第三話:火薬の匂いと苛立ち

第三話:火薬の匂いと苛立ち

クマキチは、腹一杯の満足感と共に山へ戻った。 あの納屋の米は最高だった。あの甘い干し柿も。


(やっぱり、山の下(しも)は最高だぞ)


呑気にそう思いながら、洞穴に戻る。 口元には、乾いた米粒と、嗅ぎ慣れない鉄錆(てつさび)のような匂い(血)がこびりついていたが、クマキチは気にも留めなかった。


洞穴の前で、キツネ先生が震えながら待っていた。


「クマキチくん……あなた……」


キツネ先生は、クマキチの口元と前足の爪先に付着した「匂い」に気づき、青ざめた。


「なんて匂いだ……それは『二本足』の血の匂いじゃありませんか! やったのですか!?」 「んあ? 先生、うるさいぞ」


クマキチは不機嫌に鼻を鳴らした。


「うるさい『二本足』がいたから、ちょっと黙らせただけだぞ。そしたら寝ちゃった。あいつら、本当に弱い」 「寝た……? クマキチくん、それは『寝た』んじゃありません! あなたは……!」


キツネ先生は絶句した。 クマキチは、自分が何をしたのか、まったく理解していない。 彼にとって、人間を殴ることは、うるさいカラスを追い払うのと大差ない行為だったのだ。


「それより先生、あの小屋(納屋)はすごかったぞ。今度からあそこを僕の『餌場』にするんだ」 「もう……もう終わりですぞ……」


キツネ先生はがっくりと項垂(うなだ)れた。「彼ら(人間)は、仲間を傷つけられたら、絶対に許さない。山が火の海になりますぞ……」


キツネ先生の予言は、翌日から現実のものとなった。


山が、急に騒がしくなった。 クマキチの知らない「二本足」たちが、何十人という群れで山に入ってきたのだ。


彼らは、キツネ先生が言っていた「鉄の棒(猟銃)」を手に持ち、変な匂いのする玉(発煙筒)を焚き、大きな声(拡声器)で何かを叫びながら森を歩き回っている。


「グ……」


クマキチは、自分の縄張り(テリトリー)が荒らされることに、強い不快感を覚えた。 木の幹には、人間の油(汗)の匂いがこびりつき、風は火薬の匂いを運んでくる。


(僕の山で、何を騒いでいるんだぞ……!)


クマキチはイライラしながら、岩陰に身を潜めた。 昼間は、彼らがうるさくて眠ることもできない。


空腹が募る。 山の実りは相変わらず少ない。 あの納屋の「ご馳走」が、クマキチの脳裏にチラつく。


(腹が減った……あいつら、僕の飯場で何をしているんだ? 飯を食いに行っただけなのに、なんでこんなに邪魔をするんだぞ!)


クマキチの思考は、もはや「呑気」ではなかった。 食欲と、縄張りを荒らす者への「怒り」が混じり合っていた。


三日が過ぎた。 人間の捜索隊(猟友会)は、クマキチを見つけられずにいた。 クマキチは、自分の山を知り尽くしている。隠れるのは得意だ。


だが、空腹は限界だった。


(もう我慢できない。あいつらがいようが関係ない。僕は僕の飯を食うんだぞ)


その夜、クマキチは再び山を下りた。


しかし、人里の様子は一変していた。 あの納屋があった場所は、煌々(こうこう)と光(投光器)に照らされ、何人もの「二本足」が見張りをしていた。


「グルルル……(僕の飯場なのに……!)」


クマキチは歯ぎしりした。 近づけない。


(……そうだ)


クマキチは鼻を利かせた。 あの「ご馳走」の匂いは、一箇所だけではない。 人里には、あちこちに「食べ物」が溢れている。


(あの納屋がダメなら、別の家(うち)に行けばいいんだぞ)


クマキチは思考を切り替えた。 彼はもう、「ゴミ箱」を探す熊ではなかった。 「家」そのものが「餌場」であると学習してしまったのだ。


彼は、見張りのいない、別の家の匂いを探し始めた。 台所の窓から漏れる、煮物の匂い。勝手口に置かれた、野菜クズの匂い。


(こっちだ)


狙いを定めたクマキチは、音もなく暗闇を移動する。 もう、あの呑気な若熊の面影はなかった。 人里の味を知り、人間の弱さを知り、そして自分の縄張りを荒らされた(と誤解している)、「危険な捕食者」の目つきだった。


「グオッ(そこをどけ。それは、僕の飯だぞ)」


静まり返った人里に、ガラスの割れる甲高い音と、これまで聞いたことのない「二本足」の金切り声(悲鳴)が響き渡るのは、もう間もなくのことだった。

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