プロローグ 三河大樹寺 栄光への脱出

永禄三年(1560年)五月二十日。昨日の大雨が嘘のようにからりと晴れ渡り、初夏の陽光が差し込んでいた。三河・岡崎の松平家菩提寺、大樹寺の一室では、精も魂も尽き果てた松平元康が、対照的に生き生きとした顔つきの住職・登誉天室と向かい合っていた。


「なんと、ご住職はこの儂に墓場の中の棺桶で死体と一緒に隠れていよと仰せられるのか?」

「いかにもその通り。今はそれ以外この窮地を脱して生き延びる道はござらん。いや厠の床下に隠れるのを厭わなければ別でござるが。」

元康は尾張桶狭間で主家今川義元を討ち取った織田軍に追い落とされて、この菩提寺に逃げてきたのであった。義元が討ち取られる昨日までは総勢二万五千とも言われる今川軍が大攻勢であった。しかし何を間違えたのか、僅か四千やそこらで押し出してきた織田信長に不覚を取り、大将義元が討ち取られてしまったのである。


「住職、厠とか棺桶とかの中に入る人間の事を考えた事が有るのか?」

と元康は気色ばんだが、住職は

「無い、しかし入らなくて困るのはこの住職ではなく、元康殿でござるぞ。儂は織田の手勢にこの寺を取り囲まれて、元康殿を出せと言われたら匿うわけには行かぬ。しかし元康殿がしばらく我慢して棺桶か厠の床下に隠れて下されば、『元康殿は岡崎に向かって逃走した。疑うのならこの寺の中を存分に調べるが良い』と白を切りとおせる。さあ、どちらにするのか、早く決めなされ。ほら織田の追撃軍の鬨の声が聞こえてきましたぞ。」

と意地悪く決断を迫ったので、元康は渋々と選んだ、

「仕方ない、棺桶の中といたそう。それにしても何とも情けない話だ。圧倒的な軍勢で押し寄せて、御大将が討ち取られるとは何という失態なのだ」。


「元康殿、今は起きてしまった事を愚痴るよりも、この場をどのように乗り切るかが肝要ですぞ。現に信長の手勢は直ぐそこまで来ておる。何、これまでに歴史に名を成した偉人達もこのような窮地を乗り越えてきたものだ。藤原信西殿も土の中に潜って源義朝殿をやり過ごそうとしたし、護良親王も経典櫃の中に隠れて北条の追手から逃れたではないか。」

「ご住職、お言葉ではあるが信西入道は隠れきれずに首と胴体が離れることになったし、護良親王もその場は逃れても結局尊氏公の弟直義公が差し向けた淵辺伊賀守に討たれたではないか。縁起の悪いたとえでござるぞ。」

「ん、そうだったかな?まあ細かい事はさておき、儂が言わんとするのは偉人と言うのは大成したのちには色々な逸話が残るという事ですぞ。元康殿も窮地を脱して後に名を成せば、この登誉がいかに立派に元康殿に理を説いたかと言う伝説ができるのだ。ああ、待ち遠しいの。この老体が生きている間にきっと伝説を作るのですぞ。」

と元康の苦難を他所に住職は浮かれていたが、元康が白い目で見ているのに気が付いた。すると彼は誤魔化す様に「ここに丁度良い物が有る。」と言って、「厭離穢土、欣求浄土」と書いてある旗を渡した。


元康は住職に尋ねた。

「ご住職、この小難しい文字がたくさん書いてある旗は一体何か?」

「拙僧にもその意味は良く分からぬ。ただ昔から当寺に有る旗で、何となくご利益が有る気がするであろう。織田軍をやり過ごして、怪しまれずに桶を掘り出すまでには一日はかかる。それまで死体と一緒に過ごす間、それをお持ちになればきっと御仏のご加護も有るだろう。」

と住職は答えた。家康は何故寺にある旗の事も知らないのだと思いながら住職に頼んだ。

「何か腑に落ちんが。では、きっと明日には儂を掘り出して岡崎城まで無事に運んで下され。宜しくお願い致しますぞ。」

「万事お任せあれ。」

と答えて、住職は僧達に死体が入っている桶を用意させた。

「さあ、早く入られよ。織田軍が目と鼻の先じゃ。」

相変わらず嬉しそうに急き立てる住職を睨んで元康は言った。

「ご住職、最初に言った通り、これで儂も最後になるかもしれぬ故、御先祖様に挨拶せねばならぬ。」

「おおそうでござった。さあ位牌はこの通り用意してあるので、手短にご挨拶をされよ。」

“善徳院殿年叟道甫大居士”、”応政道幹大居士”

