腹ペコ熊のクマキチは、人里の味が忘れられない

メロンパン

第一話:甘い匂いのする場所

「あー、腹へったぞ……」


ドシン、ドシンと重たい体を揺らしながら、主人公の熊――名をクマキチという――は、いつもの寝床である洞穴(ほらあな)でゴロゴロしていた。


季節は秋。山は色づいているが、今年はクマキチの大好物であるブナの実がどうにも少ない。


「昨日のクルミは渋かったし、キノコはもう飽きたんだぞ……」


クマキチはまだ若く、食い意地が張っていた。山の厳しさより、楽して腹を満たしたいという欲求が強い。


そこへ、チョロチョロと賢(さか)しげなキツネがやってきた。彼はこの辺りの事情通で、キツネ先生と呼ばれている。


「クマキチくん、また寝てるんですか。そんなことでは冬を越せませんぞ」 「だって先生、食いもんがないんだ。腹が減っては戦はできぬ、だぞ」 「戦などしなくていいから、ドングリを探しなさい。……ああ、そういえば」


キツネ先生は、鼻先にシワを寄せた。


「最近、風下が騒がしい。サルの連中が、山の下(しも)で『お祭り』を見つけたと騒いでいますぞ」 「お祭り?」 「ええ。なんでも、光る皮(ビニール)に包まれた、甘くて柔らかい『木の実』が、叩けば開く『鉄の岩』(ゴミ箱)に詰まっているとか」


クマキチの耳がピクリと動いた。


「甘くて、柔らかい?」


「関わってはいけませんぞ、クマキチくん」キツネ先生は厳しく言った。「そこは『二本足』(人間)の住処。彼らは火を使い、鉄の棒(猟銃)を持つ。我らのルールが通じない、恐ろしい場所です」


「ふーん……」


クマキチは気のない返事をしたが、その鼻はヒクヒクと風下の匂いを探っていた。


その夜。


クマキチは、キツネ先生の忠告を(半分くらい)守りつつ、こっそりと山を下りていた。


(ちょっと匂いを嗅ぐだけだぞ。ちょっとだけ……)


ブナの森を抜け、雑木林を過ぎると、急に視界が開けた。 そこは、クマキチの知らない世界だった。


チカチカと星ではない光が瞬き、変な油(排気ガス)の匂いがする。


(うわ、変な匂い……)


だが、それ以上に。 風に乗って、焦げた肉の匂い、甘ったるい果物の腐った匂い、そして何かが発酵したようなツンとする匂い(生ゴミ)が混じり合って、クマキチの脳を強く刺激した。


(……いい匂いだぞ)


おそるおそる「二本足」の住処――人里に足を踏み入れる。


静かだ。 夜は彼らの時間ではないらしい。


くんくん、と匂いをたどる。 あった。キツネ先生が言っていた「鉄の岩」だ。


クマキチは前足で器用にそれを叩いた。ガシャン!と大きな音がしたが、構わない。中から、例の「光る皮」に包まれたものが出てきた。


(なんだこれ?)


鼻先でつつく。ビニールが破れ、中から白い、ドロリとした甘いもの(食べ残しのクリーム)が溢れた。


ペロリ、と舐める。


「!!」


クマキチの全身に衝撃が走った。


なんだ、この味は。 山のどんな木の実より、どんな蜂蜜より、濃く、強く、甘い。


夢中で「鉄の岩」をひっくり返し、中身を漁る。 油の染みた紙(ピザの箱)。少しだけ肉が残った骨(フライドチキン)。甘酸っぱい汁が残った鉄の筒(ジュースの缶)。


「うまい……うまいぞ、これ!」


キツネ先生の忠告など、とっくに頭から消えていた。 山で一日中苦労してドングリを探すより、ここで数分漁るほうが、よほど「効率的」だ。


クマキチは、生まれて初めて満腹になるまで食べ続けた。


翌朝。


「クマキチくん! 大変ですぞ!」


キツネ先生が血相を変えて洞穴に飛び込んできた。


「昨夜、人里に降りましたね!? なんてことを!」 「んあ……? 先生、おはようだぞ……」


クマキチは、満足げな顔で腹をさすりながら、大きなあくびをした。


「いやあ、昨日はご馳走だった。人里ってのは、いいところだぞ。食べ物がそこら中に転がってる。明日も行こうと思うんだ」


「馬鹿者っ!」キツネ先生が鋭く叫んだ。


「『二本足』がカンカンに怒っていますぞ! 『我らの食料を荒らした!』『危険だ!』と、今朝から山に向かって鉄の棒を構えています!」


「ええー?」クマキチは心底不思議そうに首を傾げた。


「なんで怒るんだぞ? 落ちてるものを食べただけなのに。彼ら、ケチなんだな」


クマキチには「所有権」という概念が分からない。 彼にとって、食べられるものは、見つけたもののものだ。


「とにかく、もう行ってはいけません!」 「やだぞ。あんな美味いもの、もう我慢できない」


呑気な顔で、クマキチはきっぱりと言った。 彼の目は、もう山ではなく、人里のほうだけを見つめていた。

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