第二話:うるさい「二本足」

あれから三日。 キツネ先生は「山が騒がしい。猟友会とかいう怖い集団が動いていますぞ!」とクマキチを説得し続けた。


しかし、クマキチの耳には届かない。 あの日食べた、脳髄を焦がすような「甘い味」と「油の味」。 山のドングリやサワガニは、もう「味がしない」ように感じられた。


「先生は心配性だぞ」 クマキチは大きなあくびをしながら、夕暮れの山道を呑気に下り始めた。


「腹が減ったから、飯を食いに行くだけだ。何が悪いんだ?」 「悪いのは『二本足』のルールだからです! わからないのですか!」


キツネ先生の悲痛な声は、食欲に駆られるクマキチの背中には届かなかった。


人里は、前回よりも騒がしかった。 カン、カン!と甲高い音(警鐘)が響き、あちこちで明るい光(懐中電灯)が動いている。


(なんだか、今日は賑やかだぞ)


クマキチは呑気にそう思った。 いつもの「鉄の岩」(ゴミ箱)は、固く縛られていたり、重い石が乗せられていたりして、簡単に開かない。


「ちぇっ。ケチな『二本足』め。隠したって無駄だぞ」


イライラしながら鼻を利かせると、ゴミの匂いとは違う、もっと純粋で、穀物的な「良い匂い」が漂ってくることに気づいた。


(こっちだ)


匂いをたどると、一軒の古い家(農家)の横にある、木の小屋(納屋)に行き着いた。 隙間から、米袋や干し柿の強烈な「ご馳走」の匂いが漏れている。


(こっちのほうが、美味そうだぞ……!)


クマキチは興奮し、前足で木の扉をガリガリと引っ掻いた。薄い板がミシミシと音を立てる。


その時だった。


「だ、誰だ!」


家の戸がガラリと開き、寝間着姿の「二本足」――腰の曲がった老人――が、震えながら立っていた。


クマキチは動きを止めた。 老人は、目の前にいる巨大な黒い影を見て、息を呑んだ。


「ひっ……! ク、クマだ!」


老人は叫び、傍にあった鍬(くわ)を掴んで、震える手で構えた。 「あっちへ行げ! この、バケモノめ!」


クマキチは、カチンときた。


(なんだ、こいつは)


クマキチの理屈では、こうだ。 「自分は、そこにある食べ物を食べようとしている」 「この『二本足』は、それを邪魔しようと、うるさく喚き、棒を振り上げている」


(……ケチなだけじゃなく、うるさい奴だぞ)


クマキチは、山で遭遇する他の動物にするのと同じように、「威嚇」を選んだ。


「グオオォッ!!(うるさいぞ! どけ!)」


立ち上がり、自分を大きく見せる。 だが、老人は恐怖で動けないのか、鍬を振り回す。


「来るな! 来るな!」


その鍬の先が、クマキチの鼻先をかすめた。


「ッ!!」


ピリッとした痛みに、クマキチの「呑気」な気分が吹き飛んだ。 食欲が、明確な「怒り」に変わる。


(この弱い『二本足』が……僕に逆らうのか!)


クマキチは、目の前のうるさい存在を黙らせるため、太い丸太のような前足を、軽く振り払った。


「うるさいんだぞ!」


ドンッ!!という鈍い音。


老人は、クマキチにとっては「軽く払った」だけのつもりだったが、木の葉のように吹き飛び、石垣に叩きつけられた。


「……ぐっ」


老人は奇妙な声を出すと、そのまま動かなくなった。


「……?」


クマキチは首を傾げた。 急に静かになった。


(なんだ、寝ちゃったのか? 本当に弱いな、『二本足』は)


邪魔者がいなくなったことを確認すると、クマキチは再び納屋に向き直った。 今度は本気で扉に体当たりする。


バキィッ!!


脆い木の扉は、蝶番(ちょうつがい)ごと吹き飛んだ。 中には、夢にまで見た穀物の山(米袋)と、甘い匂いの塊(干し柿)が積まれている。


「おお……! やっぱりここは、ご馳走だらけだぞ!」


クマキチは、倒れている老人のことなどすっかり忘れ、夢中で米袋を食い破り始めた。 ザク、ザク、ザク……。


遠くから「二本足」たちのたくさんの叫び声と、けたたましい音(パトカーのサイレン)が近づいてくるまで、クマキチはそこを動かなかった。


山に逃げ帰るクマキチの口元は、米と、そして彼がまだ知らない「人間の血」で、少しだけ汚れていた。

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