る、最初の"鉤(フック)"は、色気じゃないよ。 "鉤"は、『対比』さ。相手が今、最も手に入れたくても手に入らないもの。その『対極』を、お前が差し出すんだ。相手の人生が『戦(いくさ)』なら、お前は『安らぎ』になれ。相手の人生が『嘘』なら、お前は『真実(まこと)』になれ。……そして、相手の人生が『要求(ねだり)』に満ちているなら、お前は『無償』になれ……』


(亥の刻・本丸 松の廊下)


しん、と静まり返った長い廊下。


この時間、下働きの女中がここにいることは、許されない。


だが、『蜜』は、そこにいた。


彼女は、廊下の中央で、小さなあかりを一つだけ置き、一心不乱に「何か」を磨いていた。


(……『蝉』が、両端の警護の注意を、今、外に逸そらしている)


(……来る)


『蜜』の耳が、遠くから近づいてくる、一人の男の「疲れた」足音を捉えた。


大御所・徳川秀忠。


足音が、近づく。


十、九、八……。


『蜜』は、その足音がすぐそこまで来た瞬間、計算通りに「動いた」。


彼女は、磨いていた真鍮しんちゅうの「火消し壺」を、わざと手元から滑らせた。


―――カラン! ガシャンッ!


静寂を切り裂き、けたたましい金属音が響き渡る。


『蜜』の真上、天井裏の闇に潜む『蝉』が、息を呑んだ。


「……何奴なにやつだ!」


秀忠の、苛立いらだちを含んだ声が響いた。 この日、最も疲れている瞬間に、最も聞きたくない「騒音」だった。


「ひ……!」


『蜜』は、この世の終わりのように全身を震わせ、その場に平伏した。


(師匠(薄雲)の教え……第一段階、「音」で注意を引く)


秀忠は、眉根を寄せ、暗がりに転がる火消し壺と、平伏する女中に近づいた。


「……こんな夜更けに、廊下で何を磨いておる。新しい顔か……?」


「も、申し訳ございませませ……!」


『蜜』は、顔を上げない。 声は、恐怖に完璧に震えている。


「(秀忠)……よい。それより、灯りをこちらへ」


「は、はい……!」


『蜜』は、震える手で灯りを持ち上げ、秀忠の足元を照らそうとした。


そして、その灯りが、秀忠の顔の真横を通り過ぎた、その一瞬。


秀忠は、見た。


灯りに照らされた『蜜』の横顔を。 そして、その女が、平伏する直前まで磨いていた「火消し壺」の隣に、無造作に置かれていた「何か」を。


「……待て」


秀忠の、冷たい声が響いた。 『蜜』の動きが、止まる。


秀忠は、灯りを奪い取るように持ち上げ、『蜜』の顔を、そして彼女の足元を照らした。


『蜜』の顔の半分(かつての傷)には、薄雲の教え通り、妖しい「影」が落ちている。 だが、秀忠の目が見ていたのは、彼女の顔ではなかった。


そこに置かれていたのは、一輪の、名も知らぬ野花が挿された、粗末な竹筒だった。


「……これは、何だ」


秀忠の声から、苛立ちが消えていた。


『蜜』は、顔を上げ、初めて秀忠の目を(怯えながら)見つめた。 そして、薄雲の教え、第二段階――「対比(=無償)」の毒を、流し込んだ。


「……お、お許しください……!」


「わたくしめが、今朝、庭の片隅で見つけまして……。あまりに、陽ひの光も浴びずに、健気けなげに咲いておりましたゆえ……」


「……」


「誰たれも、この花を見てはくれぬ、と……。 せめて、大御所様が、この廊下をお渡りになる、この一瞬だけでも……。 この花に、『息』をさせてやりとうございました……」


『蜜』は、涙をこぼした。


「……わたくしの、差し出がましい、わがままにございます……! すぐに、お捨ていたします……!」


秀忠は、完全に沈黙していた。


天井裏の『蝉』は、秀忠の呼吸が、先ほどの「苛立ち」から、深い「驚嘆」に変わった音を聞き逃さなかった。


(……かかった)


秀忠は、この一日、何を求めていただろうか。


妻からは「忠長への領地」を求められ、 幕臣からは「政策の裁可」を求められ、 誰もが、彼に「何か」を求めてきた。


だが、目の前の、この夜更けに火消し壺を磨いている(と彼が信じている)女中は。


彼に、何も求めなかった。


それどころか、見返りを求めず、ただ、名もなき「花」のために、彼(秀忠)の「安らぎ」を祈っていた。


(……なんと、健気けなげな)


(そして、なんと……)


秀忠は、疲弊しきった心が、この一輪の野花と、目の前の女によって、静かに満たされるのを感じていた。


「……よい」


秀忠は、低く、しかし穏やかな声で言った。


「……花は、そこに置いておけ」


「え……?」


「明日からも、だ。 ……わたくしが、許す」


秀忠は、それだけ言うと、もう一度『蜜』の顔を、今度は「品定め」するようにじっと見つめ、そして、寝所へと歩き去った。


『蜜』は、その足音が完全に消えるまで、平伏を続けた。


そして、顔を上げた時、その目には、涙も、怯えもなかった。 ただ、獲物を「釣った」ことへの、冷たい、冷たい満足感だけが浮かんでいた。


天井裏の『蝉』もまた、音もなくその場を離れ始めた。


「最初の“鉤(フック)”」は、完璧に打たれた。 今夜、秀忠は、「お蜜」という名の女中を、決して忘れない。

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