第四章:父への毒
(寛永二年・江戸 廃寺)
静寂が、本堂を支配していた。
家光によって「牙」「霞」「杭」「蜜」「蝉」という新たな『名』を与えられた五人の「影」たちは、その名を噛みしめるように、床に額をこすりつけたまま微動だにしなかった。
彼らにとって、それは狂信的な「歓喜」と「忠誠」の礼だった。
家光は、その完璧な「道具」たちに背を向け、影の「刃」である蔵人(くろうど)に告げた。
「蔵人。最初の『任務』だ」
「……はっ。お待ちしておりました」
蔵人の目に、初めて「獣」の光が戻っていた。
家光は、本堂の暗闇を見つめながら、静かに語り始めた。 その言葉は、蔵人、薄雲(うすぐも)、そして五人の「影」たち全員に向けられていた。
「この国の『法』では裁けぬ、最大の『悪』は何か、知っているか」
蔵人が、即座に答えた。
「……西国の外様(とざま)。あるいは、私腹を肥やす幕閣にございますか」
「違う」
家光は、即座に否定した。
(……前世の俺は、組織(システム)の『外敵』と戦うことばかりに目を奪われ、足元をすくわれた) (だが、今世(こんど)は違う) (最強のシステムを内側から食い破るのは、いつだって『身内(かぞく)』だ)
家光は、冷ややかに、そして絶対的な憎悪を込めて、その「悪」の名を口にした。
「最大の脅威は、この徳川の『内紛』だ。 ……俺の弟、徳川忠長。 そして何より、奴を溺愛し、俺を廃嫡しようと目論む、俺の父(ちち)・秀忠と、母(はは)・江(ごう)だ」
蔵人と薄雲が、息を呑んだ。 将軍が、自らの両親(=大御所・御台所)を「悪」「脅威」と断じたのだ。
だが、五人の「影」たちは、その言葉の意味すら理解しようとせず、ただ主君(あるじ)の次の命令を待っている。
「忠長本人は、まだ駒だ。 だが、奴を担ぎ上げようとする大名、奴に内通する幕臣が、この江戸城の『中枢』に巣食っている。 そいつらこそが、俺が最初に『始末』すべき、法では裁けぬ真の『悪』だ」
家光は、ゆっくりと振り返り、二人の女――「蜜」と「蝉」を、その視線で射抜いた。
「蜜、蝉。前へ」
「はっ」
二人の女が、音もなく一歩前に出る。
家光は、まず、妖しい美貌を放つ『蜜』に向かって告げた。
「蜜。お前の最初の『舞台』だ」
家光は、彼女の目の前に膝を折った。 一年前、非人であった彼女に「救済」を与えた時と同じ所作。
だが、その目に「共感」はなく、ただ冷徹な「命令」だけが宿っていた。
「お前の『技』で、俺の父……大御所・徳川秀忠を、骨抜きにしろ」
「……!」
さすがの薄雲も、その言葉に目を見開いた。 実の父に、自ら育てた「毒」を仕掛けるというのか。
家光は、構わず続ける。
「蔵人、『蜜』の身分を工作しろ。大奥の女中として、完璧な経歴を『作れ』」
「……御意」
「蜜。お前は本丸大奥(=母・江の領域)に潜入し、いかなる手段を使っても、秀忠の『夜伽(よとぎ)』に上がれ。 そして、その寵愛を独占しろ」
家光は、薄雲が育てた「毒」の、その恐るべき効能を信じていた。
「秀忠が、お前という『蜜』に溺れ、子作りに励むようになれば…… 奴の精力も関心も、お前一人に集中する。 そうなれば、母・江への関心も、溺愛する『忠長』への気持ちも、自ずと薄れていく」
それは、父と母の仲を引き裂き、父の忠誠を弟から奪うという、最もえげつない「離間の計」だった。
「……承知、いたしました」
『蜜』は、その恐ろしい任務を、恍惚(こうこつ)とした表情で受け入れた。 「神(あるじ)」に与えられた、最初の大役だった。
「だが、蜜」と家光は続けた。
「お前は『光』だ。お前が寵愛という光を浴びるほど、お前は無防備になる。 ……だから、お前には『影』をつける」
家光は、もう一人の女――五人の中で最も気配が薄く、目立たない『蝉』に顔を向けた。
「蝉。お前の任務は、この『蜜』の『影』となることだ」
「……御意」
『蝉』は、かすかな声で応えた。
「『蜜』が秀忠の閨(ねや)で『毒』として振ル舞う、その瞬間。 お前は、天井裏(やみ)から、その全てを監視しろ」
家光の命令は、絶対だった。
「蜜が『光』の当たる表舞台にいる間、お前は闇から『蜜』を守れ。 彼女の身に危険が迫れば、お前の判断で『始末』しろ。 そして何より――」
家光の目が、転生者としての冷徹な「合理性」に光る。
「『蜜』一人の耳では、取りこぼす『音』が多すぎる。 お前は、蜜が枕元で聞く『会話』だけでなく、蜜がいない場所での秀忠の独り言、側近との密談、衣擦(きぬず)れの音一つに至るまで、全てを拾え」
「お前たち二人は、二人で一つの『毒』だ。 『蜜』が秀忠を支配し、『蝉』がその情報を支配する。 失敗は許さぬ」
「はっ」
『蜜』と『蝉』が、同時に深く頭を下げた。
「だが」と家光は付け加える。 「それが『表』の任務だ」
「お前たちの『真の任務』は、秀忠の枕元にある」
家光は、『蜜』と『蝉』の耳元に、悪魔のように囁いた。
「秀忠が、お前たちに心を許した時。 奴が無防備に漏らす『言葉』、奴の元を訪れる『人間』。 その全てを記憶しろ。
『どの大名が、忠長に肩入れしているか』 『どの幕臣が、俺の廃嫡を進言したか』
……その『忠長派』の、生きたリストを、俺の元へ持ち帰れ」
「御意」
「そして、もう一つ。最大の『禁忌』だ」
家光は、懐から小さな陶器の『小瓶』を取り出した。
(……転生知識(チート)で精製させた、経口避妊薬)
「これを、『蜜』に渡せ。毎夜、欠かさず飲ませろ。 秀忠を骨抜きにしろ。だが、絶対に奴の子を宿すな」
『蝉』が、その小瓶を、恭(うやうや)しく両手で受け取り、『蜜』の懐に収めた。
「お前は、俺の『毒』だ。 新たな『火種』を産むことは、断じて許さぬ」
家光は立ち上がり、残る三人の「影」たちに命じた。
「牙、霞、杭。 お前たちの最初の任務は、この『蜜』と『蝉』の潜入を、総力をもって支援することだ。 身分工作の邪魔者を『消し』、外部から情報を『集め』、必要な『噂』を流せ」
五人の「影」たちは、再び一斉に、音もなく平伏した。
「御意」
家光は、実の父を「標的」として、自らが育てた「影」に非情な指令を下した。
前世で「システム(組織)」に敗北した男は、今世、「家族(しきたり)」という最も重い呪縛をも「道具」として利用し、その「静かなる革命」の第一歩を踏み出した。
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