「ご先祖様、どうかこの元康をお守りください。」

元康は目を瞑ると、祖父清康と父広忠の戒名が掛かれている位牌に手を合わせて祈った。

祖父家康は、三河岡崎に流れ着いていつの間にか豪族となった乞食坊主の安祥松平家の祖松平親氏の子孫で、斯波、吉良、今川の足利一門が強大な勢力を誇る東海地方にて、”奇策”を弄いて彼らに対抗したが、森山崩れで家臣に討ち取られて非業の最期を遂げた。父広忠はその後強大となった東の遠江と西の尾張に勢力を拡大した今川と織田の両家の挟み撃ちに遭い、心労が絶えなかったのか家康が僅か六歳の時に死んでしまった。


祖父と父の墓前に未練がましく手を合わせていた元康だったが、流石に後ろでしきりと咳払いをする住職の圧に抗えずに観念して棺桶に向かった。しかし彼は、それでも縋るように住職に今一度確認をした。

「今更ながらだが、本当に死体の入っている桶に入る必要が有るのか。新しい桶は無いのか?」

「そんなに急には新しい桶も墓場も用意できぬので、こちらで我慢してくだされ。何、武士と言えば戦場では死体の下に隠れて敵をやり過ごすなど日常茶飯事でござろう。」

と住職は言った。家康は嫌々ながらに死体と一緒に桶に入ると悲鳴を上げた。

「まさか死体が怖いのでござるか?」

「違う。この臭さはたまらんのだ。」


元康は虚勢を張ったが、僧達が桶に土をかけ始めると見栄もかなぐり捨てて泣き喚き出した。

「うわー、死体が儂を睨んでいる。ここから出してくれー」、

「武士のくせに何とも見苦しいお方だ。喧しくて仕方ないのう。第一、これだけ煩いと織田の雑兵に見つかってしまうではないか。構わないから、四の五の言わせずにさっさと埋めてしまえ。」

と住職は、心配そうに見ている僧達に指示をした。そして桶が完全に埋められて元康の喚き声が聞こえなくなると、嬉しそうに笑って言った。

「此度の元康殿の危地を救った働きは高く評価してもらわねばならぬ。今年は寄進を倍にして貰うかのう。」


先ほどまでは遠かった織田軍の雄叫びがそこまで近づいていた。そして寺の外ではしじみ売りの声が聞こえた。

「しじみー、しじみー」

「それっ、この寺が怪しい。皆の者踏み込むぞ。」

どすんと人と人がぶつかる音がして、織田軍の兵の怒声が響いた。

「こら、こんな所でしじみを売るな。きちんと前をみて歩かんか。」

「お侍様、これは済みませんでした。これはほんのお詫びに」

「お、なかなか気が利くな。」

「こら、しじみ売りの相手などしている場合か。ここに大高城から逃げ出した松平元康が居るかもしれぬ。奴を捕まえてふんじばれば、儂らもたんまりとご褒美がもらえるのだぞ。」

という様なやり取りが交わされる中、織田軍は大樹寺の境内に入り込んだ。住職の登誉天室が

「これはお侍様方、どうされましたか」

と聞くと、足軽大将と思しき一人が

「我等が主織田上総介様は、逆賊今川義元を撃ちとり、その配下となって我らに刃を向けて逃走中の松平元康を追ってここまで来た。この寺はいかにも逃亡中の大将が逃げ込みそうな寺。元康はここに逃げ込んでおらぬか、住職。隠し立てするとこの寺のためにならぬぞ。」

と問いただした。満を持していた住職は

「そのような方はここには居りませぬ。もしお疑いになられるのなら、この寺と境内をお調べ下され。」

と澄み切った声で言った。


境内では小さな子供がしじみを買いに来た。

「おじちゃん、このしじみを10杯下さいな。」

「うん、10杯だね。坊や。それでお代は。。。。」

と言いながら俺は境内のやり取りに耳をすましていた。

(もし、ここで俺が踏み込んであの足軽達に『お探しの松平元康は墓の中の棺桶に入っております。片っ端から掘り起こして探してみておくんなさいまし』と言ったら、元康も住職も真っ青になるだろう。そして江戸幕府が開設されないばかりでなく、東京ですら今のような大都会にはなっていないだろう)とうずうずした。しかしやってはいけないのだ。あくまでも俺は歴史の証人に徹しなければならない。最近はようやく自制するのにも慣れてきたが、それでもこのような大きな歴史の分かれ目に出くわすとつい、悪い虫が疼くのだ。我慢、我慢。俺はまだ沢山見届けねばならない事があるのだ。

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