最終話:甘い匂いの終着点
ガシャン!という耳障りな音。 クマキチは、狙いを定めた家の窓ガラスを前足で叩き割った。
(いい匂いだぞ……。昨日の米よりも、もっと濃い、肉の匂いだ)
家の中からは、甲高い「二本足」の叫び声(悲鳴)が響き渡る。 クマキチはもう、その声に何の感情も抱かなかった。 山で獲物を追うとき、セミがうるさく鳴いているのと同じ。ただの「音」だった。
バリバリと窓枠を壊し、台所に侵入する。 そこにいた。匂いの発生源だ。 火(ガスコンロ)の上でグツグツと煮える、大きな鉄の器(鍋)。
「グオッ!(それだ!)」
クマキチは鍋に飛びついた。 熱さなど感じない。アドレナリンと強烈な空腹が、すべての感覚を麻痺させている。 鍋がひっくり返り、熱い汁と肉が床に散らばる。
「ヒィィィィ!」
部屋の隅で、小さな「二本足」(子供)を抱えたメスの「二本足」(母親)が、腰を抜かして震えていた。
クマキチは、床に散らばったご馳走――煮物――を夢中で貪りながら、うるさく叫ぶ母親を睨みつけた。
「グルルルル……(黙れ。食べてるんだぞ)」
その低い唸り声は、クマキチなりの最後の警告だった。 「僕の飯場で騒ぐな。さもないと、あのうるさい老人(第二話の被害者)のように、黙らせるぞ」
母親は、その殺意を本能で感じ取り、口を両手で押さえ、息を殺した。
クマキチが、床の肉をほとんど食べ尽くした、その時だった。
家の外が、急に「昼」になった。 いくつもの強烈な光(車のヘッドライトや投光器)が、割れた窓からクマキチを照らし出す。
「(!?)」
眩しさに目が眩む。 同時に、大勢の「二本足」の怒鳴り声と、鉄の匂いが押し寄せてきた。
「いたぞ! 家の中だ!」 「クソッ、入り込みやがった!」 「囲め! 絶対に逃がすな!」
クマキチは、自分が「罠」にはまったことを悟った。 ここは、隠れる場所のない、石の洞穴だ。
(まずいぞ……!)
本能が、ここから逃げろと叫んでいる。 彼は、入ってきた窓に向かって、全速力で突進した。
「来るぞ! 撃てェッ!!」
バリケードのように停められた軽トラックの荷台から、数人の男たち――猟友会――が「鉄の棒」を構えるのが見えた。
次の瞬間。
ダァァン! ダァァン!!
クマキチの耳が、生まれて初めて聞く、腹の底まで響く「雷」の音に引き裂かれた。
直後、胸に熱い杭が打ち込まれたような、強烈な「痛み」が走った。
「グ……ア!?」
息ができない。 山でスズメバチに刺された時とは比べ物にならない、体の内側が焼けるような痛み。
(なんだ……? なんだ、これ……!?)
理解が追いつかない。 だが、体はまだ動く。 怒りと恐怖に任せて、光に向かって咆哮する。
「グオオオオオオッ!!」
ダァン!
二発目。三発目。 今度は、太い前足の付け根と、腹を「噛まれた」。 力が、抜ける。 あれほど自信があった、岩をも動かす自分の前足が、言うことを聞かない。
ドサリ、とクマキチは台所の入り口で倒れ込んだ。
(……あれ?)
視界がぼやける。 あれほど執着していた「ご馳走」の匂いが、急にどうでもよくなってきた。 代わりに、火薬の匂いと、自分自身の血の匂いが鼻につく。
(……さむいぞ)
あんなに熱かったのに、今度は体の芯が急速に冷えていく。
(……なんだか、眠い……)
遠くで、「二本足」たちが「やったぞ!」「仕留めた!」と騒いでいる声が聞こえる。
(……ああ……やっと、静かになる……)
もう、腹は減っていなかった。 クマキチは、自分が「ご馳走」だと思っていた場所の入り口で、ゆっくりと目を閉じた。 彼を山から引きずり下ろした「甘い匂い」に包まれながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます